ていしさまとしょうなごんさん

清見ヶ原遊市

壱、清少納言さん不在

「……少納言は?」

 起きてくるなりそう訊ねた主に、言うと思ったと生温い笑みを浮かべながら、宰相の君は

「実家に帰りましたよ」

と告げた。

「は? 聞いてないわよ」

「昨日、衛門府の詰所に二条の君達と遊びに行って、帰ってきてから出て行きましたから……宮様は、お休みでしたね」

「どうしてそんなに急いで……せめて私が起きてから出て行けばいいのに」

 むう、と眉間に皺を寄せて不満そうに呟く定子に、宰相の君は今度は声を上げて笑った。

「……なぁに?」

「いいえ、少納言も薄情なことをする、と思いまして」

 微塵も信じていない顔で、そう、と定子は頷くと、用意された朝餉を食べ始めた。

 本人に告げればそうするだろうに、言わないで察しろだなんて困った姫様だこと、と宰相の君は微笑ましく思う。

 中宮定子が、清少納言という名乗り名の、一回りも年上の女房に執心しているというのは、周りの女房には筒抜けだった。

 父の友人の随身の妻が乳母をしていた貴族の友人の上司が道隆であった、という薄いにもほどがある伝手で中宮付の女房になった清少納言でありながら、参内初日に定子に目通りし、その後もほぼ毎日呼びつけられ、自ら定子の部屋に参上すれば真っ先に発見され、そのあからさまな好意に、最初は同僚の女房達のやっかみも酷かったのだが。

 確かな学識とそれを場に応じて求められるまま差し出す機転、見る目も記憶力もありながら、どこか抜けていて、惚けていて、好きな物や面白い、心惹かれる物に対しては隠すことなく子供のように目を輝かせる清少納言に、いつまでも僻んでいても、という空気になり。

 今では、定子の執心っぷりが、

「宮様は私のような身分の低い女房にもお優しくて本当に素晴らしい天女のような方です!」

と心の底から思って、周りに力説している清少納言にいつ伝わるのか、というのが女房達の話の種になっている。

「宰相、碁の相手をして頂戴」

「はい、宮様」

 膳が下げられ、代わりに碁盤が用意される。

 中弁や命婦の乳母、源少納言といった女房達も集まってきて、碁の行方を見守る。

 ぱちり、ぱちりと軽い音が響いた。

「宮様、退屈そうですわね」

「そんな節穴の目で、私を負かせるのかしら」

 ぱちり、と定子の白石が置かれる。

「まあ、少納言だって里心のつくことくらいあるでしょう。私を待たずに帰ったのは、大目に見るわ」

「里心じゃなくて、恋心かもしれませんわねえ」

 瞬間、定子の細い指が、碁石を取り落とした。

 しかし、何事もなかったかのような顔をして、碁盤にそれを置く。

「恋心?」

「ええ。少納言の別れた夫、橘則光。あの人、衛門府にいるんですよね」

「知っているわ」

「今も、互いを兄妹と扱うくらいに仲が良くて」

「……だから?」

「今日は則光さんは参内してないそうですわ」

「誰か! 筆と紙を!」

 うわあ素早い、と呟いたのは誰だったか。

 いつまで家に引き籠ってるんですか、則光に未練があるんですか、という手紙に、すぐにぼちぼち帰ります、でも私は則光に未練なんてないし、宮様にかわいいって思われたいだけですよという返信があったものの、本人は戻らず、定子は更に焦れた。どうでもいいからさっさと帰ってこい嫌いになるぞ、と更に送り付けた結果、清少納言がばたばたと戻ってきたのはその日の昼頃で。

 申し訳ありませんもう宮様のお許しを待たずに実家に帰るなんていたしませんからお許し下さい、と米搗き飛蝗のように必死に頭を下げている少納言と、自分で呼びつけたくせに不機嫌そうにしている定子、というのは女房達にとって割りと見慣れた光景となっていた。

 相変わらず謝罪は微妙にずれていて、しかし、いつも賑やかな風を連れてくる少納言のことは、やはり皆嫌いにはなれなかったので。

 少納言が土産にと持ち込んだ瓜を切り分けたので食べましょうと二条の君が助け舟を出し、定子が良いわね、と応じ。

 それで漸く、少納言は解放されたのだった。


 但し、昼から起きていたというのに、その晩は一晩中自分の局に戻ることを許されず、眠い目を擦りながら定子の相手をするというおまけが、ついていたのだが。

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