第50話 プラネットアイズ・アトモスフィア・ドラゴン

 風が吹いた。腐臭を吹き払う、その風が。


 蝶の翼が巻き起こしたその風は毒牙の濃霧を払って紅の壁を破壊する。

 四方を囲む壁のおりが失われて、内と外の世界は再びつながりを取り戻す。


 鎧袖一触とはこのことか。ふふっ、自画自賛だね。

 蜘蛛竜は折れた毒牙をすぐに再生する。


 彼女は宙に浮かぶ僕を睨んでうめいた。


星の瞳の竜プラネットアイズ? これは、なに? ぐっ、頭が……痛む……」


 どうやら蜘蛛竜は……エミリーは自分の中に眠る竜の魂と格闘しているらしかった。


 竜の魂に眠る千年前の記憶。

 すなわちそれは今ここにいるエミリーではない千年前のエミリーの記憶だ。


 言ってしまえば別人の記憶だよ。

 今を生きる者にとっては何の関係もない話だ。


 もちろん、僕にとっても千年前の竜の記憶なんて本当は何の関係もない話だ。

 過去の記憶やビジョンに振り回されるほど、僕だってバカじゃないさ。


 そうだとわかってはいても、今に活かすために得られる情報は大いにある。

 たとえばエミリーの話だ。


 千年前、神代の時代のエミリーは勇者だった。

 弱い悪魔に輪をかけて弱い人間だったエミリーは勇者になっても弱いままだった。


 常人よりはいくらかすぐれた身体能力を手に入れても、それはしょせん人間の基準だ。

 より強い真の悪魔や、より優れた真の勇者たちの実力には遠く及ばずに彼女はその弱さゆえに迫害されていた。


 ……そうだ。エミリーは弱かった。彼女は弱い勇者だったんだ。

 遠い昔にかつてのエミリーは戦いから逃げ出した。


 流れに流れて、千年前の竜王の隠れ里に行き着いた彼女は仲間たちに出会う。

 その時にはもう、大勢に迫害され続けたエミリーの心はすっかりひねくれてしまって、“へそ曲がり”の二つ名がぴったりなくらいにねじ曲がった物言いが板についていた。


 そんなエミリーも同年代の仲間たちとの触れ合いで少しずつ人間らしさを取り戻す。

 かつてエミリーは弱い悪魔だったシーズンと意気投合していた。


 気立てよく仲間意識の強いシーズンのことを、彼女は強く信頼していたんだ。

 ひょっとしたら勇者と悪魔の関係を超えて恋心を抱いていたのかも……なんてね。


 もちろん、“今”のシーズンとエミリーはなんの関係もないし、ナルシストみたいな物言いをするシーズンとあまのじゃくなエミリーとでは水と油の関係に違いない。


 ふたりが出会ったらどんな話をするのか気になるところではあるけれどね

 それはさておき、僕の記憶で問題になるのは竜になった後のエミリーだ。


 魔王の軍勢に隠れ里を焼かれて命を落としたエミリー。

 その後の流れは今のエミリーが語ってくれた昔話の通りだ。


 かつてのエミリーは竜王の加護を得て、猛毒の牙を持つ竜として蘇った。

 それがスパイダーファング・ルナティック・ドラゴン。


 弱いながらも悪魔の力を持っていたシーズン。

 同じく悪魔の力を持っていたモルガン。


 ただの人間だったネミーアウラ。

 そして4人の中でただひとり、勇者として人間と悪魔の混血だったエミリー。


 シーズンとモルガンは悪魔の力に竜の力を重ね合わせて、より強い力へと昇華させた。

 ネミーアウラは純粋な竜の力を手にして、竜王に近い性質を得た。


 ただひとり、エミリーだけが人間と悪魔と竜のすべての力を手にした。

 竜の力は彼女の中に眠るいにしえの“神々”と“巨人族”の記憶を目覚めさせたんだ。


 その力は当時を生きた誰よりも強く、魔王でさえ及ばない絶対的な才覚だった。

 ……恐るべき強さだ。その真の才能はエミリーの心を大きく変えた。


 いや、“歪めた”というべきだろう。

 弱い者として長年にわたって苦汁をなめ続けてきたエミリーは力の誘惑に酔いしれた。


