番外 行成君と少納言さん

「貴方の顔が見たいです」

 ぽんと放り投げられた言葉に、御簾の向こうで絶句する気配がした。

 聞こえていないはずがないとは分かっていたが、沈黙に耐え切れず、もう一度

「貴方の顔を、見せていただきたいのですが」

と繰り返した。



  藤原行成は、現在、頭弁である。頭弁とは、天皇の秘書官「蔵人」の責任者である蔵人頭と、各省庁の監督をする「弁官」を兼務する者の呼称であり、一言で言えば行成は、非常に仕事のできる男だった。

 また、美男子で聞こえた父親譲りの美貌を持ち、類稀なる能書家であり、彼の書いた物は土下座してでも欲しがる人がいたほどである。

 が、しかし。この男、能力は人一倍ありながら、誤魔化すことを知らない堅物であり、女房達に歌を詠みかけることもなく無愛想であったため、女性陣には詰まらぬ男と大変評判が悪かった。

 ただ一人。

「あっ、行成くん! おはよう!」

「おはようございます、少納言さん。宮様にお取り次ぎをお願いします」

「うん、少し待ってて、今出ます」

 中宮定子付きの女房、清少納言を除いては。

「今日は、壺にいてくれたんですね」

「だって、貴方が来ると分かっていたもの。貴方と来たら、私が局にいる時だけじゃなくて、実家にいる時だって押しかけてくるんだもん」

「嫌でした?」

「嫌じゃないわよ。休ませてよ、とは思いましたけどね」

 少し皮肉っぽい、だけど嫌味ではない笑い声を、行成は安堵と、少しのもどかしさを以て聞いていた。

 思えば、行成と清少納言は、初対面の時から驚くほど馬が合った。

 父が高名な歌人であるという生い立ち、しかし自身は歌以外で名を挙げているという状況、世に出るのが人よりも少し遅かったという境遇、歌を詠み合うよりも洒落の利いた言葉の応酬をしている方が楽しいと思う性格など、共通項は多い。

 だから、行成は少納言と会うのが好きだった。

 少納言の前に出ると、肩の力が抜けるような、本当に自然でいられるような感覚を覚える。

 また、少納言も、歌を詠まない行成を詰まらない男とは扱わなかった。

 むしろその洒落の分かるところを非常に嬉しがっていたし面白がっていた。

 もしも離れることがあっても、何度でも生えてくる浜柳のように何度でも会おうという誓いと立てるほどに、その友情は固かった。

 けれど、長年のその友情が今は少し味気ないと、行成は思うのだ。

 他の男達と同じように御簾越しに声を聞き、扇越しに会うのを、寂しいと。

 それは、愛や恋と言うには、渇望や欲望にあまりにも欠けていたけれど。

 普通に話している時には案外柔らかな響きの少納言の声を聞きながら、行成は、この人が好きだな、としみじみと思い。

 つい、顔が見たい、と、口にしていたのだ。

 しかし、長く時の止まったような沈黙の後、少納言は

「……行成くん、熱でもあるの?」

という、的外れにもほどがある返事を返した。

「いえ、俺は頗る元気ですが」

「じゃあ、何かの冗談? 流行ってるの?」

「今、俺が思いついて言ったことですよ」

 生真面目に返すと、少納言は今度は溜め息を吐いた。

「何のつもり? 突然、顔が見たいだなんて」

「では逆に訊きますが、少納言さん。永遠の友情を誓い合っておきながら、貴方は俺の顔を知っているのに、俺が貴方の顔を知らなくては、別れた後、どうやって貴方を探せば良いのでしょう?」

「上手いこと言ってるけど、誤魔化されないわよ? 幾ら私達が親友でもね、私達は男と女なのよ。そりゃ、仕事してたら偶然見られてしまうこともあるけど、わざわざ見せるっていうのは、変な誤解をされるでしょう」

「変な誤解というのは、貴方と私が恋人同士だ、とか言う?」

「分かってるじゃないですか」

「宮様には見せているのでしょう?」

 次の瞬間、はぁ? という声と、それを誤魔化すような咳払いが聞こえた。

「だって、宮様は私の主で、女性ですよ? 当たり前よ」

「……愛は性別を乗り越えますよ」

「はぁ、それは反論しないけど、どうして今、私に言ったの?」

 多分、首を傾げているんだろうなと思うが、やはりその表情が想像できないのが、行成は少し嫌だった。

 きっと自分は男同士、或は女同士のように、近しく、長くこの関係を続けたいと思っているのだと、どう言えば少納言に伝わるのか。

 行成が思案していると、少納言が少し動いた気配がした。

「貴方が何を考えてるかよく分からないけど、もう少しこう……考えて喋ってよ。貴方が私とどうにか、その、末まで誓うような仲になりたいっていう話じゃないのは分かりますよ、でも、他の人が聞いて同じように思ってくれるか分からないのよ?」

「考えて喋る、については貴方、人のこと言えないと思いますけど」

「い、今はいいでしょそれは……っ。とにかく、顔は見せません。藤原の生まれで、将来を嘱望される頭弁と、中宮付きの女房っていうだけの私の間に噂が立ったら、貴方が嫁取りの時に面倒くさいんだからね?」

