第9話 それは素敵な愛情ですねえ?

「リグレットさん?」


「はあい、私です! ……とことんまでトロいやつですねえ。あんまり間抜けな顔をしないでくださいよ? 私は胸糞悪いものを見せられて不機嫌なんですから!」


 リグレットが墓石に足をのせてドシャッと蹴倒した。


 無茶苦茶な八つ当たりだ。

 不機嫌って、なにがどうして不機嫌なのかは知らないけどね。


 世の中にはやっていいことと悪いことがある。

 僕は死者を冒涜する腐れ外道に怒ってさけぶ。


「何をするんだ!? あなたは一体、村の人たちになんの恨みがあって……」


「恨み? へえ、恨みとはまた、見当違いな指摘ですねえ」


「ならどうしてだ!? 澄ましてないでハッキリと言え!」


「怖い怖い……いいですかあ。フィフスくん。私が誰かを恨むとして、村の住民を恨むはずがありませんよお。私が恨むのは……私たち【魔王の覚者かくしゃ】にとって怨敵の存在は唯一なのですから」


「は、はあ?」


「私は恨む相手を間違えたりはしません。決して……ええ、決してねえ」


「恨むって、誰を……」


「それはねえ。あなたのことです」


 リグレットはニッコリと空々しい笑みを作ってくれた。


 僕? 僕は誰かに恨まれるようなことをした覚えがないよ。

 まして恩人として敬意を持って接していたリグレットに恨まれる覚えはない。


 リグレットが僕を恨んでいたとして、困っていた僕を助ける理由なんてないじゃないか。話が支離滅裂だ。


「たちの悪い冗談はやめてくれ。僕は誰かに恨まれるようなことをした覚えはない」


「ははあ、フィフスくんは本当に何も“覚えて”いないんですねえ。竜の魂を持ちながら、かつて神話を生きた自分がなにをしたのか。それを覚えていないだなんて……」


「は、はあ?」


「……本当に間抜けな子どもですねえ。つくづく忌々しい。しばらく様子を見て正解でしたよ。愛する魔王さまを殺した“竜”の存在と、はるかな過去に味わった屈辱を私たちが忘れたことは片時もない……」


 リグレットがやれやれ、とでも言いたげにため息をついた。


「ほーんと、自分の幸運を喜んでくださいよねえ? こんなでも私は穏やかな性格の持ち主なんですからあ? 出会ったのが私以外の覚者ならフィフスくんはすぐに殺されていましたよお?」


 殺すって、魔王って、竜って、覚者って。


 こいつはさっきからなんの話をしているんだ?

 リグレットが僕を忌々しく思っているのはなんとなくわかる。


 彼女は竜である僕を嫌って僕を殺したがっているようだ。


 だけど……


「あなたは……いや、おまえは……」


 竜を憎んで魔王を愛すると語る青い血を持つリグレット。


 点と点を繋げてまとめれば簡単な話だ。

 鈍感な僕でもさすがにわかる。


 リグレットが放つまとわりつくような敵意を感じて、居心地悪く思う。


 メモリアが言ったはずだ。魔王に近しい真なる悪魔の血は“青い”と。

 なら青い血を流すリグレットの正体は……


「おまえは悪魔なのか?」


 リグレットは答えなかった。


 ひょっとしたら僕は彼女に見当はずれな恩義を感じていたのかもしれない。

 でもリグレットは困っていた僕を助けてくれた。それも事実だ。


 僕が憎いなら、殺せばよかったはずだ。

 チャンスはいくらでもあっただろう。


 僕が竜だから?

 殺し損ねた僕に逆襲される失敗を怖れたのか?


 リグレットが間抜けな失敗を恐れる性格をしているだろうか?

 そんなわけがない。


 何か理由があるのかな?

 死者を冒涜するふるまいは決して許せないけれど……


 なにかお互いの間に誤解があるのかもしれない。

 竜である僕は悪魔との対決を避けられないのかもしれない。


 でもまずはお互いに言葉を交わすべきではないのか?


