第49話 それでも私は勇者だから

 フィフスが立ち上がった。


 見るもおそろしい緑色の猛毒で竜の身体を溶かしながら……

 もうやめてと、私は叫びだしたかった。


 外傷と出血で立てるはずがない。

 猛毒に侵されてまともに思考できるはずがない。

 

 そもそもあんな状態で生きていられるはずがない。

 何もかもがおかしい。おかしいのだと、見ているだけでよくわかる。


 でもフィフスは立ち上がった。

 私のために? ううん、きっと違う。そうじゃない。


 フィフスは私のことを大切な仲間だと言ってくれるけれど……

 ただ仲間というだけで私を助けてくれるはずがない。


 私はそこまでうぬぼれていない。

 きっと私のためじゃないよね。そうでしょう? フィフス?


 フィフスはフィフスのために。

 自分が自分であるために、エミリーに戦いを挑んでいる。


 それがフィフスの優しさなのかもしれないし、狂気なのかもしれなかった。

 私は彼の戦いを見守る覚悟を決めた。


 フィフスは変わった。

 旅の出会いを経て、フィフスという人間の心は大きく変わった。


 はじめてフィフスに出会った時のことを思い出す。

 野山で出会ったフィフスは、私から見て凡庸な少年だった。


 孤児院で育ったとはいっても愛する家族に守られた幸せ者なのだと思った。

 その認識は間違っていなかったと思う。


 はじめて竜の姿になったフィフスを見た時も同じだ。

 なんて情けなく弱い人なのだろうと、本心では思っていた。


 数限りない悪魔を残酷に殺しながら、私から逃げ去っていった竜の背中を私は忘れない。

 並外れた力を持ちながら自覚も覚悟も足りない臆病者に、私は内心で苛立っていたんだ。


 だけど、フィフスは……

 フィフスはあの冥狼めいおうリグレットの誘惑に打ち勝った。


 おそるべき獅子の勇者マリスからも一歩たりとて逃げることをしなかった。

 ただの未熟者が、力弱い者が真っ向から挑んで、未来への道を切り開いた。


 学び舎の国では夜道に迷うた私の心を助けてくれた。

 飛竜の里では悩める人たちを導いて背を押すことさえしてみせた。


 未熟を知る者が、他人が抱える闇を怖れることなく、行くべき道と光を示して見せた。

 戦うばかりが強さではないのだと、ハンドレッドが言っていた。


 今ならその意味が私にもわかる。

 フィフスは本当に変わった。


 彼は旅の出会いを経て、本当に強く……頼もしくて、カッコよくなった。

 いつからだろう。


 私はいつの間にか、フィフスのことが大好きになっていた。

 リグレットに負けて打ちひしがれる私の手を取ってくれた時。


 マリス王子に怯える私の手を、フィフスが引いてくれた時。

 フィフスの恋心が私に向けられることはないのだとしても、私を想いやってくれた時。


 もはや理由は何もなく、ただ私がフィフスの背中を見つめている時。

 その時にはいつも、私の心にはこの上なく幸せな気持ちがあふれていた。


 エミリーはきっとバカバカしいと笑うだろう。

 情けなく他人に依存している私を、彼女は見下すに違いない。


 私もそう思う。対等な関係とは程遠いのだとよくわかる。

