録 イラスト交換する定子様と少納言さん
「ねえ、あの話聞いた?」
「ええもちろん。……が、……で」
「そうそう、変じゃない?」
「変よねえ」
とある日の梅壺、の廊下にて。
妙な噂を聞いた中宮付き上臈女房、宰相の君は。
あ、また面倒なことになる、と胸の内だけで呟いた。
「み……宮様、碁など如何ですか?」
「気分が乗らないわ」
「ならば絵を……」
「良いってば、お前達で楽しみなさい」
ふう、と溜め息を吐いて、定子は脇息に凭れ掛かる。
これどうしますか、お菓子持ってきますか、と女房達がひそひそ話し始めるのに突っ込む気もないようで、その白く細い指先で扇を弄ぶ。
黒く艶めく髪が頬に掛かる様は、彼女の後宮でも随一の文章家が見ればさぞや美しく描いてくれることだろうと思うが。
定子の溜め息の原因も、その随一の文章家なのだった。
曰く。
清少納言の局に、男が出入りしている。少し身分の低い男であるようだ。昨日などは雨だったので傘を借りて帰った。
そのような噂が流れて、数日。
定子後宮の女房達はその噂を主の耳に入れぬようにと必死に防いでいたのだが、当事者である少納言の局から出ていくその男は何度も目撃されており、とうとう主の耳にも届いてしまった。
少納言に言い寄る男性は、実は多い。
家柄、教養、容色のいずれか、或は全てに秀でている者ばかりの中宮付き女房が、中宮への伝手欲しさにという下心を差し引いても言い寄られないはずがないのだが、それにしても少納言に懸想する者は不思議と絶えなかった。
しかも、いずれも人より秀でた物のある者ばかりで。
だが、少納言は、言い寄ってくる誰とも友達として大事にしながら、誰にも靡こうとはしなかった。
敏い彼女は、後宮に近い男性陣の評価をそれとなく定子に伝えるのも仕事のうちと早いうちに気付いている。
だからこそ、特別に仲のいい男性官人は何人もいたが、そのうち、明確に恋人であるという相手は、後宮に仕えるようになってからは、作ろうとしなかった。
一人を特別に恋人としてしまい、自分の眼が曇ってしまうことを怖れていたから。
あの方はここが素晴らしい、その方はこのような長所がある、とその観察眼を発揮して事あるごとに定子に進言している少納言は、その振る舞いに反して非常に慎重で、言ってしまえば、初心だった。
定子は、そんな少納言の心持を嬉しく受け止めている。本人からも
「私は好きな人ができるとその人をばかり贔屓してしまいそうですから。そんなこと、私が許せません。実家ならばともかく、ここで、定子様のご迷惑になるのは嫌です」
と恋人を絶やしている理由をはっきりと聞いている。
だからここで働いている限りは少納言は独り身だと思って安心していたのだが、なるほど官人でなければありか、と噂を聞いて定子はギリギリと歯軋りした。
「……私だって少納言の局に行きたいのに。入りたいのに。どんな香使ってるのかとか衣装の拘りとか事細かに漁りたいのに。畜生あいつ牛の糞踏んづけろ」
「宮様、人格が壊れておられますわよ」
「…………ふう」
崩壊の痕跡を溜め息一つで消し去って、定子はゆるりと脇息に肘を預ける。
と、右兵衛督が無言で硯と墨と筆と上等な紙の乗った盆を差し出した。
「分かってるわよ、分かってる」
その一言で筆を取ると、定子はさらさらと紙に書き付け始めた。
さて。
少納言に漢詩を教わるという名目で局に入った右京の君は、少納言が丁寧に教えてくれるのも右から左で、その顔をちらちらと見ていた。
俯く顔は、女性としては中の中から中の上の間くらいの、まあ醜女ではないけれど美女かと言われるとどうか、という程度の物だ。
その上、頭が良すぎるのに抜けていて、今とて右京の君が漢詩を教えてほしいと言ったら当然のように漢詩の本を持ってきた。
それで男のようだなどと悪口を言われるなんて想像もしていないのだろう、宮中で暮らすのに必要だからもっと学びたいという右京の君の弁を丸ごと信じているのだろう。
こんな変な人のどこが良いのかあの主は、と胸の中で問うが、全部可愛い、という声が主の響きで返って来た。もちろん、これも右京の君の胸の中だけであるが。
「それで、ここが……あの、右京さん? 先ほどから、私の顔に何かついてますか?」
訝しげに、しかし遠慮がちに問う少納言に、右京の君はそろそろ本当のことを言うべきかな、と判断する。
「ねえ、少納言さん」
「はい」
「男、できた?」
「………………はい?」
たっぷりと間を置いた後に訊き返され、右京の君の直感は、これは「ない」と断じた。
「え、私に、ですか?」
「ええ、貴方に」
「まさか、そんなことありませんよ」
「でも、噂になってますよ? 少納言の部屋から男が出てきた、って」
「……あぁ……」
なるほど、という顔をした少納言に、右京の君は勘が外れたか、と思ったが。
「あれは、うちの兄の乳兄弟です。実家から入用な物を、仕事のついでに届けてくれるんです。本とか」
「……あぁ、そういうこと」
そういうことならば、納得せざるを得ない。
兄弟の乳兄弟と言えば、その人物もまた兄弟同然で、それとどうこうなろうなどと、血縁的にはともかく気持ちの上では殆ど近親相姦の勢いである。
身分が低いようだ、というのにも納得がいく。
「宮様が、気になさってましたよ」
「え、宮様の御耳にまで入ってるんですか?」
「もう、とっくに」
そう告げると、少納言はうわぁ、と呟いて頭を抱えた。
「ど、どうしたの?」
「だって、宮様にそんな恥ずかしい話を知られて、幻滅されたら……!」
「……幻滅は、しないと思う」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
それでもまだ唸っている少納言の局の外から、
「少納言様、清少納言様」
と声をかける者があった。
「あ、はい」
「宮様から文が」
「えっ」
途端にぱあっと笑み綻んで、少納言はいそいそとそれを受け取った。
それを開くと、大きな傘とそれを持つ手、そして言葉は「朝日が昇って照らされて」とだけ書かれていた。
「……え、これって……」
「三笠山朝日が昇って照らされて、ですね」
「お返事は急いで、と仰せです」
「畏まりました」
少納言はにこりと微笑んで、筆を手に取った。
そして別の紙に雨の絵と、隅に「でなく名が広まることよ」、ついで「だから濡れ衣も着なくてはならないのですね」と書き添えた。
下の句として、「雨でなく名が広まることよ」、つまり、そんな事実はありませんが、と返したのである。
「これをお願いします」
そして、少納言はそれを使いに返した。
カツカツ、カツカツ。
「宮様、扇が折れます」
「だって返事が来ない」
「まだ出して四半刻も経ってはおりませぬが」
「四半刻も経ったの!?」
女房達が本気で出て行きそうになっている定子を宥めていると、使いが戻ってきた。
定子は差し出された文を引っ手繰ると急いで広げ、そして。
「……ふふふふっ」
満足気に、笑った。
「ねえ、少納言」
「はい」
「この間の絵入りの手紙、気に入ったから人に自慢しても良い?」
「えっ、駄目ですよ、あんな下手な絵……」
「というと思ったからもうしちゃったわ」
「宮様ぁ……」
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