 思った矢先に僕のふところで竜石が激しく明滅した。ハンドレッドだ。


「無駄だ。フィフス、あの女に惑わされるな」


「ハンドレッド?」


「キミの予想は正しい。これまで確証はなかったが私も今しがたの会話で確信を得た。あの女は悪魔だ。それもただの悪魔ではない」


「ただの悪魔ではないって……」


「リグレットはかつて滅びた魔王の記憶とその“力”を受け継ぐ、最低最悪の【魔王の覚者腐れ外道】だ。その邪悪な心と思考回路はキミの理解が及ぶところではない。考えるな。キミが情で迷わされるのはリグレットの望むところだ」


「ハンドレッド。おまえ、何か知っているのか?」


「悠長に話をしている場合ではない。だが私を信じてくれフィフス。リグレットが【魔王の覚者】ならば、隣町に向かった騎士団と孤児院の子どもたちはどうなった?」


「それは……」


「彼らの道中にはこの女も同行していたはずだ。一刻も早く、皆の安否を聞き出すべきだ。急げフィフス! そうでなければ……」


「でなければ、取り返しのつかないことになる……とでも思っているんですかあ?」


 ハンドレッドのセリフを先取りしてリグレットがにちゃりと笑った。


 僕とは違って状況を把握しているハンドレッドの思考は明快だ。

 リグレットも話が早くて助かると言いたげにうなずいている。


「おバカさんですねえ。とっくに取り返しがつきませんよお」


「おまえ、それはどういう意味だ!?」


 僕の脳裏には最悪の未来が映像として想像された。


 フラッシュバック。燃え盛る村と、けたたましく笑う悪魔たち。

 助けを求めて死んでいく家族の幻影が僕の心を追い詰める。


 ダメだ。話していてもらちが明かない!

 リグレットを殴り倒してでも、子どもたちの安否を聞き出さなくては! この女は悪魔なんだ、同情の余地なんであるものか!


 リグレットに食ってかかろうとした僕。

 そこで、僕の前に出たノーブル先生が機先を制してとめた。

 カッとなっていた僕は、冷静さを取り戻して一歩を退く。


「落ち着きなさい。フィフスくん。子どもたちは騎士団が保護している。赤いお嬢さんも一緒だ。心配しなくても大丈夫だよ」


「先生……」


「これは想像だが。光の勇者と一戦を交えるのは旗色が悪いと考えて、こちらに戻ってきたんだろうさ。そんなところかな? リグレットさん?」


「偉そうに語らないでくださいよお。花丸……いいえ、いいえ、そんなわけがありませんよね! 私はあなたなんかが思っているより、ずっと素晴らしいお方から叡智えいちをさずけられたのですから!」


 リグレットが恍惚こうこつともだえた。

 先生は滑稽こっけいさを鼻で笑い飛ばす。


「逃げてきたのは正解だろう? フィフスくんは竜だけどれっきとした人間なんだ……魔王の記憶に心を飲まれたあなたとは“人間”の出来栄えが違うんだからね」


「人族の分際で、知った風に言ってくれますねえ?」


「知っているからね。私は年長者だ。王国に仕えた騎士として昔話の伝承くらいは知っている。勇者のことも悪魔のことも、もちろん偉大な竜王のことも……」


 ノーブル先生は僕を見て微笑んでくれた。


 僕はその笑顔に励まされて心を落ち着ける。

 そうだ。慌てるような時じゃない。


 先生の言う通り子どもたちは騎士団とメモリアが守っている。

 リグレットの思わせぶりな言葉はすべてが安っぽい挑発だ。


 先生の言葉を信じるべきか、悪魔の言葉を信じるべきか。

 考えるまでもない。僕の選択は最初から決まっているんだ。


 リグレットが見下げ果てたように鼻を鳴らす。


「ははん、育て親の背中に隠れた子どもが睨んでも、怖くもなんともありませんよお?」


「あまり私を笑わせるな。悪魔ごときが。勇者に勝てなくとも竜になら……フィフスくんが相手なら勝てると思ったのか? ケチな考えをしているから、おまえたちは神話の最終戦争に敗れたのさ」


「……頼りになるお父さんでうらやましいですねえ」


 リグレットは作り笑いを引っ込めて、つまらなさそうに口を曲げた。

 態度悪くつばを吐き捨てた彼女は観念したように白状する。


「正解ですよ。私は勇者のメモリアさんと戦って、力及ばず逃げ出しました」


「…………」


「あんまり遊んでいると逃げられなくなりそうだったので大人しく逃げました。子どもを殺せていれば気が晴れたのでしょうけど……」


「…………」


「どうしたんですかあ? 黙ってしまって? お話ししましょうよ、せーんせい?」


「なんでもない。それで?」


「うんうん、ですからあ。おっしゃる通りなんですう! 負け犬の私は、嫌がらせにフィフスくんの命を狙って、こうしてやってきたわけですよ!」


「騙されるな! フィフス! ノーブル先生も時間稼ぎはもう十分だ!」


 ハンドレッドが身を切るように叫び明滅した。


 僕はハッとする。

 沈黙を保っていたハンドレッドの悲痛すぎる叫びに、だ。


 悲鳴だった。

 怒りに燃えて悲しみに打ちひしがれる感情の発露だ。


 竜石ハンドレッドが狂ったように激しく明滅する。


「その女は外傷を負ってなどいない! 逆だ! その女の素肌には騎士団と“メモリアの”魔力パターンに一致する血液がこびりついている! 彼らは皆、その女に殺されたのだ!」


