弐 少納言さんは紙が好き

 定子の兄から大量に紙が送られてきた。

 万葉集か何かでも写せと言うのか、とぼやきたくなるほどに大量の紙に、定子は小さく溜め息を吐く。

「お兄様ったら、こんなにどうしろと?」

 日々の歌のやり取りのため、日記のためなど、要所に紙は必要だが、仕舞っておけないほどには必要ない。

 上等な紙なのだから何かに使いたいとも思うのだが、是非とも書き写したいと思うような読み物の類も今はない。

 となると女房の誰かに譲るのが良いか。

 そこまで考えた定子の頭の中に浮かんだのは、たった一人だった。

 「好きな物は沢山ありますが、紙と綺麗な畳さえあればずっと生きていけると思います」と握り拳を作ってまで言っていた、定子よりずっと年上の女房。

 質の良い紙は誰もが欲しがる物だが、とにかく沢山紙が欲しい、と言う者はあまりいない。

 学者か、坊主か、歌人か。そういえば彼女の家は歌人の家系だった。

 できれば全部譲ってやりたいが、欲しがる者がいないような物であったとしても、彼女一人を名指して何か与えることは、他の女房達に対して角が立つ。

 さてどうすれば穏便に与えられるか、と考えて、定子は何だか急に腹が立って、持っていた扇で文机を叩いた。

 こちらは彼女のことですぐに頭がいっぱいになって、どうしたら喜ぶのか、どうしたらもっと笑うのか、そんなことばかり思っている。それなのに、当の本人ときたら呼ばないと来ないし、あちらこちらに興味を移して、自分以外と交友を広めて、そちらとは楽しそうなのに、自分に対しては今でもがちがちで。

 それは別に色っぽい意味ではないのは知っているけれど、というか、彼女の興味は人間以外にも強く向いているのでいちいち咎めたりはしない。

 人付き合いを広くしているのは、定子のためでもあるのも分かっている。

 それでも、腹立たしいと思って仕舞うのは仕方がない。

「……実に不公平だわ」

 やっぱり止めよう、自分の紙なのだから、何か面白い物を書いてくれそうな女房に与えて楽しませてもらうべきだ、と一人頷いて、定子は人を呼ぶ。

 そして紙を全て女房達の控えている間に持っていくように指示をした。



「……というわけでね、兄様がこんなに紙を下さったのだけれど。私一人では使い切れないから、誰か何か書かない?」

 定子が問いかけると、あちこちから万葉集、古今集、あるいは竹取、宇津保、はたまた新しい物語でも、という声が上がってきた。

 しかし、定子が最も意見を聞きたいと思うその人、清少納言は、他の女房のように何かの名を挙げるでもなく、うっとりとした表情で紙を見つめていた。

 ぽわ、ぽわ、と小さな花でも周りに浮いていそうなその表情と、人はそんなに分かりやすくなれるのかと思うほどに輝いてる瞳は、とても魅力的だった。

 なので、定子は扇を持つ手に力を込めた。

 房飾りがぶるぶると震えているのは、「かわいい」と「こっち見ろ」で混乱しているのだろう、と一番前にいた女房達は察して、ちょっとだけ、主を憐れんだ。

「し……少納言は、どう思う?」

 突然直に問われて、紙に見蕩れていた少納言はハッと姿勢を正した。

「は、はい、何でしょうか!」

「少納言ならばこれに何を書く? と訊いたのよ」

「私ですか……?」

 視線が紙の山に戻り、また少納言の顔が笑み崩れる。

 しかしやがて少しだけ引き締めた顔を定子に向けると、

「枕元に置いておきたいです」

と答えた。

 何それ意味が分からない、という空気が女房達に広がったが、定子はその応えにひどく興味を引かれた。

「枕元に置いてどうするの?」

「毎夜、覚え書きをします。好きな物とか、気になったこととか、楽しかったこと、嬉しかったこととか」

「それは、随分と能天気な日記なのね?」

 少納言の書くものを読んでみたい、凄く読んでみたいと思うが、同時に先ほどまで悩んでいた自分を思い出して少し声に棘が混じる。

 が、少納言は棘に気づかないのか

「宮様の御傍にいられて、何を悩むことがあるというのでしょう?」

と不思議そうに言った。

 まさかそう返してくるとは思わず、定子は一瞬怯んだが、たとえば、と意地になって続ける。

「殿方との関係とか」

「宮様がお声を掛けて下さるだけでそこらの男のことなど忘れてしまいます」

「他の子達との関係は?」

「私以外の皆もそうですが、宮様のお姿を見れば、たとえどんな嫌なことも思い出さなくなります」

「親兄弟のことは?」

「もちろん大切ですが、私の中心は宮様です」

「……桜?」

「宮様以上に気に掛けるようなことではございませんわ」

 躊躇いなくするすると答える少納言の顔を見られなくなって、定子は俯いた。

 一番前に座っている女房達には、真っ赤になった耳の色と、握られ過ぎた扇が立てるみしみしという音が届いていた。

 しかし、少しだけ離れている少納言には分からないらしく、

「宮様!?」

と突然俯いてしまった定子を心配して立ち上がろうとしていた。

 それを、二条の君がそっと制する。

「ああ、大丈夫だから少納言、座ってて良いわよ」

「でも……」

 多分赤面してるところなんか見られたら宮様本当に死んじゃうわよ、とは心の中だけで続けて、ほとんど無理やりに座らせる。

 ややあって、深く溜め息を吐いた定子は、ゆっくりと顔を上げた。

 その時にはもういつもの「中宮定子」であった。

「それでは、紙は少納言にあげようかしらね」

 途端、少納言はぱっと花開くように笑った。

「ありがとうございます!」

「その代わり、書けた物は私の所に持って来て」

「もちろんです!一番最初にお持ちします」

 そして少納言はそろそろと近づいて、自分に与えられたばかりの紙をそっと撫でる。

 定子がその横顔を眺めていると、突然目が合って。

「本当にありがとうございます、宮様。大切に、大切にいたします」

 と、蕩けた表情で、しかし真摯に言われ、とうとう定子の扇は砕け散ったのだった。

 


 爆発するように砕けた扇にここらが限界と、

「宮様はこちらで何とかしますから、少納言は紙を片付けておいで」

と女房達によって少納言は局に戻らされた。

 その後、その紙がどうなったかは、また別のお話。

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