 やっぱりね。これでいいとは思わないのよ。


 そんなのは嫌だと、この心が叫んでいるのよ。

 恋心の真実がただの依存なのだとしても、私はフィフスと対等な存在になりたかった。


 是非もない。

 私は今こそ先日のハンドレッドの言葉を思い返していた。


『キミも変わるべき時が来たのかもしれないな』


 フィフスは本当に変わった。それはきっと強さだ。


 エミリーは何も変わっていない。それもまたきっと強さだ。

 ふたりはふたりとも、私にはない確かな強さを持っている。


 私はフィフスにはなれない。

 私の心はフィフスのようにまっすぐじゃない。


 私はエミリーのようにはなれない。

 私の心はエミリーのように首尾一貫していない。


 迷い悩める私には弱い自分自身を認める他にすべがない。

 だとしても、今――


 猛毒で身体を溶かしながら立ち上がったフィフス。

 狂気と呼ぶことさえ生ぬるいその背中を、私は自分の両目に焼きつけた。


 勝てるはずがない。勝てるわけがない。

 きっと今のフィフスはかつての私が諦めてしまったのと同じ場所に立っている。


 諦めてしまえと、自分の心がささやいてくるその場所に。

 私にはわかる。だって私はその諦めを嫌というほど味わってきたのだから……


 だけど今。フィフスはエミリーに挑もうとしている。

 いいや、エミリーではなく、それは自分自身でさえなく……


 フィフスはきっと、自分が望み願った夢の在り処に挑もうとしている。

 もしも、もしも彼がその場所で奇跡を起こしてくれるのならば。


 私もほんの少しの勇気を持てるのかもしれない。

 私は変わる。


 変わり続けるフィフスのように。

 変われなかったエミリーの代わりに。


 だから私は“決めた”。


「フィフス、私はあなたの言葉を信じる」


 それが勝ち目のない戦いだとしても。


 たとえそれが、私が守り続けた怨みの感情にそくむおろかな選択だとしても。

 私の心は今、あなたの瞳と共にある。


 私の心は、ただ前へと進んで広がり続ける未来を望む。

 迷う気持ちは忘れてしまった。


 だから私は“決めた”の。


「私は……エミリーを許すわ」


 私は変わる。


 幾星霜いくせいそう怨嗟えんさにそむく、この道の先で――


 フィフス、私は“愛する人あなた”を待っています。


 ◆◆◆


 赤い壁の向こうでメモリアが僕を見ていた。


 メモリアは何かを言っていたけれど、赤い壁に阻まれて僕には何も聞こえない。

 蜘蛛竜がこの上なく苛立っていたけれど、それはどうしてだろうね。


 蜘蛛竜は猛毒の牙を打ち鳴らして、立ち上がった僕を威嚇する。


 何を怖れているんだか。

 ゾンビみたいな僕に、死にぞこないの竜に、毒牙でトドメを刺すくらい簡単な話だろうに。


 苛立つ蜘蛛竜は……エミリーは明らかに不機嫌だとわかる言い方でうめいた。


「許す? この姉を許すですって? それがあなたの答えなのね、メモリア」


「…………」


「言葉もないとはこのことですね。フィフスくん、あなたはさぞかし満足でしょう? 弱い者の妄執で、弱く哀れなメモリアの心を動かすことができたのだから、死んで本望とでも思っているのでしょうが――」