 正義だと笑って悪魔を殺し、自らを貶め続けた勇者を平然と喰い殺した。

 言っていいならばそれは悪魔よりも勇者よりも狂った暴虐の行いだった。


 なにせエミリーの仲間である他の竜たちでさえ、良い顔をしていなかったくらいだ。

 ネミーアウラは勇者や悪魔でさえ、心ある者はその命を救おうとしていた。


 甘くも優しいネミーアウラ。その優しさがエミリーの逆鱗に触れた。

 当時のエミリーはネミーアウラの行いを酷く嫌っていて、事あるごとに偽善だと非難していた。勇者も悪魔も皆殺しだと語る彼女はあるがままに力を振るっていた。


 そんな身勝手を繰り返したエミリーの孤立は半ば必然的な結末だったと言える。

 だとしてもエミリーに敵う者は誰もいなかった。


 世界の存亡をかけた最終決戦の舞台で、エミリーはただひとりで悪魔の軍勢の奥深くに押し入って青い血の魔王との直接対決を演じた。

 どんな戦いが繰り広げられたのか、それは当事者にしかわからない話だ。


 しかし魔王を倒して勝利を収めたのだから、エミリーの強さは本物だったのだと思う。

 全盛期のエミリーはまぎれもなく最強の竜だった。


 おそらくは星の瞳の竜王かつての僕よりも、よほど強かったに違いない。

 その心の真実が悲しく歪んだ弱い者のソレだったとしても……


 その時に僕はひとつの気づきを得た。

 強さ。自分が得た強さと勝ち得た結果によってこそ、弱い心を慰めていたエミリー。


 “今”のエミリーがどうしてそこまで天魔王獣メモリアに執着するのか……

 最初はわからなかったけれど、それも今ならわかるような気がする。


 蝶の翼をはばたかせる僕は蜘蛛竜を見て、悲しく思ったんだ。


「エミリー、キミはメモリアがうらやましかったんだな」


「なにを……」


「メモリアはキミよりもはるかに強い力を持っている。その心が卑屈だとしても、メモリアの存在がキミという心弱い人間の在り方をおびやかすことは想像にかたくない」


 僕は自分が思っていることをエミリーに淡々と伝えた。


 エミリーはそれがどうしたと無感動に構えている。

 その無感動な態度こそが、今の僕には弱い者の強がりなのだとよくわかる。


 だから僕はエミリーに伝えなければならなかった。

 僕は力の誘惑にも、過去の幻影にも屈しはしない。


 できることならエミリーにもそうであってほしいと思う。

 僕は僕さ。


 過去の記憶を得ても、僕は僕として生きるのだと決めた。

 ゆえに過去ではなく今の僕がエミリーの心に踏み入るために。


 今を戦うべくして、僕は決定的な言葉を告げる。


「エミリー、キミは弱いよ。メモリアよりも、この世界に生きる誰よりも」


「…………」


「キミが聞く耳を持たないのは知っている。だからもう、無理強いはしない」


 すべては今のエミリーが自分で決めることだ。


 過去の記憶に振り回されるのか、それとも自分自身の意思に殉じるのか。

 勇者の血に縛られるのか、竜の魂を呪うのか。それとも……


 メモリアの許しを認めて、エミリー自身もまた未来へと進んでいけるのか。

 ならば、僕はふたりが笑い合える未来を望むよ。


 そのためにこそ、今の僕は竜の力を振るう。

 星の瞳を見開き、蝶の風で猛毒の霧を払って、僕は新生した竜の爪牙を広げる。


「さあいくぞ、あまのじゃく。勝つのは僕だ」


「この私を倒すと? ほんの少し姿を変えたくらいで、ずいぶんと強気ですね!」


 飛翔した僕と地を踏み砕いた蜘蛛竜の突撃は同時だった。


 目にもうつらぬ一瞬の交差。

 蜘蛛竜の毒牙を星屑の五爪がうち払って、へし折る。


 そこから竜の再生能力で毒牙が生え直すまでに、コンマ数秒。

 僕は毒牙をへし折ったときの反発を利用して身をひるがえす。


