第36話 レインコートの男

 そこへ一台の黒い車が、ゆっくり止まった。雨の中を通ってきたような、ずぶ濡れの黒いレインコートにマスクをした男が、車から降りてきた。

「どうかしたのか?」

「子供がぬかるみにはまってしまって」

 ミランダが男の顔を見て、泥に沈んだオットーに目を向けた。もう腰まで泥に覆われている。

「これはいけない。ロープはないのか?」

 アリスは心配そうに、首を振った。

「そうだ。ベルトを使おう」

 男はズボンのベルトを抜き取ると、両手で伸ばして、手頃なロープに変えた。そうして、ぬかるみからはまった、オットーを狙って投げた。オットーは、手に届いたロープをつかんだ。すぐに男がロープを力強く引っ張った。ロープがぴーんと伸びてキリキリ言った。が、オットーは泥に沈んだまま、びくともしない。手が痛いだけで、ぬかるみから抜け出すことができなかった。ぐっと男がロープに力を入れると、オットーの弱い力ではロープが滑って、すぐに手から抜けてしまう。

「ダメだ。子供の力じゃ、支えきれない。体に巻きつけるほど、ロープの長さが足りない」

 男が悔しそうに、顔をしかめた。

「そうだ。ロボットに引かせたら」

 アリスが振り返って提案した。

「ロボット?」

 男が頼りなさそうなロボットを見つけて、怪訝そうな顔をした。

「このロボットは力持ちなのよ。オットーをつかんで引っ張らせるの」

「なるほど、それは頼もしい。だが、ロボットは水に弱いのではないのか。ぬかるみにはまったら、壊れてしまう」

「気を付けてやれば、大丈夫よ。急がないとオットーが沈んでしまう」

「よし、そうしよう」

「オットー、もう少しの辛抱よ。すぐに助けて上げるからね」

 ミランダが最善を祈るような気持ちで声を張って、オットーを元気づけた。オットーは泥まみれになりながら、怯えた顔でうなずいた。

「ロボットの左手にロープを結びつけた。みんなロープをつかむんだ。ロボットが沈まないように」

 ロボットは慎重に、ぬかるみにはまったオットーの方へ歩き始めた。ロボットの足が、すぐに泥の中に沈み始めた。それでも、危なげにロボットはオットーに近づいていく。ロボットは重いから、泥の中に沈むのも早かった。

「よし、そこだ。男の子をつかめ」

 男が張りのある声で叫んだ。ロボットを勇気づけるような声だった。ロボットは男の声に応えて、オットーの上着をつかんだ。ぐいぐいと引き上げていく。その代わりにロボットの体は、どんどん泥の中に埋まっていった。ロボットは、とうとうオットーを引っ張り上げた。

「よし、いいぞ。こっちに来るんだ。助かった」

 男が、オットーの腕をしっかりとつかんだ。もう大丈夫。オットーは、ぬかるみから抜け出すことができた。

「今度は、ロボットだ。ここまで頑張ってくれたんだ。助けて上げないとな」

 男が、顔をくしゃくしゃにしたオットーの肩を軽くたたいた。ロボットは、体半分が泥の中に埋まっていた。みんなで力を合わせて、ロープを引っ張った。少しずつではあるが、ロボットがぬかるみから引き寄せられてくる。

「あと少し、もう少しだ。みんな頑張れ」

 オットーも加わって、ロープを引いた。ロボットが引きずられるかたちで、ぬかるみから出てきた。ロボットの体は泥水が入って、それが関節の至るところからしみ出ていた。ようやくロボットを引き寄せたときには、ロボットは動かなかった。

「大変、ロボットが壊れてしまった」

 アリスが、ロボットの体を揺すって動かそうとした。しかし、ただの人形のように何の反応もない。

「どれ、どれ。私が調べてみよう」

 男が体をかがめて、泥だらけのロボットを確かめた。

「体の中に水が入ったんだ。電気系統がショートしたのかもしれない」

「もう直らないの?」

 オットーが暗い瞳で、男を見つめた。男はためらうようにうなった。それから、首を振った。

「これは、私の手に負えない。でも、心配するな。機械屋に見せればいい。それに少し時間もかかる。あんたら、この町の人じゃないだろ」

 男は、泥だらけのロボットの胸の辺りを、コンコンとたたいた。

「私たち旅の途中なの」

 アリスが男の顔をのぞき込んだ。

「どこまで行くんだ」

「魔法市に帰るのよ」

「魔法市? 魔法の国にロボットとわね」

 男はタオルで手をふいた。

「あなたも、魔法市の人なんですね」

 ミランダが、男の顔色をうかがうように言った。マスクで顔は隠れていたが、人を思いやる瞳には、どこか孤独の光が宿って見えた。

「昔の話だ。今は方々を巡っている。ロボットを運ぶのを手伝おう。駅まで届ければいいんだな」

「助けてもらった上に、済みません」

 ミランダが感謝の意を示して、深々と頭を下げた。みんな泥だらけだった。

「何、これも何かの縁だ。最後まで面倒を見るよ」

 男は駅まで、車でロボットを運んでくれた。そこから先は、動かなくなったロボットは荷物扱いだ。

 引っ越しの家の列車に戻ってくると、オットーは泥だらけの服を脱いで、洗濯機みたいに体を洗った。ついでにロボットの泥も落としてやった。ロボットは見違えるほどに綺麗になったが、やはり動かなかった。壊れたままだ。

 オットーはロボットが壊れたのは、自分のせいのように感じて、胸がちくちく痛くなった。アリスの口数も減って、ずいぶんと元気がなくなった。

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