「なっ……」


「子どもたちはもはやこの世にいない! 戦え、戦うんだフィフス! そうでなくては、キミは悪魔にすべてを奪われることになるぞ!」」


「おまえ、ハンドレッド。そんな。いきなり、何をバカなことを……」


「フィフス……戦え、戦ってくれ。私にはキミを説得できる言葉は何もない。だが信じてくれ。その女はキミの命を奪おうとしているのではない。キミが持つすべてと、キミの心を守る世界を壊そうとしているんだ」


 ハンドレッドが悲痛に訴えた。

 僕には訳が分からない。


「その女は悪魔だ……竜であるキミを呪い、青き血によって人族を狩る【魔王の覚者】なのだ。リグレットを討ち倒すことでしか、キミは家族を守れない……」


 そんなはずがない。


 だって先生が言ったじゃないか。

 子どもたちは騎士団が護衛している。


 メモリアだって一緒にいる。

 だから大丈夫だ。大丈夫だよ。


 ハンドレッドの思い違いだ。勘違いだ。

 そんなわけがない。だって先生が言ったんだ。


 大丈夫だ、ってさ。そうでしょう? 先生?

 僕が恐る恐る先生に視線を向けると。


 ノーブル先生は穏やかな表情で僕に笑いかけた。

 ほら、やっぱり。


「そうか」


 先生はただしい――


「残念だ」


 たった一言の諦めを口にして、先生は両目から涙を流した。


 僕は呆ける。この時の僕は先生の涙を生まれて初めて目の当たりにした。

 なんで泣くんですか? 先生?


 それじゃあまるで、今の話が本当みたいじゃないですか。


 僕が震える唇で先生に問いを投げようとした。その時に。


「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」


 あんまりに醜悪な爆笑が冷たい墓地に響き渡った。

 僕は怒りで震える。なに笑ってんだよ。


 おまえは逃げてきたんだろ? メモリアに負けて逃げてきたんだろ。


「なーんだあ。先生も本当はわかっていたんですよねえ? 偉そうにカッコつけてくれるから、柄にもなくお芝居しちゃいましたよ」


 みじめな負け犬なんだ。だから笑うな。笑うなよ……

 おもしろくない現実に打ちのめされて、先生に言い負かされて、おまえは尻尾を巻いて逃げかえればいいんだ!


「辛いですねえ? 心が折れちゃいますよねえ? よくがんばって教え子の前で強がってくれますねえ! そういうのが見たかったんですよ! 私はねえ!」


 なのに、どうして――


「いーやー、最初から涙を見せてくださいよお! 望んですがった“夢”に破れた人間の哀れを誘う涙ってやつをねえ!」


 リグレットがけたたましく笑いながら両手を打ち鳴らして拍手喝采をした。


 ふざけるな。なにが楽しいんだ。

 ひとりで演じて、ひとりで笑って、ひとりで拍手喝采だなんて悪趣味が過ぎる。

 

 怒りで握りこぶしを震わせる僕はリグレットを睨んだ。

 リグレットは、先生の背中に隠れる僕なんて気にも留めずに笑い続ける。


 リグレットはどこからともなく虚空から“青い石”を取り出した。

 獣石――彼女が僕にくれた竜石と同質の力を秘めるソレを、リグレットが天に掲げる。


「今度こそ完全完璧に花丸です。みんなみんな、可愛い子どもたちも未来ある騎士たちも、みんなみんな……みーんなみんなっ」


 青い魔石が輝きを放った。


 薄青い閃光が共同墓地を包み込み、僕の目をくらませる。

 視界を奪われたのはほんの一瞬だった。

 

