第30話 マリンウィング・エンプレス・ドラゴン

 僕は戦火に包まれた町から“その姿”を見ていた。


 鮮烈な波紋を広げる美しい水の翼。

 白くおおらかな竜の姿に僕の瞳は魅入られる。


 綺麗だ。途方もなく。

 モルガンは自分を悪魔だと言ったけど。


 彼女は自分の獣石を持っていなかった。

 モルガンが言うには悪魔の姿になりたくなかったのだという。


 だからモルガンは、自分の本当の姿を知らないのだと言っていた。

 僕がモルガンに竜石を渡したのは思いつきだ。


 根本的に僕の竜石は獣石と同じものだから、悪魔である彼女にならきっと使えると思ったんだ。ハンドレッドならモルガンを守ってくれるとも思った。それも僕の本心だ。


 察するにあの白く美しい潮騒の竜はモルガンなんだろうか?

 だとしたらものすごくうれしい。


 彼女もまた竜の力を持つ者であるのなら、これほど心強い味方はいない。

 進みゆく世界の有様は僕の想像をひとまわりもふたまわりも超えていく。


「綺麗だ」


 僕が竜で、モルガンも竜で……なんて幸せな気分なんだろうと思う。


 戦火に包まれた町で大勢の人が死んでいるのに、我ながら不謹慎だとは思うけどね。

 だけどどの道、避難誘導を担当する僕の役目は終わっていた。


 僕にできることはすべてやった。

 大人も子供も少年少女も老人も、みんなが必死で逃げていった。


 それでも頑なに町に残ろうとした偏屈な人たちはみんな死んでしまった。

 白亜の会のメンバーは悪魔に協力した自分たちだけが生き残れると信じていたんだ。


 僕が最後まで逃がそうとしていた名も知らぬ青年も、僕の目の前で悪魔に殺された。

 今の僕は、悪魔と水っけのある魚人の集団に囲まれていた。


 槍で武装した悪魔が青年の死体を突き刺して笑っている。

 鋭利な牙を持つ魚人は千切れた青年の腕をかじっている。


 僕はひとりだ。

 できるだけのことはしたけれど、僕はまた望まず大勢の死に立ち会っている。


 人の死と悲しみになれてしまってはいけないとわかっているけどね。

 心を殺さなければ、本当に気がどうにかなってしまう。


 丘の上の竜を眺める僕が現実逃避をしていると思ったのだろう。

 僕を囲む悪魔のひとりがけたたましく嘲笑う。


「助かると思ったか? 救世主さまが助けに来てくれると思ったか? あの白い竜が、この町を救ってくれると思うのか?」


「…………」


「残念だったなあ! たとえ竜だとしても俺たちのボスに敵うもんか! あの竜は死ぬぜ。触手で叩き潰されて、き潰されて、その肉塊を俺たちが喰らってやる!」


「そうかい」


「おまえたち人間には最初から希望なんてないのさ。あっはっはっ――って、これはベルカさまの口癖だな。いけねえ、笑い方がうつっちまったよ。あっはっはっ!」


 見守る悪魔たちが一緒になって悪辣に笑い転げる。


 悪魔にとって人間を殺すことなんて赤子の手を捻るよりも簡単な話なんだろう。

 悲惨過ぎる大勢の死を見届けたその後で、僕の心は冷めきっていた。


 今は静かな怒りと冷たい炎が僕の心の底にある。

 今更どんなにあわてても悪魔に殺された人たちは戻ってこない。


 死者を蘇らせろと悪魔に訴えてもそれは虚しいばかりだ。

 下卑た悪魔たちを余計に喜ばせてしまうくらいの話さ。


