61 ふたりきりのお弁当作り④

 中学校の卒業式。ひっそりとした校舎裏に現れた彼を、ジェーンはあの時もこんな緊張した声で呼んだ。


「ん? なに」


 不思議そうに見つめ返す彼を前に、逃げ出そうとする体を懸命に叱咤して顔を上げる。湧き上がる恐怖と戦いながら、冷たくなった拳を握り想いをぶつけた。


「私、その、私たち、本当は……」


 うん、とやさしく応えたダグラスの声に、ジェーンは目を見張る。けれど目の前にいたのは、照れくさそうに笑ったあの日の男の子ではなく、精悍せいかんな顔を怪訝に歪める大人のダグラスだった。


「……いえ。なんでも、ありません」

「焦らなくていいよ。もしなんか思い出したらまた話してくれる? 俺ももう一度よく思い出してみるよ」


 その時鳴ったキッチンタイマーの音が会話を切り上げた。ゆで上がったパスタを水切りに移すダグラスを見つめていると、頭がキリキリ痛みはじめる。

 告白を経て恋人になったふたりがその後どうなったのかは、ジェーンにもわからなかった。夢に見る断片的な場面だけで、ダグラスに関わることでも思い出せない。

 ジェーンはダグラスがどんな高校に行き、いつ芸大に進学を決め、役者を志すようになったのか知らなかった。

 目をつむり、幸せそうに夢の中のジェーンを抱き締めるを思い描く。


「私たちは終わってしまったの? ダグ。だからいらない記憶を消したの?」

「ジェーン! 野菜はどう? いい感じ?」


 記憶の空白にどんなに恐ろしい時間が横たわっていようと、今ふたりの関係は白紙に戻り笑い合えるなら、この友情を守っていけばいいのではないか。


「いい感じですよ、ダグラス。入れてください」


 フライパンからあふれるパスタに慌てるダグラスを、ジェーンはぎこちない笑みで見つめた。




 三週間が経ち、ジェーンはトイレ掃除に慣れてきた。女性と男性トイレをすっかり磨き上げ、予備のトイレットペーパー点検を欠かさずおこなっても、十一時半には完了できるようになっていた。

 しかしだからと言ってアナベラは合格の判をくれるわけでも、ましてや整備士として新しい仕事をくれるわけでもない。言いつけられるのは雑用や購買部へのお使い、そして領収書の記入作業ばかりだった。

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