60 ふたりきりのお弁当作り③

「俺、芸大時代に舞台の奈落から落ちたことがあるんだ。そのせいで四、五日間の記憶が飛んじゃってさ」

「そんなことが。怪我は? だいじょうぶだったんですか」

「ちょっと手の骨折れたけど、そんくらい。で、もしかしたらその時、他の記憶も飛んでたんじゃないかって思って。よかったら、ジェーンが覚えてる俺のこと聞かせてくれない? 聞いたら思い出すかも」


 ジェーンは米神に手をあて迷った。障害のある自分の記憶に、いったいどれだけの信憑しんぴょう性があるだろう。妙な夢に流されて、いつの間にか勘違いをしているだけかもしれない。

 けれど――。

 ジェーンはそろりとダグラスをうかがう。彼の右手甲にも確かに、恋人と同じ赤いアザがある。


「私も断片的にしか覚えていないのですが、ダグラスと私は同じ小・中学校に通っていました」

「ごめん。確認していい? その学校の名前は覚えてる?」


 ジェーンはしばし考えたが、出てこなかった。首を振るとダグラスは「そっか」と眉を下げる。


「他に覚えていることは?」

「ダグラスはよく男の子たちに囲まれて、私はそれを見ていました」

「あ。その中で名前覚えてるやついる?」


 この質問にもジェーンは答えられなかった。ダグラスの周りに誰かいたと思っても、名前も顔も白く消え失せている。つくづく彼のことしか覚えていないんだと歯がゆくなった。


――ダグラスくんってかっこいいよね!


 唐突に知らない女の子の声が頭に響いた。そうだ。それがただ見ているだけの存在だったダグラスが、ジェーンの中で気になる人へと変わったきっかけだった。

 それ以来ジェーンは誕生日やバレンタインデーにかこつけて、ダグラスに贈りものをするようになった。今思えば焦燥と嫉妬から芽生えた恋心だった。


「あとは、誕生日プレゼントとか贈っていました」

「そうなのか。うーん……」


 頭を掻いて悩むダグラスが、プレゼントを喜んでくれていたのかわからない。どんな話をして、どれだけいっしょに過ごしたのかも。

 だけどひとつだけ、夢で見るようにはっきりと覚えている場面がある。


「あのっ、ダグラス……!」

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