伍 香炉峰の雪は、異聞
「納得できません!」
と、物凄い剣幕で詰め寄ってくる女房一同に、定子は
「何が?」
と問い返した。
「清少納言のことです」
「少納言程度の身分のくせに、毎日毎日、宮様の御前に呼ばれて」
「伊周様や隆家様とももう顔合わせしたとか」
「あの者のどこが良くてそんなに引き立てるのですか!」
口々に言われ、定子は何とはなしに斜め上を見た。
「まあ、そのうちそう来るかしら、とは思っていたけれどね」
そして最前列に控える宰相の君、右兵衛督にそれぞれ視線を向けた。
「お前達もそう思っているのね?」
「そうですわね……私が未熟ゆえでしょうか、清少納言に宮様が何を求めているのか、分かりかねている部分はありますわ」
「右兵衛も?」
「左様。藤原元輔の娘とは言え、参内してからの清少納言は特にぱっとすることもない、身分も容色も受け答えも平凡な女房なれば、宮様のお引き立てのほどは過分かと思われまする」
「……右兵衛」
「はっ」
「堅いわ、お前」
「これは失礼を」
ふう、と溜め息を吐いて、定子は肘を突き、手の甲に顎を乗せる。
そしてふと、女房達の更に後ろに目を遣った。
「ねえ、宰相」
「はい」
「香炉峰の雪は、どんな風に見るのだったかしら」
「え? ……御簾を掲げて見るもの、と申しますわ」
「うん、そうね、そんなところね」
「白楽天がいかがなさいましたの?」
「それはこれから分かるわ。さて、誰か少納言を呼んできてちょうだい。どうせまた局に引き籠っているはずだから」
定子の言った通り、局に引き籠って物語など読んでいた清少納言は、慌てて身支度を整えて現れた。
「お、おはようございます、宮様」
「おはよう、少納言。よく眠れた?」
「はい、お心遣い、痛み入ります」
そつなく受け答えしながらも、少納言の視線は落ち着かない。
妙に人の多い部屋、せっかく雪が降ったと言うのに雪見もせずに閉ざされた格子。
何だかぴりぴりした空気に、少納言は深く息を吐いた。
「それで、今日はどのような? 物語でしょうか、雙六のお相手を?」
「別に用事はないわ。お前の顔が見たかっただけ。と言うかね。女房だったら呼ばれなくてもここに来るものよ? それを隙あらば自分の局に引き籠って……」
「も、申し訳ございません……」
「まあ、良いわ。ところで少納言」
「はい」
「香炉峰の雪はどんなものだったかしら」
それは、少し前に宰相の君にしたものと同じ問いで。
その瞬間、何人かは、緊張しきって強張っていた少納言の表情がすうっと凪ぐのを見た。
少納言はすぐに立ち上がると、簾の前に行き、女官に格子を上げるように言う。
そして自らは簾を軽く持ち上げると、
「こうして御覧になるものです」
と答えて微笑んだ。
その笑みと眼差しは、引き込まれそうなほどに強く。
さっきまで緊張して強張っていたのが嘘のようだった。
「……なるほど」
「宰相には分かったのかしら」
「ええ、確かに……彼女は、宮様の女房に相応しい方ですわね」
そして恐らくは、誰よりも。
居並ぶ女房達は教養もあり名のある家の出で、これまで定子の問いに即座に応えてきたつもりだったけれど。
定子の心底満足そうな顔を見れば、このような反応が欲しかったのだとよく分かる。
「もっと試したいなら、そうしても構わないけれど」
「いいえ、もう充分ですわ」
そう、と笑って、定子は女官に簾を半分ほど上げるように言う。
それから火鉢を持ってこさせて。
「少納言。こちらにいらっしゃい。雪見をするわよ」
「えっ? いえ、そんな、私なんかここで充分で……」
「何か言ったかしら?」
「……いいえ、そちらに参ります」
さっきのは見間違いかと思うほど、がちがちに緊張しているいつもの状態に戻った少納言は定子が良いと言う距離まで近づく。
その距離は、定子の几帳のすぐ前だった。
しかもその日は、夜が更けても少納言は局に戻ることを許されず。
定子が満足して寝所に戻るまで定子に直に話しかけられ続け、時には手が触れ合ったりして、慌てて謝罪しているとからかわれ。
朝になって局に戻ることを許された少納言は、極度の緊張から解放された安堵感からか、よろよろと衣を重そうに引き摺りながら帰っていった。
そして、あれ、これって清少納言を気に入ってるとかそういう段階じゃないのでは? とうっすらと気付いた女房達は、過分な寵愛がどうとか言っていたのも忘れ、多分に同情を含んだ眼差しで、疲れ切った清少納言を見送ったのだった。
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