「誰が決めた?」


 蜘蛛竜の語りに割り込んで、僕は言った。


 最初からエミリーの答えは求めていない。

 僕は一方通行のやり方で、自分の想いを言い渡す。


 僕には何も聞こえていない。

 だけど今、メモリアがどんな想いで暗闇から顔を上げたのか想像するくらいはできる。


 暗い夜道に迷えるメモリアが、憎しみにひとつの答えを得たのならば。

 僕は今こそ、メモリアとの約束を果たさなければならない。


 彼女の前に立ち、彼女の想いを守るという、その約束を。


「メモリアが弱いと、誰が決めたんだ」


「……戯言を。もう結構です。今度こそさようならですよ、この死にぞこないが!」


 蜘蛛竜が大地を踏み砕いて地を駆けた。


 それは先ほどと同じく文字通りに目にもうつらぬ超々高速移動だった。

 墓場でメモリアを殴り倒した時のように。


 先ほど僕を蹴倒した時のように。

 ふわりと柔らかな一瞬の踏み込みで、蜘蛛竜は僕との距離を詰める。


 だけどね。今の僕にはそれが見えていたよ。

 そうとも、見えているさ。


 この“領域”を得た者にとって、単なる身体能力などは意味をなさない。

 僕が得た“力”の本質。


 それはまさしく竜と魔の神髄を極めた絶技ぜつぎだからだ。


「今見せてやろう、へそ曲がりのエミリー。竜の秘法【真化しんかの領域】を」


 僕は苦も無く身をかがめた。

 コンマ一秒の遅れで、僕の身体があった場所を蜘蛛竜の飛び蹴りが通り過ぎる。


 空振りだ。

 蜘蛛竜は自らが召喚した真紅の盾を足場にして、空中で踏みとどまった。


 後ろを見なくてもわかる。

 蜘蛛竜が紅の壁を蹴って、再び僕へと突撃してくる。


 とはいえ鈍重なゾンビを相手に、簡単なトドメをさしそこなったんだ。

 さしもの蜘蛛竜としても動揺を隠せないのかな。


 蜘蛛竜が毒牙を噛み締めて吠える。


「……避けた? 死にぞこないが、この私の動きを読んだとでも? いいえ、そんなはずは!」


「…………」


 避けようと思えば簡単に避けられるけどね。


 僕の方も猛毒が全身にまわって動くのが辛い。

 簡単にやらせてもらうよ。簡単なやり方で――


 たとえばこの“尻尾”で跳躍した蜘蛛竜を叩き落とす!

 激突!!!!


 大質量の衝突が轟音をよび、叩き落とされた蜘蛛竜が勢いのまま大地に陥没する。

 見守る悪魔の騎士たちが唖然としていた。


 先ほどまで手も足も出ていなかった者が、それも手負いのゾンビが無敵の蜘蛛竜を圧倒しているのだから無理もない。

 僕は重たい体をぐるりと回して、蜘蛛竜へと向き直る。


 倒れたその場所から立ち上がる蜘蛛竜がいまいましげにうめく。


「後ろに目がついているようですね……そうか、なるほど“知覚”ですね? 竜が持ちうる膨大な魔力を使った知覚領域の拡大! それがあなたの切り札と言うわけですか!」


「…………」


「ですがその程度のことなら、簡単に対策できるんですよ。今の交差は絶好のチャンスだったでしょうに。この私に致命傷を与えられなかった失敗を後悔させてあげましょう」


 言うなり、蜘蛛竜はその毒牙を打ち鳴らし、緑色の猛毒をまき散らした。


 それだけではない。

 まき散らされた緑の液体がきり状に変質して空気中にもうもうと立ち込める。


 なるほどね。どこにも逃げ場のない赤い壁の内側で……


 僕は蜘蛛竜の狙いを察してうなずいた。


「毒のきりか」


「ええ、この狭く閉じた赤い壁の内側では、私の猛毒から逃げる術はない。あなたがどれほど感覚を研ぎ澄まそうと、無意味なことです」


「…………」


「さあ、毒牙の霧にて消滅しなさい」


 蜘蛛竜が淡々と言った。


 毒々しい緑色の濃霧が僕の全身を包んでいく。

 見る間に全身が腐り落ちていく。


 だけどね。そうなにもかもうまくはいかないよ。

 同じ話さ。


 この“領域”を得た者にとって、血の通った肉体などは意味をなさない。

 僕は竜の再生能力に働きかけて、腐り落ちた肉体を作り変えていく。


 失われるそばから血肉を補填して、僕は蜘蛛竜と向かい合った。


 手品のたねを見抜いたとでも言いたげに、蜘蛛竜がくぐもった声で言う。


「ほう? 知覚領域の拡大だけではなく、肉体の強化も行っている……いや、強化ではなく新陳代謝の促進ヒーリング・マジックですか? なかなか器用な真似をしてくれますね」