 そして蝶の翼をあやつって空中で体勢を立て直し、蜘蛛竜の顔面に蹴りを叩きこむ。

 まごうことなき大質量の衝突が、周囲の大気を鳴動させた。


 クリーンヒットだ。だとしても蜘蛛竜がこの程度で倒れることはない。

 後退する蜘蛛竜は毒牙から蒸発する液体をまき散らしながら、それを目くらましに使う。


 僕に追撃を許さないための守りの一手か。

 もちろんのこと蜘蛛竜が守りに徹するだけではない。


 彼女はくぐもった声で呪文を唱えて、勇者の秘儀を使った。

 蜘蛛竜が召喚するのは熱を持った紅の剣。


 極光術【聖血せいけつの剣】だ。


「光の極みよ」


 猛毒の濃霧の向こうから数限りない紅の剣が群れなして飛翔する。


 着地していた僕にはこれを避ける術がない。

 さりとて、防ぐ術がないわけではない。


 僕は蝶の翼をはばたかせて、その透明な翼から輝くりんぷんをまき散らした。

 陽光の輝きを反射して宙できらめくりんぷん。


 反射する光と光を“線”で結べば、それは我が身を守る“領域”になる。

 僕は群青と翡翠色の瞳を輝かせて、舞い散るりんぷんに竜の魔力を込めた。


 僕が願うのはすべてを守護する竜の聖域。


「見開け、星屑の聖域サンクチュアリ


 閃光と共に完成した輝きの魔力障壁が、飛来する紅の剣を完封する。


 それだけでは終わらない。

 紅の剣に付着したりんぷんが、その紅を銀色の輝きに染め上げる。


 防ぐだけではない。

 魔剣の支配権を奪い取って、僕はカウンターの準備を完成させる。


 状況を察した蜘蛛竜は紅の盾を呼ぼうとしていたけれど……もう遅い。


 僕はすべての輝きを収束させた特大の銀の剣を、蜘蛛竜へと撃ち放つ。


「そして切り裂け、星屑をまとう銀の剣よ!」


 一瞬の交差。


 望外の輝きを放つ銀の剣が未完成の紅の盾もろとも、蜘蛛竜の左腕を切り落とした。

 その上で竜の再生能力が機能しない。そんなものは機能させない。


 銀の輝きが延々と傷口を焼く、それは呪いにも似た魔力的な外傷だ。

 蜘蛛竜がたまらずに苦悶をうめく。


「ぐ、あ、っ……」


「終わりだよ」


「戯言を!」


「いや終わりだ。見開き、またたけ……星々の心と竜のめいを」


 僕はエミリーを倒すと言った。


 その言葉に嘘はない。

 左腕を失ってよろめく蜘蛛竜に僕はトドメの一撃を繰り出す。


 もちろん殺しはしないけどね。

 ここまで好き勝手にやっておいて情けをかけてもらえると思うなよ。


 舞い散るりんぷんが星屑みたいに輝く。

 りんぷんが蓄えた魔力のすべてを我が身に還元して、僕は飛翔した。


 さながら流れ星のように、僕は自分自身を白銀の“矢”として突撃する。

 高速の戦闘を得手とするエミリーに僅かな反応さえ許さない。それは超高速移動だ。


 星屑の幻影シューティング・ミラージュ

 見る者の視界に残像さえ残すほどの速度で、僕は行くべき道を駆け抜けた。


 交差の瞬間に僕は蜘蛛竜の……エミリーの単眼を見る。

 さみしそうな。


 しかし、どこか安堵したようなその目に、僕はエミリーの本心を見る。

 そうだね。


 キミはきっと誰かに叱ってほしかったんだろう。

 わかるよ。


 たったひとりっていうのは、誰だってさびしいんだ。

 それでいいさ。


 いい迷惑だよ。まったくさ。


 ◆◆◆


 人間の姿に戻ったエミリーは左腕を失って仰向けで地に倒れていた。


 もはやエミリーに戦意はない。

 僕とメモリアを包囲している悪魔の騎士たちも敵意をなくして立っている。


 確かな決着を認めないほど誰も彼も野暮ではないらしい。

 ぼんやりと空を見上げているエミリーの傍でメモリアが彼女を見下ろしている。


 エミリーは両目を閉じて言う。


