第40話 硝子の世界

 空を流れる緑青色の帯が消えたころ、ふとマーヴィが立ち上がった。



 「なあ、ギル」



 「何?」



 傾き始めた月が、マーヴィの横顔に影を落としている。暗さも相まって、ハッキリとはその表情を読み取れない。



 「……旅に出たばかりの時、最初の町で話したことを覚えているか?」



 控えめに話す彼を見て、ギルは怪訝そうに顔をしかめた。



 「えっと、なんだったっけ」



 マーヴィはため息を一つ吐くと、体ごとギルの方に向き直る。



 「人魚の魔法のことだ」



 「ああ、そのことか」



 ギルもつられて、体ごとマーヴィの方へ向き直る。十六夜の月はひどく明るく、それを背に立つ彼の表情により暗い影を落としていた。



 「あれな、もういらねえ」



 それは、何かを決心するような言葉だった。表情は見えずとも、彼がどのような顔をしているか容易に想像がつくような、強い口調だった。



 「そう…………。会いたい人に、会えたの?」



 「まあ、そんなところだ」



 低音の彼の声は、憑き物が落ちたように明るいものになっていた。自分のいないところで、こうなる出来事でもあったのだろうか。



 「……それって、誰なの? あ、言いたくないなら言わなくてもいいけれど……」



 つい、聞きたいことが口をついて出てしまった。慌てて取り消すようなことを言うが、マーヴィは特に怒るような素振りも見せずに返事をする。



 「ああ……」



 マーヴィは一度言葉を切り、空を仰ぎ見た。緑青色の帯が消えた後には無数の星が瞬いている。



 「オレの……母親だ」



 無数にある星の中から何かを探すように、じっと空を見つめている。マーヴィは空を見たまま、ゆっくりと話し始めた。



 「軍隊にでも入ったら、忘れられるかと思っていた。それでも、どこか諦めきれないでいたんだ。…………母親みたいになることを」



 視線を空からギルの方へ移す。月が真上に来始めているからか、先ほどよりも少し表情が見えるようになっていた。



 「だが、あんなもん見ちまったら諦めるしかねえよなあ」



 マーヴィは自嘲気味に笑っていた。彼のこんな顔は見たことがない。楽しくもないのに笑う異様な様子を見て、ギルは思わず目を丸くして彼を見上げた。 



 「あれは、オレでは作れねえ。技術とか、手先の器用さとか、そんなもの以前の問題だ」



 ギルの顔を見て、マーヴィは手に氷のナイフを作り出す。そのナイフに視線を移すと、自嘲気味に歪めていた表情をふっと緩めた。



 「だから、もうやめよう」



 左手で自分の長い黒髪を握りしめる。すると、ギルが声をかける間もなく、右手のナイフでその髪を一思いに切り落としてしまった。



 「オレはオレだ」



 そう呟く声からは、力強い意思のようなものが感じられた。切り落とした髪を握りしめる手も、硬く閉じられている。しかし、ふと振り向いたその真っ黒の目はどこか寂し気で、迷子の子供が強がりを言うようにギルの目には映った。



 「まあ……。それでいいならいいけど……」



 微妙な反応を返すギルに、マーヴィは視線を逸らせるようにして目を伏せ、握りしめていた手をゆっくりと開いた。



 永久凍土の、冷たい風が吹き去っていく。マーヴィの手の上に乗せられた髪が、風と共にさらさらとさらわれていくのを、二人はしばらくじっと見送っていた。その風は、まるで形にないものすら連れて行こうとしているようであった。





 テントに戻ってからというもの、ギルは一睡もできずにいた。もう魔王城は目の前だ。彼は元気だろうか。これからどうするべきなのか。そんなことがずっと頭の中で回っている。目を開けたままじっと横たわっていると、外から明かりが差し込んでくる。それを合図に、誰かが起き出すような気配を感じた。


 顔をあげてみると、シェリーマンがこちらに背を向けて朝の支度をしている。それ見たギルも、隣を起こさないようにとゆっくり起き上がった。



 「おはようございます」



 「ああ、おはよう」



 シェリーマンは、昨日の夜と同じようにオイルランプに火をつけて湯を沸かそうとしている。



 「あ、俺も手伝います」



 そう言うと、ギルは蓋の空いた樽へと進み、近くにあったピックを手に取ろうとする。しかしピックに触れたとたん、自分の手を見たギルは絶句し固まってしまった。右の手首から指の先まで、白い羽毛がびっしりと生えている。おそらくは自身の本来の体毛だ。しかし、変身魔法を解いた覚えは全くない。



 「はっはっは。貸してごらん」



 混乱して樽の前で佇むギルを見て、シェリーマンがすぐに助け船を出す。後ろから近づいてくる彼の目線から隠すようにして、右手をズボンのポケットに入れる。シェリーマンは気づく素振りも見せず、慣れた手つきで氷に穴をあけていき、あっという間に抱えるほどの大きな氷を切り離した。



