紅の剣士
「ユウト、今日はもう終いだ。戸締り確認したら寝ちまえ」
「はい!」
今日も仕事を数件済ませ、店を締める時間になった。とっぷり日は暮れ、夜の帳が降りた農村はどこもかしこも牧歌的な雰囲気だ。転移前もそれなりの田舎には住んでいたがここまでではなかった。電気もスマホもない異世界は不便とも言えるだろう。しかし長閑でどこか愛おしい。
疲労が溜まった体を伸ばし、中へ入ろうと踵を返そうとしたとき。
真っ暗な視界の奥で、なにか黒いものが動いていた。よろよろと心もとない動きのそれは不気味な印象を与える。明らかに、不審だ。
あれはなんだ。酷く酩酊した村人か。もしくは盗賊か、それとも──魔物の襲撃か。最近は魔物の被害が他の村や街の方でも多いと聞く。近隣の森は幸運なことに魔物の住処にはなっていないようだが、いつの間にか根城にされる可能性だってあるだろう。それに、この世界にどんな魔物がいるかわからない。油断はできない。
ゴクリと唾を飲み込み、身を隠しながら傍に寄る。そうして、ようやくそれがなにか視認したとき。俺は目を疑った。それは酷く傷ついた人間だったのだ。腹から夥しいほどの血を流し、ボロボロになりながらも必死で歩を進めている。剣を携えている身なりからして冒険者らしかった。商人などが持つ護身用のそれとはやはりどこか雰囲気が違うのだ。
「っ大丈夫か!?」
急いで駆け寄り声をかければ、虚ろな瞳はゆっくりと俺を捉え。そうして、がくりとその体はくずおれた。地に着く前に咄嗟に抱きとめると、不安になるほど荒い呼吸が聞こえてくる。
「……っすま、ない、かいふく、を……」
体にかかる重みが増す。青年はそれ以上何も言葉を発することは無かった。
この田舎に回復魔法を使える者は居ない。だから重傷や病を患った際には皆街からそういった人を呼び寄せていた。しかし今からでは到底無理だろう。実際処置が間に合わずに亡くなる人もこの村にはいたらしい。
なんとか肩を貸す形で必死に歩く。辿り着いた鍛冶屋の玄関で声を張り上げて親父さんを呼ぶと、彼はすぐに飛んで来てくれ、俺の肩を借りるその人を見て血相を変えた。そして俺から青年を受け取り抱え、叫んだのだ。
「今すぐヤコブの爺さんを呼んでこい!! あの人なら少しは強い回復魔法が使える!!」
「っ、はい!!」
ヤコブさん。豊かな白い髭を蓄えた好々爺だ。ここを贔屓にしてくれており、鍋などの修理を頼んで来たことのある人だった。修理の済んだ品物を家へ届けるのは俺の仕事だったため、道は頭に入っていた。村の外れにある鬱蒼とした森の中、ひっそりと家が佇んでいるのだ。
返事と同時に駆けていく。頼む、間に合え、間に合ってくれ。あの人が死んでしまうのはすごく、夢見が悪いじゃないか。ただ走る。何度も足が縺れ、転んで膝からは血が滲み疼痛が走ったが、それに構っている暇は無かった。どこか遠くから聞こえる気がする魔物のおぞましい鳴き声にすら恐怖する時間は無い。
喉が渇く。気持ち悪い。肺が痛い。足が痛い。そんなこと、あの青年の命の危機よりもずっと瑣末だ。
走って、走って、走った視界の中で。見えたのは、一軒の家。紛うことなきヤコブさんの家だ。
歓喜が腹の底から溢れる。やった、やっと────伸ばした手は届かず、体に強い衝撃が走った。地に倒れる。緩慢に顔を上げ、ようやく俺は魔狼に飛びかかられたことを知ったのだ。
「ひ、」
どうしてこんなところに。どこかから迷い込んできたのか。グル、と低い唸り声が耳に張り付く。ぎらりと輝く双眸が俺を貫く。腹に置かれた前足が、爪を柔く肉に食い込ませた。開いた口から暴力的なほどに鋭い牙が、今にも俺を食い殺さんばかりに涎を滴らせている。呼吸がうるさい。恐怖と疲労で体は動かない。