 少納言の言うことは、いちいち正論だった。

 女性の顔を覗き見るのが恋の始まりというくらいに、女性の顔を見るというのは当代、大きな意味を持っている。

 行成の言葉も、非常に風情がないが、結婚の申し込みと取られてもおかしくはないのだ。

 それを恋の沙汰ではないと見抜いている少納言は、さすが親友と言うべきか。

 それでもぐずぐずと渋っている行成に、少納言はうぅん、と言いづらそうに唸る。

「何です?」

「いや、これ言っちゃうと自分に打撃を食らうんで言いたくないんだけど」

「はぁ」

「貴方、面食いでしょ」

「……そんなことないと思いますが」

「いいえ、ある! しかも好みに煩い面食いだわ。顎から首にかけての線が美しい人が良いとか言ってたじゃないの」

「そういえば」

「その基準で言うと……というか、一般的な基準でも、私、かなり不細工なのよ……」

 言いづらそうに、と言うよりも、言いたくなさそうに告げる少納言に、さすがに行成もそれ以上顔を見せろとは言えず。

「……では、貴方を嫌いになりたくないので、顔は見ないようにします」

「……そうして下さい。さて、仕事に戻りましょ」

 というやり取りをして、分かれたのだった。



 という話を、ある日清少納言は、定子にした。

 それは定子が

「最近、頭弁とはどうなの? 相変わらず仲良しなの?」

と振ってきたからなのだが、話し終えた瞬間、少納言の顔に謎の木屑が降り注いだ。

 そして、定子が手にしていたはずの扇が行方不明になっていた。

「少納言、ここは危険ですわ、もう少し後ろへ」

「は、はい……天井が壊れたのでしょうか……?」

 宰相の君に促されて座る場所を変え、ぽかんと天井を見上げる少納言は、知らない。

 新しい扇を受け取りながら、定子が

「あれが再従兄弟で頭弁じゃなかったらどっか下の国の国司にするのに……」

と、呪詛でもかけるかのような声で、権力濫用すぎる発言をしたことを。





 証言者、中宮定子。


「……以上でございます」

「ええ、確かに。ご苦労様、頭弁」

「勤めですので。……時に、宮様」

「何かしら」

「宮様は、清少納言殿の顔を見たことがございますよね?」

「そりゃあ、毎日毎晩、起きてから寝る時まで見ているわよ?」

「……どういう容貌ですか?」

 ぱちり、と扇を閉じる音がして、くすっと笑い声がした。

「教えてやるものか、と言いたいところだけど。そうね……物語の美姫のよう、と言ったら閻魔様に舌を抜かれるだろうね。でも、京で一番可愛い、と言っても過言ではないと、私は思っているわ」

「謎かけですか?」

「本心よ」

 御簾の内と外で、殆ど見えていないはずの眼差しが交錯する。

「ところで、頭弁」

「はい」

「あれと仲良くするのは構わないわ、お前は人一倍頭が良い、そこらの者が歌一つで済ませてしまうような機嫌伺なんかを面白おかしくやれる所をあれが気に入っているのも知ってるわよ。でもね、もしも、あれに何かしようものなら……」