 ……僕はそんなのは嫌だった。


『見開け』


 幻聴が遠く聞こえて、まったく身に覚えのない記憶がよみがえる。


 フラッシュバック。

 それは悪魔たちが大勢の人間を殺している光景だった。


 大人も子供もへだてなく大勢が殺される悪夢の地獄絵図だったよ。


『見開け』


 たとえすべてを忘れてしまっていても僕のこの瞳が憶えている。


 悪魔の暴虐を……この魂が憶えているんだ。

 ――僕はこいつらを許さない。


 僕は決して許さない。

 僕から守るべき全てを奪った、わきまえもしない闇の者どもを。


 自分でも驚くほどに心根の暗い声が口から出る。


「笑えよ。死ぬのはおまえたちだ」


「……ああ? 恐怖で気が狂ったのか? 人間ふぜいが」


 青年の死体を突き刺していた悪魔が笑った。


 死者をはずかしめる行いを中断して二本角の悪魔が僕を見た。

 悪魔はいやみったらしく首を振って口元を歪めた。


 周りの悪魔たちも同じことを考えているのだと、それは彼らの態度でわかる。


「やだやだ、頭のおかしいやつは嫌だねえ。なにが学び舎の国だよ。こざかしい人間の戯言なんてつまらない。悪魔からすればほんの瞬きするほどの時間しか生きられない矮小な生き物が! “学び”だの“識者”だのと笑わせるぜ!」


「そうかな」


「そうだよ。そうさ。そうだとも! 俺たち悪魔はいろんなことを知ってるぜ? 人間が知らない植物の生態や、病に効く薬の作り方。武器の作り方。暮らしをよくする魔法じみた便利な品々だって簡単に作り出せる!」


「へえ、物知りなんだな」


「そうさ。長寿の悪魔は何でも知ってる。俺たち悪魔にしてみれば人間の歴史や積み重ねなんてゴミみたいなもんだ。おまえら人間がひとりで10年を積み重ねる間に俺たちは100年を積み重ねられる。土台で種族の出来栄えが違うのさ」


 大いに語る悪魔を称えて、仲間の悪魔たちが笑っていた。


 楽しそうだね。ずいぶんと楽しそうだ。

 数を誇って賛同を得て、立場におごるのはそんなに気持ちがいいことなのか。


 僕には理解ができない考え方だけどね。

 やれやれ、僕は凡庸な人間だよ。世の中は分からないことばかりだ。


 そんなものさ。そんなものだよ。

 だけどね。こんな僕にも悪魔の笑いを止める方法はわかる。


 僕は鼻で笑って悪魔の目を見て言い返す。


「だけどおまえたちは敗れた。千年前の戦いにね。結末は他に何もない」


「……知った風に言うじゃねえか。見てきたわけでもなかろうに。人間のガキが偉そうに」


「知らなくても想像できるさ。でなければ今頃この世界は悪魔の理想郷になっている。それができなかったから、おまえたちはずっと世界の片隅で隠れていたんだろう?」


 悪魔の面々が軽薄な笑いを引っ込めた。


 彼らはひとりひとりが僕を憎むように睨んだ。

 ああ、気分がいいね。


 気分がいいからついでにもうひとつ言っておこう。

 言うとはいっても別に大した話じゃないよ。


 心ある者なら誰もが思うことさ。

 だから僕は愚かな悪魔たちに伝える言葉をためらわない。


「それにさ。おまえたちは自分が学び得た知恵を称えているんじゃない。その知恵にすがりつく自分自身の有様を称えているんだ。こんなにもみじめな自画自賛を僕はこの世の中で知らないよ」