やっとここまで来たのに、俺が死んだら、助けを呼べなかったらあの人は。
かぱりと開いていく口を見つめながら、俺は口惜しさから涙を流していた。固く目を瞑る。死を覚悟したその瞬間、耳に入って来たのは。
──狼の悲鳴だった。
「ギャインッ!!」
「は……」
見ればどこからか放たれた真空の刃がそいつを傷つけている。飛び跳ねるようにして上から退いた狼は、逃げるようにその場を後にして行った。とうに消えた後姿を呆然と見つめていると、すぐ後ろから男の声がする。
「魔狼に襲われるとは、大変だったなぁ。どれ、だいじょう……おや、あんた鍛冶屋のじゃないか。はて、なにか依頼でもしたかな」
ヤコブさん。その人を認識するかしないかの内に、俺は立ち上がってローブに縋り付いていた。
「お願いします、助けてください!!」
「……どうしたんだい、言ってみなさい」
「ボロボロの人がウチに来たんです! このままじゃ死んじゃうかもしれなくて、そしたら親父さんが貴方を呼べって……!」
「なるほど、わかった。すぐに向かおう」
言葉も上手くまとまらない俺の話を聞くと彼は二つ返事で了承し、家の中へ足を進めた。慌てて後を着いていく。朧気な明かりが灯る整然とした部屋の中で、彼は棚の中を探っていた。
「待っていろ、確かなけなしの魔石が……あった。ここから村までなら飛べるだろう」
魔石──魔力を込めることで望んだ場所へ転移ができる代物だ。石の品質や込める魔力が強ければ強いほど遠い場所への転移が可能になるのだという。しかし希少な物ゆえ値が張るらしい。話には聞いていたが、見るのは初めてだった。七色に煌めくそれは、彼がなにか呟いたと同時に眩い光に包まれる。ほんの数秒目を強く閉じていると、瞼の奥の白は弱まっていく。
瞼を開けばそこは鍛冶屋の前だった。感動する間もなく、俺は扉を開けてヤコブさんを先導する。俺の声を聞き付けた親父さんに呼ばれ、俺たちは俺の部屋の寝床に横たわる青年の前に立った。上半身の服は脱がされ、清潔な布で簡単な止血はされているようだが顔色が悪い。依然として息は荒く、今にも死んでしまいそうな彼に焦燥が募った。
「多かねえが、村中の魔力ポーションを集めたんだ! 爺さん、これを飲みながらどうか回復魔法をかけてやってくれ!!」
「老人使いが荒い……まあいいさ。この傷じゃそれでも治りきりはしないだろうが、できることはする。アンタのとこには世話になっとるんでな」
魔力はポーションを飲めば即時回復する。しかし傷や病は回復魔法でしかすぐに癒えることが無い――ここに来て、俺が強いギャップを感じた事実であった。治りが良くなる薬草を煎じた薬もあるようだが、俺の世界と同じような代物らしく即時治療はしないらしい。回復魔法の存在や恩恵と引き換えに、この世界は医療が未発展のようだった。もしかすれば王都などでは少しは研究が進んでるかもしれないが――ここまではその知識が及んでいない。
ゲームの世界であればポーションで全て解決するのに。どうしようもない現実に歯噛みする。
「力は尽くした。今夜が峠だな。あの若者の体が持ってくれればいいが……」
息をついて、ヤコブさんは疲労が色濃く表れた声を発する。俺の怪我を治せる魔力が残っていないことを謝られたが、そんなことはどうだってよかった。それほど青年の治療に尽力してくれたということなのだから。