「…………」


「しかし、猛毒に侵されながら新陳代謝の促進とはね! それは見るも無残な自爆だと教えて差し上げましょう! 諦めの悪いフィフスくん!」


「みっつだ」


「んん?」


「みっつ、おまえは勘違いをしているよ。へそ曲がりのエミリー」


 僕がそう言ってやると蜘蛛竜は苛立ったふうに毒牙を噛み鳴らした。


 今すぐにでも僕を殺してしまいたいのだと、顔に書いてある。

 蜘蛛竜がおもしろくもなさそうに僕を睨む。


「へそ曲がり、へそ曲がりと、何度も何度もしつこい人です……」


「ひとつ。これは知覚領域の拡大じゃない。すべては“作り直し”だ。あるべきものを、あるべき形に作り直しているだけだ」


「能書きは結構ですよ。いにしえの魔王さえくびり殺したこの毒牙で、今度こそあなたの息の根を止めてあげましょう。この私が手づから、直接ね」


 蜘蛛竜が再び大地を踏み砕いた。


 僕にはわかる。

 その動きは今までのような侮りとは違う、正真正銘の蜘蛛竜が持ちうる全速力だった。


 爆発的な加速を得た蜘蛛竜が僕へと真正面から向かってくる。

 いくら知覚が研ぎ澄まされていても、鈍重なゾンビの身体でこれを避ける方法はない。


 ほとんどすべての百眼を潰されている状態では迎撃することもできないだろう。

 そうでなくとも全力の蜘蛛竜に対して満身創痍の百眼鬼竜に打つ手はない。


 だから僕はただ手前勝手に自分の都合で話を続けた。


「ふたつ。これは肉体の強化でもなければ新陳代謝の促進でもない。すべては“作り直し”だ。創造と再生。あるべきものを、あるべき姿に作り直しているだけだ」


「さようならです。フィフスくん」


 突撃の勢いのままに蜘蛛竜が僕へと強引に組みつく。


 ズブリと、赤い蜘蛛の毒牙が僕の首筋に突き立った。

 猛毒が流し込まれて僕の肉体が見る間に腐り落ちていく。


 竜の再生能力も焼け石に水だ。まるで間に合っていない。

 抵抗しない僕が諦めたとでも思ったのだろうか。


 蜘蛛竜が勝ち誇ったように笑う。


「私の毒牙にて消滅しなさい!」


「そして、みっつ。おまえは僕には勝てない」


 しかし構わない。まるで構わない話だ。


 僕は腐り落ちた右腕から“生え直した”右腕“で、蜘蛛竜の牙を掴んでへし折った。

 腐って溶け落ちる“古い”首筋を捨てて、僕は自分の“背中”から這い出す。


 さながら大きな蛇が脱皮をするみたいに僕は百眼の竜の肉体を脱ぎ捨てていく。


 戦いを見守る悪魔の騎士たちが茫然ぼうぜんと僕を見あげていた。

 メモリアが決意に満ちた瞳で僕を見ている。


 僕を殺したがる蜘蛛竜でさえ、おののくように一歩を退く。

 脱皮というのは適切な表現ではないかもね。


 これは“繭”だ。

真化しんかの領域】とは、すなわち真なる姿へと“進化”する者の領域。


 この領域という“繭”を得た者にとって、古き肉体などは意味をなさない。

 創造と再生。


 限りない進化とたゆまない変貌。

 これこそが神魔の粋を極めた竜族の究極の秘法。


 そして僕は自分のあるべき形を思い出し、“羽化”の時へとたどり着く。


「“星のまゆ”はひも解かれた」


 群青の右目と翡翠色の左目。


 薄く透き通る透明な翼は、羽化したばかりのちょうに似ている。

 肌や鱗というよりも白く濁った泉の水に近い、やわらかな肉体。


 星屑を寄せ集めたスクラップのように崩れた、残骸ざんがい的な爪牙。

 ――僕はここにいる。


 気だてのいいファントムテイル・デーモンズ・ドラゴンシーズン

 見目麗しいマリンウィング・エンプレス・ドラゴンモルガン


 優しく気高いウェザーネイル・フリーダム・ドラゴンネミーアウラ

 まったく世話の焼けるスパイダーファング・ルナティック・ドラゴンエミリー


 たとえ千年の歳月を経て、さまよえる魂になろうとも。

 僕はこのこころで、キミたちの名前を憶えている。

 

 この名は魔を裂き光を見る者。

 ねえ、キミは僕のことを憶えているかい? エミリー。


 僕にとって、キミたちは――


「僕の名前はプラネットアイズ」


 僕は星の瞳を見開き、透明な蝶の翼を広げる。


 ささやかな祝福と再会の時を称える者は、誰もいないと知っている。

 もう、それでいい。


 だとしても、キミたちは僕にとってかけがえのない――


「僕の名前はプラネットアイズ・アトモスフィア・ドラゴン」


 血を分けていなくとも、忘れられていたとしても。


 ひとりひとり。キミたちはかけがえのない……

 愛すべき千年ふるさとの家族だ。


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