「けっ、ガキが。死にたいらしいな! そんなに死にたいならぶっ殺してやるよ!」


「やってみるか。僕だって百眼鬼竜のドラゴンだ」


 竜としての力を持つ僕の身体は人間の姿でもその感覚が研ぎ澄まされている。


 身体能力も同じだ。おそらく今の僕は常人よりもかなり強い力を持っている。

 とはいえ人間をはるかにしのぐフィジカルを持つ悪魔の集団に対して、人間レベルの優位はないにも等しいだろう。


 でもね。僕はこいつらを怖いとは思わなかったよ。

 だってわかっていたからね。


 たとえハンドレッドがいなくても

 たとえこの手に竜石がなかったとしても。


 僕は竜としての自分の姿を片時も忘れることがない。

 それにさ。僕が着ているこの衣服も竜の力の一部だからね。


 僕は竜だ。だから僕はなんの迷いもなく竜になれる。


「見開け、この名は偽りを見定める百眼のあるじ


 淡い翡翠色の輝きが僕の全身を包み込む。

 そして悪魔たちが僕に襲い掛かってくるよりも早く――


 僕は“この手と爪”でおしゃべりな悪魔の上半身を握り潰した。

 おののき退く悪魔たちの姿がおもしろくて僕はクスっと笑った。


 それで? 誰が誰を殺すって?