 御簾の向こうからの圧力に、行成は首を横に振った。

「私は少納言を好いていますが、特別な友になりたいというだけで、わざわざ宮様から盗るような面倒なことはいたしませんよ」

 ふぅん、と呟く定子は、一先ずは納得したようだった。

 確かに、歌の代わりに洒落をやりとりしている二人が恋仲と言われても、全くそうは見えない。

 同性であったらこれほど気の合う仲もないだろう、とは見えるのだが。

「ともかく、清少納言は可愛い。これ以上は秘密」

 ふふっと笑う定子に辞去を申し出て、行成は仕事に戻った。





 証言者弐、橘則光。


「は? な……清少納言の顔?」

 きょとん、としている橘則光に、行成はこくりと頷く。

「何でそんなこと気になるんだ? あ、もしかして少納言がす――」

「違います」

「……まだ言い終わってないじゃん」

 ちぇ、と拗ねた則光に、行成は重ねて

「で、どんな顔なんですか?」

と問うた。

 則光は、あぁ、と呻きながら中空を睨む。

 元夫である則光から見て、清少納言はどんな容姿の人か。

 やや間を置いて出てきたのは、

「可もなく不可もなく?」

という微妙な判定だった。

「はぁ……」

「いやそんな変な顔するなって。色々思い出してみたけど、これって欠点はないけど、目を引く美人ってほどじゃ……あ」

 言い掛けて、則光は苦い物を呑みこんだような顔をした。

「何です?」

「いや、大したことじゃないんだけど」

「はい」

「たまにすげー美人に見える時があったな。元嫁の贔屓目とかじゃないぞ」

 また謎かけみたいだなぁ、と思いながら、行成は頷いておいた。





 証言者参、藤原実方


「清少納言がどんな顔か訊き回ってるんだって?」

 別に呼んでいないのに現れ、別に言い触らしたわけでもないことを知っている実方に、行成はちょっと、引いた。

「訊き回ってるってほどじゃありませんよ」

「またまたぁ。ところで君って、清少納言のこと」

「違います」

「まだ全部言ってないのに」

 にやっと笑って、実方は行成の肩を突いた。

 正直、雅男と持て囃される実方の雅の基準は、行成基準ではそうでもない。

 雅より洒落派なのである。

 なので、気障っぽい仕草も、風流と見るよりただただ気障に見える。

 まぁ、自分の好みと違うだけだろう、くらいは理解しているので、好ましくないと公言することもないが。

「俺は先を急ぎますので……」

「えぇ、いいの? 私、少納言の顔、見たことあるよ?」

「そうなんですか?」

「元彼だもの」

 思わせぶりににやにやする実方に、気持ち悪いと思うよりも好奇心が勝った。

「……どんな顔でした?」

「すっきりした感じで爽やか系だったよ」

「なるほど」

「あと、目が強いね。時々ね。それがほんとに綺麗でねぇ、でも私には過ぎたるものだったよ」

「はい?」

 彼から求められたら断る女性などそう多くはないだろうという美男子である実方が、元夫から可もなく不可もないと言われた清少納言を過ぎたものだと評する、というのは何なのか。

「それ、いわゆる女性を立てて、というのでは、ないのですよね?」

「あっはっは、本気も本気、大真面目だよ! 清少納言は近くで見ると美しいけれど、遠くから見ると凡庸だよ」 

 普通は逆ではなかろうか、と首を傾げている間に、実方は仕事に戻ってしまった。




 さて、結局、清少納言の容姿についてよく分からないまま、数日後。

 宿直明けの朝、行成は欠伸を噛み殺し書類を眺めながらよろよろと歩いていた。

 宿直は嫌ではないが、そのまま休める同僚を横目に仕事を片付けなくてはいけない自分は一体何なのかと、ちょっと切なくなる。

 そう言えば今日は帝は登花殿、中宮定子の所に行っていたなと、帝に目を通してもらわなくてはならない分を分けながら思い出す。

 中宮定子と言えば、清少納言の顔を見てみたい問題は全く進展していないなと、ついでに思い出す。

 まぁ、本気で嫌がられたら引き下がるが、多分見たとしてもそこまで怒らないのではなかろうか、と行成は何となく思っている。

 外から声を掛けようとするが、早朝だったので憚られ、小廂までくらいなら入っても大丈夫だろうと、行成は中に入る。

 と、そこに二人の女が寝ているのが見えた。

 恐らく帝がいらしているために宿直をしていたのだろう、悪いことをした、と思いながら、行成は女達から見えないように身を隠す。

 すると奥の戸が開いて、帝と定子が現れた。

 宿直の女二人がわたわたと慌てている物音が聞こえる。

 その、一方の声にはとても聞き覚えがあって。

 帝や定子とやり取りする中で、定子は確かに女の一人を少納言、と呼んだ。

 呼ばれた方は、にこにこと定子を見詰めている。

 なるほど、凡庸だな、と行成は思う。

 本人が言うほど見られない顔、というわけではないが、美人と言うにはいまいちだ。

 少納言は、定子や帝と少し話をして、頭を下げた。

 二人は寄り添ったまま去っていく。

 帝と定子の姿が見えなくなると、すぐに少納言はもう一人の女と話を始めた。

 いかに帝と定子が並ぶと素晴らしかったか、お茶目だったか、麗しかったか。

 語る口調にはどんどん熱が籠ってきて、行成は思わず、ああ、と声を出していた。

 言葉を重ねるごとに、目に力が入る。

 俯く一瞬、思案する一瞬、確かに、綺麗だと思う瞬間がある。

 特に、定子に対して慕わしいと表現する時は格別だ。

 自分を褒める時だけ美しい表情をする女房を、主が嫌いになれるはずもないだろう。

 綺麗な人だな、と思って見惚れていると、不意に少納言と目が合った。

「……ゆきなりくんっ!?」

 ぎょっとしながらも咄嗟に少納言は扇を開くが、はっきり言って、もう無意味である。

「あー、すみません。全部見ちゃいました」

「何で、だって顔は見ないって!」

 すみません、と謝りながら、行成は少納言に近づいて、扇を取る。

 少納言は、一瞬扇を取り戻そうと動いたものの、すぐに全部見られていることに気付いて、それを諦めた。

「女の人は寝起きの顔がいいって本当ですね」

「もう、冗談の性質が悪いわよ……これはちょっと、笑えない」

「すみません。でも、少納言さん、綺麗ですよ」

 そう言いながら、マジマジと顔を見る。

 しょうがないなあ、という顔をして、少納言は笑んで見せる。

 顔が近い、という怒号と共に扇が行成の後頭部を直撃するのは、数瞬後のこと。



 以来、ちょくちょく少納言の私室に入り浸るようになった行成に、気軽にお部屋訪問のできない定子がギリギリしたのは、少納言には与り知らないことである。

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