俺は血を洗い流した傷痕に、清潔な布を巻き付けてひとまずの処置をした。有難いことに薬草を煎じた簡単な塗り薬をヤコブさんが出してくれたが、傷口に酷く染みて涙が滲んだ。
「……ひとまず、礼を言う。少しは傷が塞がったろう。今日さえ乗り越えりゃ良い」
「街のギルドの冒険者だろう。それにしたって、なんでこんな辺鄙なところに来たもんかねぇ……依頼でも出ていたかな」
髭を撫でつけながら呟く。
「さあな。……アンタもそろそろこの村に住めよ。そうすりゃ重病人だかが出ても駆けつけられるだろ、皆苦労してんだ。もちろん礼はする」
「ははは……悪いが、あの森の方が住み心地がいいのさ。精霊の加護が強く満ちているからな」
「お前の部屋の方が近いから寝床を使っちまった。今日は俺の部屋のを使え」
「……いえ、俺、ここでこの人を見てます。おふたりはお休みになってください」
「馬鹿言うんじゃねえ、お前も疲れてるじゃねえか」
「お願いします。……そうしていないと、落ち着かないんです」
「……わかった。なにか異変があったらすぐ起こせ」
そばに置かれた服とポーチにも血が付着している。何も知らない者が見れば卒倒するだろう。服は随分ボロボロになってしまって、繕うにしても元に戻すのは難しそうだ。彼には俺の服を着てもらうとして、この血に塗れたポーチはどうしようか。幸い傷は無いため洗いたいが、そのために中身を出すのは気が引ける。
どうするべきか悩んで持ち上げると、留め具が緩くなっていたそれから紙がはらりと落ちてきた。拾い上げてわかったが、ところどころがボロボロになった似顔絵だ。描かれていたのは、ひとりの美しい女性……というよりは、女の子。柔和な雰囲気と人柄は嫋やかな笑みに表れているようだ。宝石のような紅い瞳が印象的だった。
随分と文字はぼやけてしまっているが、右下には小さく名前が書かれている。《マリア》──きっとこの青年にとってかけがえのない人なのだ。胸が締め付けられる。
「……どうか、どうか助かってくれ。こんなところで死ぬな」
声を絞り出す。柄にもなく、指を組んで神に祈った。それが元の世界の神だろうがこの世界の神だろうがどうでもいい。この人を助けてくれるのなら、なんだって良いのだ。
燻る気持ちを押し殺しながら、肖像画をポーチの中へ戻す。そしてそのままベッドの傍にあった木編みの籠に置いた。近くにある方が安心するだろう。心做しか、彼の表情がほんの少しだけ和らいだ気がした。
そうして何時間が経ったのだろうか。ベッドには窓から射し込む光が流れ、鳥の囀りが静かな部屋に響いていた。一睡もしないまま一晩中祈り続けていたようだ。部屋へ運び込まれた頃に満ちていた荒い息は落ち着き、穏やかな寝息へと変わっていた。
僅かな安堵を覚えたその瞬間、青年の長い睫毛がふるり、と震えた。瞼がゆっくりと開く。そこから覗く紅い瞳が胡乱げに宙を見つめ、ゆっくりとこちらへ向けられた。
「……ここ、は……」
掠れた低い声。俺は慌てて口を開いた。
「……! 大丈夫か、調子は!?」
「え……? あ、ああ……少し、傷が痛むくらいで――」
「わかった、少し待っていて!」
部屋を飛び出し、リビングへ走るとふたりはそれぞれ壁にもたれるようにして寝ていた。ここで休んでいたらしい。しかし俺に気づいた彼らは跳ね起きたように体を起こし、焦りの滲む表情を浮かべた。尋常でない様子に非常事態だと考えたのだろう。ああ、確かにそうだ。
だって、彼が目を覚ましたのだから!
「あの人、起きました!!」
発した声は、どうしようもなく弾んだ。
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