参 少納言さんは割と抜けている
そわそわ。そわそわ。
「宮様、落ち着いて下さい」
「落ち着いてるわよ」
「どこがですか、さっきからそわそわなさって。少納言ならじきに参りますよ」
諌められた定子は、扇で口元を隠しながら女房達をじろりと睨んだ。
「そんなこと言って、お前達こそこんなに早く全員集まって、楽しみにしているくせに」
「まあそれは、そうですね」
宰相の君は居並ぶ女房達を見て、苦笑いを浮かべる。
定子から紙を譲られた清少納言は、その希望通りに紙を枕元に置いて、或いは机に上げて、毎晩毎晩覚え書きを書いていた。
それを少しずつ書き直した物を草子にまとめて定子に提出しており、最初は定子と少納言だけのやり取りだったのが、いつの間にか他の女房達の楽しみともなっていた。
きちんと書かせてみて初めて分かったのだが、少納言は非凡な文才の持ち主だった。
思い出を書けば誰も彼も生き生きと鮮やかであり、或いは好きな物、ある題材に沿った物を適当に挙げて綴っていたかと思うと、そこからの連想が美しい絵のような描写を生み出していく。
また、いつの間にそんなに見ていたのかと驚くほどに人や物事に対して鋭い観察眼を発揮しており、その観察眼が、誰もが思わず頷いてしまうような文章を支えていた。
今日も、前回から進んだ分を持ってくる、と少納言が言ったので、早くそれを読ませてもらおうと、定子の壺に女房達がほぼ全員集合しており。
しかし、当の少納言はまだ現れなかった。
「……少し、遅いわね」
「局を見に行きましょうか」
「そうねえ……」
定子が思案していると、軽い足音が近づいてきて、
「遅くなりました!」
と声を上げながら少納言が入ってきた。
「どうしたの、遅かったじゃない」
「申し訳ありません、少し、立て込みまして……」
少納言は困ったような顔をしながらも、薄い草子を差し出した。
「立て込んだ、とは?」
「実は、その……昨日、実家に経房さんがいらっしゃいまして。今まで書いた草子を持ち出されてしまって、その中に、今日お見せする分も入っていたものですから、書き直しなどしておりました」
草子を受け取る定子の指に力が入る。
そのまま、捲ろうともしない定子に、少納言は首を傾げた。
「宮様?」
「……なさい」
「え?」
「回収してきなさい! 今すぐ!」
「でも、新しい分はちゃんと……」
「今までのも含めて、全部取り返せと言っているのよ。あれを外に出すことは、絶対に許しません。今すぐ行ってきて!」
厳しい口調で言われた少納言は消沈して、頭を下げる。
「畏まりました。不手際、申し訳ございません」
そして静かに出ていく、それを追って中納言の君が立ち上がった。
「少納言、少納言」
廊下で呼び止めると、少納言はゆるりと振り向いた。
「中納言さん、どうかしましたか?」
「どうかしたかって……貴方こそ、落ち込んでるようだけど、大丈夫?」
「ええ、私は大丈夫です」
そう言う端から少納言の目に涙が浮かんで、中納言の君は慌てた。
「ちょっ、そこまで落ち込まなくても、宮様ならすぐにいつも通りに……」
「違うんです、私、自分が恥ずかしくて、情けなくて」
「……どうして?」
「だって、宮様から頂いた紙に何か書くということは、それは人が読んだ時、宮様の評判が上がるような物でなくてはいけないでしょう?」
「まあ、そうね」
普通はね、と続けると、少納言はこくんと頷いた。
「でも、宮様は、それを外に出すなと仰った。つまり、私の書いた物は人に見せられるような出来栄えではないんです。でも、宮様は、いつも、面白い、続きは、と仰ってくれました。主に気を遣わせて、嘘を吐かせるなんて、しかもそれに今まで気が付かなかったなんて、私は女房失格です」
とうとう少納言はぽろぽろと泣き始めてしまう。
ああどうしよう、うちの宮様は絶対そんなこと考えてないって教えてあげたいけどきっと信じないだろうし、と中納言の君はおろおろする。
しかし、中納言の君が何か声を掛ける前に、少納言は
「ごめんなさい、良い年して人前で泣くなんて、みっともないですね」
と自分で涙を拭った。
「すぐに経房さんに使いを出してきます。また後で」
そう作り笑いをして中納言の君に軽く頭を下げ、少納言の姿は局に消えた。
それを見送った中納言の君は、その足で定子の元に取って返す。
先ほどよりも少し人数は減ったものの女房達がひしめいている間を縫って、定子の前に腰を下ろした。
「宮様」
「……なによ」
「こんなことは申し上げたくはないのですが」
「じゃあ黙っていなさいな」
「いいえ、言わせていただきます。少納言に謝って下さいませ」
「は?」
主が従者に謝罪しろなんてはっきり言葉にして言って良いと思ってるのか、と定子の視線が告げていたが、中納言の君はもう一度
「少納言に謝って下さい」
と言った。
「宮様、少納言の草子、大好きですよね?」
「そっ、それは……そうだけど」
「外に出すなっていうのも、大方、独り占めしたいからですよね? 本当は私達に見せるのも嫌なんですよね?」
「うっ……」
「……少納言、泣いてましたよ」
「えっ?」
「宮様に面白いなんて嘘吐かせて、それに気付けなかった。自分は女房失格だって」
「まさか、少納言が……」
いつも何かしら楽しそうで、にこにこしていることの多い少納言が泣くなんて、想像もできなかった。
「宮様。私達の書く物、することは、全て回りまわって宮様の名を高めるものでなくてはならないと、少納言は分かっておりますよ。だから、外に出すなと言われて、今まで面白がってくれていたのは自分を気遣った嘘だったのだと、涙を流したのです」
「そんなつもりじゃ……」