 「すみません……」



 「いいんだよ。慣れてないと難しいからね」


 


 シェリーマンは気にする様子もなく、その氷をさらに細かく割ってヤカンの中へ投げいれていった。



 「昨晩から思っていたけれど、君はなんだかチグハグだね。丁寧なしゃべり方なのに一人称が“俺”だし。育ちは随分と良さそうなのに、言葉の端々には棘があって。とても不思議な感じだ」



 世間話でもするようなシェリーマンの言葉に、ギルは右手を隠したまま一瞬動きを止めた。ギルの頭の中で、シェリーマンの言葉が何度も反芻される。ああ、こんなことを言われたのは、いつ以来だろうか。



 「……昔、友人に言われたことがあるんです。“そんなにいい子のふりをしてしんどくないか?”って」



 右手のことすら忘れて、懐かしさに思わず表情が緩む。そうだ、以前これに近い言葉をかけられたことがある。ギルにとっては嬉しい出来事だった。



 「ほう、それで?」



 急に嬉しそうな表情になったギルを見て、シェリーマンは興味津々に身を乗り出した。その姿を見て、ギルは少しずつ昔を思い出すように語り始めた。



 「俺、“しんどい”って答えたんです。そうしたら“やめちまえ”って言われました。そんな風に言う人は他にいなくて、初めてで。嬉しかったんです」



 彼は、ギルのことを本当によく見ていた。どれほど意見が食い違っても、正面からぶつかってきて、理解しようと努力し続けた。ギルの仮面に騙されていると気付かない、いや気づこうとすらしない連中とは大違いだ。理解しようとしていたからこそ、彼はギルの仮面を簡単に見破ってしまったのだ。



 「そうだね。……誰にも自分を理解してもらえないことほど、悲しいことはない。君は……ずっと一人だったんだね。……その人に出会うまでは」



 シェリーマンは、理解を示すように優しく微笑みながら言った。つられてギルも照れ臭そうに笑う。



 「喧嘩もしましたよ。でも俺が、この世で初めて喧嘩できた人なんです」



 そう、あんな風に誰かとぶつかって喧嘩できたのはあれが初めてだった。皮肉にも、俺のむき出しの本心を彼は引き出したのだ。本心を知られることを、恐れていたはずなのに。相手が彼ならば、不思議と怖くはなかった。それはきっと、彼への“信頼”がそうさせたのだろう。



 「シェリーマンさん……。どうしても怒りが収まらないときは……どうやって収めますか?」



 そして、その“信頼”は彼と同じことを尋ねるこの考古学者に対しても少しずつ芽生え始めていた。



 「どうしたんだい? 急に」



 「ああ……いや……」



 すっかり弛緩しきった心から、出てきた疑問だった。もういくら考えても解決策は出てこないのだから、ダメもとで相談してみるかという投げやりな気持ちもあったのかもしれない。



 「そうだな……私なら本を読むかな。昔から読書が趣味だから」



 「自分の好きなことをするってことですか?」



 「そうだね。怒りってのは大抵、物事が自分の意にそぐわないことを嘆く行動だよ。だから、好きなことをして打ち消す。好きなことをするって、自分を喜ばせることだからね。自然と落ち着くんだよ」



 「喜ばせる……」



 ギルはポケットの中で握りしめていた拳を開き、力を抜いた。



「そうだね…。例えば酸と塩基が混ざり合えば中和されて水になるだろう? それと同じだと私は思うよ。そういうと、人間の感情はそんな単純じゃないと言われるかもしれない。しかしそれは感情を難しくとらえようとするからそう思うのだよ。黄色のガラスを通して見たら、世界は黄色にしか見えない。赤なら赤、青なら青だ。結局、自分の都合がいいようにみんな考えてるんだよ。もちろん私も、君もね。でも、それでいいんじゃないかな。他人の価値観を否定しない限りは」



 そう言って恥ずかしそうに笑うと、シェリーマンはゆっくりと近くの椅子に腰を下ろした。


 ああ、なるほど。そうか。俺はもしかすると、物事を難しく考えすぎていたのかもしれない。彼の言うことが本当なら、俺の変身魔法の力が弱まって来たことにもつじつまがあう。そして、あいつを殺さずに救う方法も……



 「どうだい? 何かヒントにでもなったかな?」



 その言葉をきっかけに、様々な記憶が脳内を駆け巡る。まるで引き出しから必要な物だけが、自ら飛び出してくるようだった。





 “少なくとも、俺は助けるよ。自分よりももっと困っている人を”



 人魚たちが、浜辺に座って魔法をかけている。争いをする生き物たちに向けて。



 “廻り回って自分に返ってくるんだよ”



 天使から喜びの魔法を授かった人魚たちは……


 


 “そうして分けてもらった他の人の“喜び”は、どんな宝石よりも貴重な宝物だと、そう思わないか?”