「あなたはこの姉を許すのね。メモリア」


「うん、それでこそ私は“自分”を許して前に進めると思うの」


「そう……後悔は先に立たずというけれどね。この姉を殺したくなったら、いつでも会いにいらっしゃいな。その時には――」


「後悔なんてしないわ」


 メモリアが腰を折って座り込む。


 メモリアは、そっとエミリーの手を取った。

 エミリーが驚いたような顔をする。


 メモリアは僕と出会ってから一番とわかる素敵なやり方で笑っている。


「今度こそ、これは自分で決めたことだから」


 エミリーは何も言わなかった。ただ眠るように両目を閉じていた。


 それはきっとメモリアにとっても、エミリーにとっても、悪夢が終わった瞬間だった。

 僕はフッと息をつく。


 姉妹の間に割って入るほど、僕は無粋なやつじゃないよ。

 割って入るその代わりに僕は取り巻きの悪魔の騎士たちに視線を向けた。


 結局は最後まで見ているだけのみなさんだったね。


 僕は不思議に思って尋ねてみる。


「あなたたちはエミリーの手伝いに来たんじゃないのか?」


「違う。俺たちはルユイン様の命に従って、そこのあまのじゃくを監視していただけだ」


「そうそう、職務の内ってやつ」


「その任務もおまえたちのおかげで今日が終わりになりそうだ。感謝するよ。竜のお兄さん」


 黙っていた悪魔の騎士たちが、口々に笑いだした。


 人間を殺す悪魔でありながら、随分とフレンドリーに接してくれるな。

 この場で戦うべきかとも思ったけれど、メモリアやエミリーを守りながら戦うのはいささか不利だと思われた。


 そうでなくても多勢に無勢だ。

 相手の戦力を警戒するに越したことはない。


 僕の思惑を察してくれたのか、悪魔の騎士のひとりが言ってくれる。


「そうだそれでいい。穏便にしてくれると俺たちも助かるよ。エミリーを倒すようなバケモノを相手にするのは、さすがの俺たちも遠慮したい。命あっての物種だ」


「お帰り願えるなら、僕も助かるけどね」


「そうだな。しかし俺たちも、まったくの手ぶらで帰るわけにはいかなくてなあ……」


 悪魔の騎士がニヤリと笑った。


 その瞬間に、僕の足元がズブリと地面に沈み込む。

 僕が慌てるのと悪魔の騎士たちが高笑うのは、ほとんど同時だった。


 見ればメモリアの両足も同じように、地面に沈み込んでいる。

 僕とメモリアは大いに慌てた。


 が、同じように沈んでいくエミリーは薄目をあけて状況に身を任せている。

 今の僕にはわかる。どうやら地面を掘り進んでいるのとは違うようだ。


 これは魔法のなせる超常現象に違いなかった。

【空間転移】のゲートに引き込まれているのだと、僕は千年前の記憶で気づく。


 こいつら、僕たちをどこへ連れて行く気だ?

 僕が苦し紛れににらみつけると、悪魔の騎士は気分がよさそうに笑う。


「おまえたち――」


「ははは! ルユイン様はいにしえの竜に大変な興味をお持ちだ。そちらの天魔王獣の資格者ともども、魔界に招待したいんだとさ!」


「魔界?」


 腰の辺りまでゲートに沈み込んだ僕を見て、悪魔の騎士は大いにうなずいた。


「ようこそ。歓迎するぜ。憎たらしい竜と勇者のおふたりさん」


「我らがふるさと」


「深い深い、この星の底の――」


 その名は僕の魂をえぐる悲しみの記憶。


「今ははるかな“魔王の城”に」


 音が消えて、光が消えて、自分自身でさえ定かではなくなる。


 なにもない暗闇へと自分自身が溶けていく。


 ここではないどこかへ――

 無数の悪魔が待つ魔界へと――


 僕は、はるかな暗闇の渦へ、ぐんぐんと吸い込まれていった。


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