 リグレットは、恐ろしく巨大な冥狼変貌へんぼうする。


「みんなみんな、今 は 私 の 腹 の 中」


 青い毛並みを赤黒い血の化粧で染めて、粘っこい唾液を垂らす醜悪な獣。


 牙を打ち鳴らして残虐に舌なめずりする巨大な狼は高い場所から僕たちを見下ろした。


 大きい。それは少なくとも僕が戦った悪魔よりずっと巨大なバケモノだった。

 竜になった僕と同じくらいの大きさだ。


 しなやかな筋肉を含めた横幅は僕よりも大きいかもしれない。


「私はリグレット。冥狼めいおうリグレット」


 僕はすべての出来事を悟った。


「さあ、私においしい思いをさせてください」


 ハンドレッドの言葉はウソじゃない。


 みんなはこいつに殺されたんだって。遅ればせにやっとわかった。

 僕は震える声で、人喰い狼に決まりきった問いを投げた。


 僕の心は限界だった。

 問わずにいれば、器がパリンと音を立てて砕けてしまう。


「……なんでこんなことをするんだ?」


「はあん?」


「おまえは僕に恨みがあるんだろう!? 仲間を殺した僕が憎いんだろう!? なら僕だけを狙えばいい。僕だけを殺せばよかったんだ! どうして関係のない僕の家族を傷つけるんだ。言え! 答えてみろ! このバケモノめ!」


「いいえ、いいえ。そんなまさか。滅相もない」


 狼が、うやうやしくこうべを垂れた。

 醜悪な心根を隠そうともせずに、大きく裂けた口で彼女は笑う。


 笑いに紛れて牙と牙の間から――歪にひしゃげた子どもの手足が地に落ちる。


「星の瞳を持つ竜王とその眷属。あなたは私たち悪魔から魔王さまという光を奪った怨敵。仮にあなたが知らずとも、私はそれをこの青い記憶ひとみで覚えている……」


 狼がにちゃりと笑って先生を見た。


「あなたの本当に大切なものを。ソレを奪うのはこれからです」


 にじりにじり、人間の怯えを楽しむみたいに、狼が近づいてきた。

 僕は竜石を掴んで、狼の前に立ち塞がる。


「させるものか! おまえだけは絶対に許さない!」


「許さないのは私の方ですよお。フィフスくん。あなただけは苦しみぬかせて死なせてあげます。魔王様を殺した竜王の眷属……おまえたちの魂が許されることは未来永劫に決してありえないのです」


 僕は竜石を握りしめた。


 だけどそれ以上は何もできなかった。

 何も望まなかったわけじゃない。


 僕は竜になって戦おうとしたんだ。

 だけど戦おうとしても本当に体が動かなかったんだ。


 目も、口も、指先ひとつ動かない。

 狼は前足の一閃で僕をなぜるように容易く蹴散らす。


「金縛りの邪眼。ほんっとうに不便ですよねえ? 脆すぎる人間の身体と、魔の法に耐性を持たない矮小な人間の精神はね」


 僕は墓石に叩きつけられて倒れた。


 朦朧とする意識を気力で支えながら、先生へと手を伸ばす。

 先生は狼から逃げることをしない。


 僕と同じように金縛りの邪眼に囚われているのだろうか?

 狼は唾液を垂らし、目元だけで醜く笑う。


「勝てませんよ。あなたは」


「そうだろうな。それが私の分相応だ」


 先生は抵抗しない。

 諦めているのだと僕にはわかった。


 でもダメだ。ダメだよ!

 先生を死なせてしまったら僕は本当にすべてを失ってしまう。


 でも大丈夫!

 僕は竜だ。だって僕は人間じゃない。


 だから戦える。だから先生を助けられる。

 少しだけ距離が離れているけれど竜になればほんの一歩で間合いを詰められる。


 まずは狼の首筋に牙を突き立ててくらいつく。

 狼の両目を両手の爪で潰して、脳みそをえぐり出す。


 たったそれだけのことができるだけでいい。

 簡単さ。

 でも、狼の目に縛られた身体が凍えて動けないんだ。

 だけどね。先生が悲鳴を上げてくれたら僕はすぐにでも先生を助けに行ける。


 自分を殺せる。心を殺せる。

 本当の意味で悪魔より悪魔らしい竜になれる。


 先生が僕の弱い心を殺してくれれば僕は先生を助けられる。

 だから先生、お願いします。


 僕に助けを求めてください

 みっともなく、命乞いをしてください。


 僕たちの大好きな先生はそんなことをしないとわかっている!

 でも今だけは! お願いだから今だけは!