 “だから、彼は争いを止めるために、世界中の怒りを吸い上げたんだ”



  絶えることのない怒りに身も心も焼かれて、苦しみ続けた……



 “それが、魔王の正体だよ”



 



 様々な人の声が、姿が、走馬灯のように駆け巡っていく。一通りのことを思い出したギルは、あまりの衝撃にうつむいてしまった。



 「……わかりません。でも……でも、これが本当なら」



 ポケットに入れたままの右手に、自然と力が入る。顔が自然と笑み、声は情けないほどに震えた。



 「ああやっぱり君には……かなわないなあ」



 






 





 軽く朝食を取った勇者たち三人は、橙色のテントの下で各々旅の支度をはじめていた。そんな中でただ一人、マーヴィがテントから出てくる。服装を整え、後は荷物を持つだけという状態で、ゆっくりと雪を踏みしめ始めた。



 今日は随分と天気がいい。どおりで昨晩は星がきれいに見えたわけだ。



 マーヴィが足を止めたのは、昨日シェリーマンに連れて来てもらった像のあるテントの前。ゆっくりと布を押し上げると、その先には昨日と変わらず逆又の像が力強く水を蹴っていた。



 像をじっと見つめたまま、ゆっくりと中に入る。像の目の前で腰を下ろすと、両手を重ねて魔法を使い始めた。その間も、逆又の氷の肉体から目線を離さない。前だけを見つめたまま、氷の塊を作り出していく。



 彼は、魔法を一通り使い終わった時に初めて、恐る恐るといったように自分の手元に視線を落とした。目の前にある像とは似ても似つかない異形の塊。ため息をついたその瞬間、背後に人の気配を感じる。手の上の氷の塊を背後に隠しながら咄嗟に振り向くと、そこにはシェリーマンが立っていた。



 「何故隠すのです?」



 シェリーマンはいつもと変わらず、穏やかに笑いながらマーヴィの前にゆっくりと膝をついた。



 「何か作っていたでしょう、よかったら見せてください」



 いつから見られていたのか。マーヴィはなんとかごまかす言葉を二三思い浮かべてみるが、目の前の男の目を見ているとすべて見透かされているようで、何を言っても無駄なような気がした。いや、この男はごまかしても怒ったりはしないだろうし、これ以上詮索してくることもないだろう……。ああ、だとしても自分はそれでいいのだろうか。きっと、何にも変わらない。変われやしない。



 マーヴィはしばらく目を伏せると、そっと自分の後ろに隠した物体を前に差し出した。相手の目が見れない。きっと、彼もひどいというのだろう。オレは、あんな素晴らしい像を造った母とは違うのだ。



 「ああ、これは」



 しかし、シェリーマンの口から出たのは意外な言葉だった。



 「逆又族の子供ですな」



 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことであった。自身の作品を否定するどころか、モデルとなったものを言い当てたのだ。驚いた表情で固まるマーヴィを尻目に、シェリーマンはさらに言葉を続けた。



 「もしあなたがよろしければ、その小さな像をこの像の横に置いてはくださいませんか? この像も、ずっと一人では寂しいでしょう」



 「……こんな、こんな歪なもんでいいのかよ」



 初めてのことに狼狽しながらも、何とか言葉をひねり出す。



 「だから、いいのではないですか」



 シェリーマンは目の前の像を見上げた。そして、昔を懐かしむように笑いながら話し出す。



 「私の父は偉大でした。でも、私は父に遠く及びません。それでも父は好いのだと、お前はお前で好いのだとずっとそう言ってくれていました。どんな役に立つかより、ただそこに生きてくれるほうがずっと嬉しいといってくれたんです。だからこそ私も、もっとそばにいたかったのだろうと思うのです。自分とは違うが他人でもない。そんな不思議な存在に、理由もなく愛されていたんです。だからこそ、もっとそばで話していたかったと……そう、思うのです」



 話し終わったシェリーマンは、そっとマーヴィの手の上に置かれた像を手に取った。そして、水を蹴る美しい逆又の像の横にそっと置く。美しい像と、歪な像。同じ生物をモチーフにしているのに形の違う二つの像は、不思議と最初から並んでそこにあったようにも見える。



 「ああ、やはり……こうやって置くと親子のようですね。……一つの時よりも、ずっと美しい」



  どこかの批評家が見れば、きっと隣の歪な物体をどかそうとするだろう。それでも、二人の目にはどんな高値の付いた芸術品よりも価値のあるものに見えた。きっと、この美しさを知れるのはこの二人だからなのだろう。



 「ああ……そうだな」



 もう、思い残すことはない。マーヴィは目の前の光景を目に焼き付けると踵を返し、振り返ることなく、そっとテントを後にした。




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