第6話 馨と翠(後編)
二か月も経たないうちに馨の容体は悪化し、彼は緩和ケア病棟に移ることになった。病院の許可なしに病室を出入りすることが出来なくなり、俺は受験勉強を言い訳に馨に会いに行かなくなった。
第一志望の大学に合格した日の夜、病院から電話が掛かってきた。病院に着いた頃には、兄はすでに帰らぬ人になっていた。
帰り際、看護師から見覚えのあるノートと一枚の封筒を渡された。家に持ち帰り、自室でノートを開いた。
「あ・・・・・・」
空欄だったはずの十番目が書きこまれていた。
『10. 神屋敷明日香さんとデートする』
「いや、誰だよ!!」
ひとりツッコミを入れた後、俺は部屋の真ん中で呆然と立ち尽くした。
自分の旦那が亡くなった後、旦那の手帳に愛人の名前を発見した妻のような気分だ。深呼吸した後、手渡された封筒を開けたが、それもやはり、俺や家族に宛てて書かれた手紙ではなかった。
『十個目は特別なものにしたいからさ』
馨のことだから感動的な願いを書いてくれると期待していたのに、兄は最後に女とデートすることを夢見ていただなんて。いや、そもそも俺がバケットリストのことを言わなければ、こんな惨めな思いをせずに済んだのだ。
すべては俺のせいだと思い直し、兄の部屋の棚から幼稚園から高校までのアルバムや卒業文集を放り出して、片っ端から例の女の名前を探した。
数十分かけて例の女の名前を発見した。良く言えば清楚。悪く言えば地味。それが神屋敷明日香の印象だった。高校時代の知り合いと分かれば、後は簡単だ。まず兄の携帯から彼女の連絡先を探し、彼女と会う約束を取り付ける。神屋敷明日香とデートし、託された手紙を彼女に渡す。それで兄の最後の願いを叶えたことになる。
たった一日、兄になりきるだけでいい。出来るだけ当たり障りのないことを言おう。そう決心し、実行に移すまで数か月かかった。
神屋敷明日香と大学で出くわした時は、兄が好きだった人とデートした罰が下ったのだと思った。
『好きですって、もう一度伝える。フラれてもいいから、もう一度彼に会いたいの』
兄の死を知らずにいる方が彼女にとって幸せかもしれないと思ったが、彼女の言葉を聞いて、彼女と一緒に墓参りに行くことにした。
前に進むためには、兄の死を正面から受け入れる以外、方法はないと分かっていたから。
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