第3話 身代わり

 その二人の魔法使いの攻防が始まる、少し前だった。

「乗車券を拝見致します」

 車両の入り口で声がして、オットーは振り返った。確かに母親から渡された切符が、上着のポケットの中に収まっていたはずだ。大事にしまっておくようにと、念を押されたからなくすはずがない。強面の車掌の顔を目の前にすると、少し不安になった。車掌が手を差し出した時に、ポケットの中に何も入っていなかったならば、あるいは別の物が、広告や折り紙をたたんだ物が、代わりに入っていたならば、どうしよう。そう思ったときには、オットーは車掌を避けるように、後ろの車両へ移動していた。

 しかし、何時までも逃げ続けることは出来ない。列車は猛スピードで走っていたから、やがて逃げ場を失う。オットーはいよいよ覚悟を決めて、次の車両で車掌が来るのを待つことにした。あまり遠くに行かないでねと注意されていた。濡れ鼠のおじさんをこの列車で見かけた気がして、ちょっと見て来ると言って、母親の側を離れてきたのだ。早く戻らなければいけない。それには、どうしても車掌と出会うことになる。

 車両の貫通扉の向こうに、車掌の姿がちらりと映った。オットーはすぐにその扉が開いて、車掌がここへ入って来るものだと思った。ところが、何時までたっても車掌は現れない。その車両には、二人の男が座っているだけで、他に乗客は見当たらなかった。すると、ちょうど反対側の貫通扉の外に、車掌の背中が見えた。車掌はこの車両を一つ飛ばして、隣の車両に入ってしまった。

 オットーは、何が起こったのか分からなかった。それとも、車掌が貫通扉に映ったのは、見間違いだったのか。別に悪い事をしたわけではないが、オットーはほっとした。改めて上着のポケットを探って、手に触れた物を取り出してみる。切符はちゃんと入っていた。その他に、トランプを小さくした四角いシールが出てきた。

「おっ、これは」

 オットーは切符だけ上着のポケットに戻すと、それも忘れたようにシールをじっと見つめた。シールには、古ぼけた水色の一輪挿しの花瓶が描いてあった。それに、銅の刻印がしてある。シールをゆっくりと傾けてみると、そこだけが光の加減で鈍く銅色に光る。オットーはシールを傾けて、刻印が光って現れる様子を熱心に眺めていた。その仕掛けが面白くて、またシールを傾けた。

 とその時、車両がガタンと激しく揺れて、何かがころころと床を転がってきた。オットーは目を見張った。不思議な一致だった。目の前に転がってきた物と、手の中のシールの絵柄はまるで同じで、シールの中からその花瓶が飛び出してきたかと思えるほど、それはよく似ていた。オットーはうれしくなった。いい事を思い付いたと、そのシールを転がってきた花瓶の底に貼り付けた。それでまた不思議なことが起これば、面白いだろうし、何も起こらなくても満足だった。まるで絵合わせ遊びを当てて、正解を導き出したときの喜びだった。

「これで正解!」

 オットーは、思わず小さな声をもらした。すると、ぱっと車両の天井が明滅し、まばゆい閃光が飛び交うのを目にした。夢を見ているようだった。オットーは、二人の男が車両の中央で、言い争っていることに気付いた。一人は山高帽を被った紳士で、もう一人は黒マントのようなずぶ濡れのレインコートの男だった。オットーは、もう一人の男が濡れ鼠のおじさんのように思ったが、自信は無かった。その時は、まるで別人のような印象を受けたからだった。

 そればかりか、先ほどの光が、今度は恐ろしい蛇の姿を生み出そうとしている。それが、一瞬にしてドーナツに変身したのを見た。信じられない光景が、目の前で展開している。

 また車両がガタンと揺れて、再び花瓶が転がりそうなったのが、オットーは慌てて花瓶に伸ばした手を引っ込めた。

「それに触るんじゃない!」

 鋭い声が聞こえてきた。山高帽の男が感情的になるのは、年に一度か二度あるか無いかのことだった。それも、その姿を誰かが目撃するなど考えられない。それほど彼は追い詰められていた。

「バート、とうとう本性を現したな!」

 レインコートの男は、初めて笑った。笑ったが、底知れぬ不気味な笑みを口元にたたえていた。

 オットーは居合わせてはいけない所へ、うっかり出くわしてしまったのだ。たちまち花瓶は糸で結ばれたふうに、山高帽の男の手元へ引き寄せられた。男は花瓶を手にするなり、稲妻のような恐ろしい声で何か叫んだ。オットーには、その言葉がよく聞き取れなかった。その途端にオットーの全身には、本当の雷に打たれたような激痛が走った。

「何と! 身代わりのシールを使ったな。つくづく運のいい奴だ」

 遠くでそう叫ぶ声を聞いた。オットーは、完全に気を失ってしまった。

 オットーは、車両の床に寝そべっているところを、母親に揺り動かされ、ようやく目を覚ました。

「こんな所で寝ていては、びっくりするじゃないの。もうじきにペングリムですよ」

 オットーの母親が、優しく微笑んだ。列車は、がたんごとんと言ってまだ走っていた。

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