「ね、宮様。だから、少納言に……」
「……だって」
「はい?」
「だって、惚れちゃうじゃない。あんなの出回ったら」
「……少納言に、ですか?」
「そうよっ! 可愛いわ頭いいわ文才あるわって惚れないわけないでしょ!」
それはそうですけど身分か名声か何かの才がないと中宮付きの女房なんてなれないんですけどね、と思いつつ更に言い募ろうとした中納言の君より早く、
「私も、宮様は少納言に謝るべきだと思いますわ」
と言う者があった。
「宰相……お前もなの?」
「ええ」
宰相の君は、少納言が置いて行った草子を改めて差し出した。
「どうせ少納言のことですから、客が来るのを忘れて草子を書いていて見つかったか、片付け忘れて見つかったか、どちらにしろそういう間抜けな経緯で草子を持ち出されてしまったのだろうな、と思いますけれど」
「……怒るわよ」
「まあ、最後までお聞き下さいな。外に草子が出てしまったのは少納言の不注意です。でも、少納言がお役目として以上に宮様を大切な方と思っていること、今までの草子を読んでお分かりでしょう?」
「そう、ね……」
「どんな素晴らしい殿方との恋に破れたとしても、きっと彼女は泣きませんわ」
定子は草子を受け取った。
彼女の性格をそのまま表したような、流麗な女手でありながらどこか躍動感のある字に、とても少納言に会いたくなった。
「……少納言を呼んできて。それから、二人きりで話をしたいから、人払いを」
「…………宮様、まさかとは思いますが、くれぐれも道を踏み外すことなどなきよう……」
「謝れって散々言っておいて、今の流れで何でそうなるのよ! 真面目な話よっ」
「ふふ、冗談ですよ、すぐに呼び戻します」
と、いうわけで。
局で手紙を書いていた少納言は、呼び出されて再び定子の前に参上した。
しかし、いつも以上に深く顔を伏せたまま、一向に動こうとしない。
「少納言、顔を上げて」
「いえ、今の私は見られた顔ではございません。どうかこのままでご容赦を……」
「駄目よ。顔を上げなさい」
渋々といった様子で、少納言は顔を上げる。
その目元が、明らかに泣いたように赤くなっていて、更にまだ泣くのを堪えるように唇を噛み締めていて。
罪悪感でおかしくなりそうだった。
「あの、ね、少納言。さっきのことだけど……」
「さっき?」
「お前の草子を、外に出すなと言ったこと」
「はい」
「きつく、言い過ぎたわね……悪かったわ」
「いいえ、私こそ、せっかく頂いた紙を長らく無駄に使っていたと思うと、何とお詫びすれば良いか……。お許しいただけるのであれば、精進していきたいのですが」
違う、そうじゃない、と定子は唇を噛む。
伝えたいのは、そういうことじゃなくて、欲しい答えもそれじゃない。
「少納言、もう少し近寄って」
「はい」
手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて、扇も横に置いて。
定子は、腹をくくった。
「少納言、私、お前に謝らなくてはいけないことがあるの」
「それはもうとっくに……」
「違う、の、きつく言い過ぎたとか、じゃなくて。外に出すなっていうのは、その……ええと、あのね……ただ、もう少しの間、私だけの、にして、おきたくて…………」
きょとん、として少納言が首を傾げる。
「だ、だから……私は、お前……の、こと、が、じゃなくて、書いた物が! 書いた物がね! 好きだから!」
口に出して思う、本当に子供っぽい独占欲だ。
自分を喜ばせようと一生懸命でいてくれたのに、勘違いさせて泣かせて。
なかなか伝わらない思いに辟易するのは定子の事情であって、少納言は彼女の誠意を尽くして仕えているのに。
「……それは、私に配慮して下さっているのではなく?」
「違うわよ! ……本当に、本当にお前の書く草子が好きだし、楽しみにしているわ。いつかは出回らせなきゃいけないって分かってるのよ。お前達が仕えているのは、そのためでもあるんだから。でも……暫く私だけの宝物にしておきたかったの」
「わた、し、は……宮様が、人に見せびらかしたくなるようなのを書ければ、と思っておりました。だから、出すな、と言われて、そんな価値のない物を書いてしまったのかと、申し訳なく……」
「だから、それは、ごめんね?」
「いいえ、もう良いんです。謝らないで下さい」
少納言は定子の手を取ると、柔らかく微笑んだ。
「あの草子が宮様の宝物になっているなんて、これ以上嬉しいことはありません。私は幸せ者です、宮様」
「ええ、だから、お前が女房失格なんて、そんなことはないわ。絶対に」
はい、と頷く少納言は、目元の赤いのもそのままに、むしろ、目元の赤さが笑みを艶めかせていて。
思わず少納言の手を握り返した定子は、次の瞬間、内心で錯乱した。
少納言の手は少ししっとりとしていて、それでいてひんやりとして、いつまでも握っていたいと思う。
しかし、一応話に決着はついたのにいつまでも手を握り返し続けるのはどうなのか。
さりげなくこちらから離すべきか、それとも引き延ばすか、と悩み、しかし少納言の笑顔を見ていると何だかどうでもよくなってきて。
結局、少納言が
「あっ、申し訳ございません、宮様の御手に触れるなんて……!」
と気付いて自ら手を離してしまうまで、その手の感触を堪能し続けたのだった。
ところで。
一応人払いはされていたものの、すぐ隣りの部屋で顛末を固唾を飲んで見守っていた幾人かの女房達は。
「何であれで宮様の気持ちが伝わらないんだろう……」
と首を傾げるしかなかったという。
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