 ねえ、どうか、僕に力を、どうか――


「フィフス」


 狼の牙を目前にしても先生は泣きも笑いもしなかった。

 先生は僕を励ますことも僕を見下げることもしない。


 僕は見る。


「自分を諦めるな」


 先生の指先がまっすぐに僕を向いた。

 残酷な瞬間を僕は、目の奥深くに焼きつける。


騎士の信任ナイトサイン――」


 牙のおりが閉じられて先生の身体から噴水みたいな鮮血が噴き出す。


 その時になってようやくハンドレッドが言ってくれた。


「フィフス、キミは逃げたいか?」


 ……逃げ出したいに決まっていた。

 怖くて今にも心が壊れそうで全身の震えが止まらない。


「今キミの心を支配しているのは悲しみでも後悔でもない。自分自身への怒りだ」


 当たり前だ。許せないに決まっている。


 リグレットをじゃない。

 無力な自分を、僕は死んでも許せないんだ。


 竜石を握りしめる手に握力が戻る。

 僕は戦えるのだと、明瞭めいりょうになった思考が教えてくれた。


 でも戦うって?

 先生はもういないのに、どうして今更になって戦う必要があるんだ?


「怒りは判断を曇らせる。百害あって一利ない。キミは愚か者なのだ」


「ハンドレッド……」


「だが、そんな理屈は私には何の関係もない話だ」


 竜石が明滅してハンドレッドが意味の分からないことを言った。


 手のひら返しかい? 怒る者は愚か者で、僕は先生を失った。

 だけどハンドレッドにとっては関係がないことだという。


 わからない。

 ハンドレッド。おまえは僕に何と言ってほしいんだ?


「フィフス。キミが怒りに飲まれて自分を見失うのだとしても私はキミの味方だ。私にはキミの考えが良くわかる。だがそれはキミの心を筒抜けにする仕業しわざではない」


 狼が先生を咀嚼そしゃくして笑っていた。あの悪魔が今も生きて笑っている。


 僕はいかり、みじめな気持ちで地を這っている。

 ハンドレッドは僕の心持ちを見透かしている。


 ハンドレッドは僕を励ますことをしない。


「どんなにみじめでもどんなに苦しくても私はキミから逃げ出さない」


 ハンドレッドは言った。おまえはなんだ?


「うとまれ軽んじられて心を引き裂かれようとも私は決して逃げ出さない」


 ハンドレッドは言った。おまえは……


「たとえそれが、間違いだらけの愚かな選択だったとしても」


 ハンドレッドは、僕の、おまえは、僕の……


「私はキミの“魂”なのだから」


 ハンドレッドのまっすぐな言葉が、卑屈に沈んだ僕を暗闇から引き戻した。

 彼はなおも、進むべき道を問うてくる。


「キミはどうだ? フィフス?」


「逃げたりなんかしないよ」


 僕は震える脚で立ち上がった。


 土くれを掴んで立ち上がる。

 狼が咀嚼をやめて僕の方を見た。


 でも今はもう、汚れた両目に何の恐怖も抱かない。

 僕は迷いながらも行くべき道を見つける。


「好きだから。僕はみんなが大好きだから」


「フィフス……」


「怖いんだ。僕を僕としてくれるすべてを失ってそれでも僕は自分でいられる自信がない。でもみんなのことが本当に好きだから! 僕は自分を許せない!」


 涙が流れていた。悲しみの色とは違う感情の発露だ。

 悔し涙かって? 違うよ。僕の涙はもっと情けなくて臆病な涙さ。


 怖いんだ。

 何かを失うのが怖いんじゃない。


 自分が自分でなくなるのが怖い。

 大好きな家族を裏切って血も涙もない悪魔に成り下がるのが怖い。


 だって――


「僕はまだ、先生と子どもたちの……みんなにとっての家族でありたい」


 それこそが優しい先生の願いだと知っているから。


「終わらせたくないんだ。僕たちと先生の“夢”を………」


「私はキミの決断を信じる」


 竜石が閃き輝いた。淡い翡翠色の輝きが僕を溶かして僕でないものに変えていく。

 それでいいと思う。心からそう思える。


「フィフス。自分を諦めるな」


 ハンドレッドの言葉に先生の指先が幻影となって重なる。


「キミが胸にいだく、その“夢”を目指せ! 私とキミで悪魔の牙城に挑戦しよう!」


 僕は何者でもない。


 本当の生まれ故郷を知らず親の顔も知らない。

 生まれを呪えば気楽だろう。我が身を呪えば簡単だろう。

 だけども、そうさ。だとしても。


 今の僕が何をなすべきか。

 今だけは……


 この記憶ひとみが知っている。

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