「ハンドレッドアイズ・イミテイト・ドラゴン」


「ど、ドラゴンだと!? どうしてこんな場所にドラゴンが二体もいるんだ!?」


 悪魔の動揺を気にせず僕は気軽に大地を踏み砕いた。


 加速を得て悪魔の包囲を突き破ってその勢いのままに数体の悪魔を爪で引き裂く。

 プリズムの閃光は――今は使えないか。


 どうやらあの技はハンドレッドがいないと使えないみたいだ。

 仕方ないね。まあいいさ。木っ端の悪魔を殺すくらい、この牙と爪があればわけもない。


 そうして抵抗する悪魔たちを殺す片手間に僕は丘の上の空を見た。


「へ、へへへ、ははははは。み、見ろよ。おまえの仲間のドラゴンがみじめったらしく殺されるところを! ざまあないぜ、俺たちのボスとベルカ様に勝てるもんかよ!」


 悪魔のひとりが僕に怯えながら負け惜しみを言った。


 伝説に残る竜と真の悪魔の戦い。

 それはまごうことなき神話の戦いだ――


 悪魔たちはきっと両者が緊迫した激戦が繰り広げる未来を期待していたんだろう。

 竜と魔の血みどろの戦いが延々と繰り広げられる。


 そしてその結果として青い血の悪魔が勝利すると、そう信じていたんだろう。


 そのはずだった。

 しかし“そのはず”は一瞬の交差で裏切られる。


 白い潮騒の竜がその雄々しく美しい水の翼を大きく広げた。

 その瞬間に眼下に広がる海のすべてが逆巻く激流と化して天に舞った。


 見ればわかる。潮騒竜の翼が海の水を“吸収”しているんだ。

 無尽蔵な水源を得て肥大化する水翼の威力に際限はない。


 それは比喩でなく、まさに海を干上がらせんばかりに天を目指す大瀑布だったよ。

 岸辺で海に寄って泳ぐベルカと巨大な烏賊イカの悪魔は自らの足場を崩されて大きくバランスを崩す。


 それで終わりだ。

 彼らはせめてもの抵抗に長大な触手を振り回したがそれも無駄な事。


 潮騒の竜は敵の悪あがきを歯牙にもかけず大海原そのものにも等しい水の翼を高らかに振りかざした。


 潮騒の竜はすべての力を渦潮うずしおのように身にまとって突撃する。


 そして――


「逆巻け、瀑布と波紋の双翼」


 決着はただ一度の交差でついた……


 人魚と巨大の烏賊イカの肉体は大瀑布の激流に飲まれてズタズタに引き裂かれる。

 無惨だね。あまりにも無惨と言える結末だよ。


 僕に踏み潰されて死にかけている悪魔でさえ途方もない現実に絶望していたくらいだ。

 そうして僕は悪魔を殺したその足でモルガンが待つ丘へと向かった。


 僕が丘の上にたどり着いたとき、海から打ち上げられた人魚が死にかけの有様で倒れ伏していた。その無様が学び舎の国を恐怖に陥れた悪魔ベルカの末路だった。


 メモリアもいた。

 人間の姿に戻ったモルガンがどこか悲しそうな瞳でベルカの姿を見下ろしている。


 その時に青い血にまみれて倒れ伏すベルカがモルガンを手招きする。

 最期に一言、伝えたい言葉がある……僕にはそれがベルカの意思表示だと思えた。


 ベルカは息絶え絶えになりながらも口元を歪めて笑う。


「あ、っは、っは……モルガン」


「ベルカ……」


「呪われた、竜、呪わ、れた悪魔」


 ベルカは光の消えかけたその目で僕とモルガンを交互に見る。

 彼女は言ってくれる。


「あなたたち……とっても……お似合いよ」


 ベルカの瞳が光を失い、身体も糸が切れたように崩れ落ちる。


 こうして邪悪な悪魔ベルカは死んだ。

 学び舎の国を滅ぼした悪魔の最期はあまりにも静かだった。


 うつむきうなだれているメモリアに僕は声をかける。

 メモリアは酷くつかれた表情をしている。


「メモリア」


「……お手柄ね。全部、あなたが仕組んだことなんでしょう? 満足した? 私の無力を笑いに来たの?」


「そんなことはしないよ。モルガンも同じ気持ちだと思う」


 僕は卑屈に心を閉ざしたメモリアを見つめた。


 彼女はかたくなに僕と視線を合わせてくれない。

 僕はメモリアと語らう前に近くに立つモルガンへと向き直ってお礼を言う。


「ありがとうモルガン。メモリアを助けてくれて」


「ええ……」


 モルガンはさみしそうに微笑んだ。


 わかっているよ。今はモルガンではなくてメモリアと話さなければならない。

 見るとメモリアは一層に深くうなだれていた。


 僕はメモリアに嫌われてしまったのかもしれない。

 だけど嫌われていても構わないさ。


 僕は望まれていないとしりながらメモリアに歩み寄って彼女の手を取った。

 メモリアは抵抗することも逃げることもしなかった。


 その答えがどんな意味を持つのか、ソレは僕にはわからなかったけれど……

 彼女に伝える言葉だけは最初から心に決めている。


「これからどこへ行こうか」


「戦争になるわ。悪魔を殺しに行かなくちゃ……」


「そうじゃないよ」


 僕は否定することをためらわなかった。


 勇者としての使命感に囚われている今のメモリアにはどんな言葉も届かないのかもしれなかった。

 だとしても僕はメモリアに自分の気持ちを伝え続ける。

 その時になってようやくメモリアは僕の目を見てくれる。


「ねえ、探しに行こうよ。メモリアはもっと強くなれるさ。もっと強くね……だからその場所を僕といっしょに探しに行こう」


「悪魔を殺すために?」


「いいえ、違うわ」


 モルガンが強く静かな声で言う。


「あなたが自分の中にある優しさに負けないために」


 その時にメモリアは泣いていた。


 自分の無力と気持ちに負けて声が枯れるまで泣いていた。

 どんなに無様でも今だけはそれでいいのだと思う。


 そうして僕たちは誰もいなくなった水の都と学び舎の国を後にする。

 ――目指す先は飛竜が住まう北の山脈だ。


 モルガンは悪魔に殺された人たちを弔うためにこの町に残ると言った。

 本当はモルガンにもいっしょについてきてほしかったけどね。

 モルガンは未練がましい僕に、屈託のない笑顔で言う。


「学び舎の国が滅んだとしても、私様はまだ自分の夢を諦めてはいないのよ。フィフスもそうでしょう?」


 モルガンの言葉に励まされて僕はメモリアの手を引いた。


 行く道は険しくそびえる山々は果てしなく高い。

 だけどね。負けやしないさ。僕も、もちろんメモリアも。


 くじけやしない。

 だから僕は大手を振ってモルガンに言う。


「ありがとう。モルガン」


 別れの言葉は必要じゃない。


 遠くない未来に再会を約束して僕たちはそれぞれの道を歩き出す。

 いつかきっと……


 あの海が見える場所でまた会おう――


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る