第38話 此先
ランプを目の前に掲げると、氷でできたその逞しい体躯がはっきりと姿を現した。隆起した筋肉が鮮やかに光を反射している。赤いテントの下で、逆又の像は力強く水を蹴っていた。指先で軽く触れると、冷たい氷の先にほんのり温かさのようなものさえ感じられる。この氷像は、生きている。そう錯覚させるほどに、精巧な創りだった。そのあまりの完成度に、マーヴィはその場でしばらく茫然と立ち尽くしてしまっていた。
「すごいだろう。私も、初めて見た時はそうなったよ。あんまりにも美しかったから、なくなってしまうのがもったいなくてね。こうしてテントを張って守っているんだ。幸いにもここは永久凍土だったから、日光さえしのげば溶けてしまう心配もない」
「…………」
氷魔法を使う者は、数えきれないほど知っている。しかしここまで精巧で美しい氷像を作る魔法生物を、マーヴィは一度も見たことがなかった。
「実はね、私はこの氷像に助けられたんだ。落ち込んでいるときにこの氷像を見ると、何もかもが吹き飛んだ。生きることの美しさとか……喜びとか。言葉にするとちょっと違うような気もするけど、この像はそれを体現しているように見えてね」
シェリーマンはマーヴィの横に立って話す。ランプを持つマーヴィの手が、微かに震えているのが見えた。それを見て、彼は優しく笑いかける。
「好きなだけ見ていなさい」
それだけを言い、自分のリュックに入っていた予備の小さなランプに火を灯した。そして、テントの出入り口へとゆっくり歩を進め始める。その気配を感じたマーヴィは、ハッと我に返ったように振り向いた。
「待て、オレも行く」
「良いんだよ、ゆっくりしてて。補給庫に油を取りに行って来るだけだから」
マーヴィは脱いでいたフードをかぶり直し、ランプを前に突き出した。
「それじゃあ、オレがついてきた意味がないだろう。今日はもういい。十分に見た」
「……そうかい」
その言葉を聞いたシェリーマンは、もうそれ以上のことは言わなかった。二人して、赤いテントを出る。油を取りに少し進んだところで、マーヴィは前を歩くシェリーマンに声をかけた。
「なあ……。明日の朝、ここを出る前にもう一度見てもいいか?」
シェリーマンは足を止め、ゆっくりと振り向く。マーヴィの表情を見たシェリーマンは、一瞬目を見開き驚いたような顔をした。しかしすぐに表情を緩め、微笑み返す。
「もちろん」
シェリーマンが橙色のテントに着き、布を押し上げると中からバタバタと慌てたような音が聞こえた。後ろのマーヴィが警戒しながら覗くと、こちらを向いて立っているギルと、その後ろに隠れるようにして座っているグラーノがいた。
「何してる?」
「な、なんでもないよ」
中に怪しい者が入っているわけではないことを知り、マーヴィは警戒を解いて中に入った。続いて、シェリーマンも恐る恐る入り口をくぐる。
「何を持ってるんだ」
ギルの後ろを覗き込んだマーヴィが声をあげる。グラーノは分厚い本を両手で抱えてうずくまっていた。
「な、なんでもないよ」
グラーノはそう言いながら、シェリーマンの方をチラリと見やった。こちらに背を向けてリュックを下ろす姿を慎重に確認し、近くの机にその本をそっと戻した。
「ああ。それ、興味があるの?」
机に本を乗せたところで、声がかかった。シェリーマンの方を見ると、こちらを見ている。グラーノは驚いて固まってしまった。
「あ……。ごめんなさい、勝手に見ちゃって」
下ろしたリュックを横に置き、歩いてくるシェリーマンにグラーノは眉を下げて謝った。
「ああ、構わないよ」
シェリーマンはそう言って笑いながら、髭を撫でた。グラーノのそばまで来ると、その分厚い本を手に取って開く。
「なんだ、それ」
改めてマーヴィが尋ねると、シェリーマンは開いたページをこちらに向けて話し始めた。表紙だけ見るとしっかりした本に見えるが、中の紙はよれていて書かれている字もペンで手書きされたものだった。
「これはここで今までに見つかった物を記録した本だよ。実物は手元に置いておけないからね」
自分でも中を確認しながら、シェリーマンは本を軽く読み進めていた。後ろの白紙のページから、前のページのより古い記録を遡るようにめくっていく。懐かしいとでもいうように顔を綻ばせていた彼であったが、あるページを開いた瞬間にその動きが止まった。そして、すぐにその本を閉じて机の上に置きなおす。
「そろそろご飯でも食べようか。缶詰くらいしかないけれども。手伝ってくれるかい?」
その声はやけに明るく、何かを取り繕っているように他の三人には思えた。しかし有無を言わさず、先ほどよりもかなり大きめのオイルランプを持ち出してきたのを見て、その理由を聞くよりも先に手を貸すこととなった。ギルがランプを分解し、支えている間にマーヴィが先ほどの油を入れていく。グラーノは自分たちが持ってきた食糧を持ち、缶切りで缶詰を開けているシェリーマンの元へと持って行った。
「ところで君、もう立って大丈夫なのかい?」
両手に持った缶詰を机に置きながら、シェリーマンが尋ねる。
「はい。さっきのクレバスの件といい、ありがとうございました」
ギルは先ほどのアルコールランプを端によけ、そこにオイルランプをそっと置いた。火をつけてみると、造りの関係かかなり大きく燃え上がった。それを見たシェリーマンが少しランプのつまみを捻り、その上に金網を組み立てる。
「先に食べていようか」
金網にヤカンを乗せた彼の号令で、四人は机の周りに座り込んで魚の缶詰をつつき始めた。保存食としてはよくある塩の味に、おいしいともまずいとも言わずに四人は食べ進めていった。
「……どうしてあるってわかったんですか? あのクレバス」
缶詰を半分ほど平らげ、シェリーマンが沸騰したヤカンを持って戻ってきたころ、何かを考えるようにずっと下を向いていたギルが唐突に聞いた。
「ああ、ヒドゥン? だっけか? そういえば雪に隠れて全く見えなかったのに、なぜあそこにあるとわかったんだ」
苦虫を噛み潰したような顔をするギルやグラーノを見て、マーヴィも疑問を口にする。
「ああ、まあ長いことここにいるからね」
「……あの記録書、途中から筆跡が変わっていました。だからあなた以外にも、ここで調査をしていた人がいたんではないかと……」
はぐらかそうとするシェリーマンに、ギルがもう少し突っ込んだことを尋ねてみると彼は動きをぴたりと止めた。
「……ごめんなさい。ボク、あなたの日記を読んじゃったんだ」
追い打ちをかけるように、申し訳なさそうな顔でグラーノが言う。それがトドメとなった。シェリーマンはしばらく動きを止めた後、観念したかのように眉を下げる。
「……ああ……そうなのか。なら……仕方ないね」
ゆっくりと三人の方へ向き直りながら、彼は昔を思い出すようにゆっくりと話はじめた。
「父が落ちたんだ。何年か前にね」
テントの中の空気は、今すぐにでも凍り付くのではないかというほどに冷え切っていた。外からは風の吹く鋭い音が聞こえる。
「数年前まで、このあたりの調査は父と私の二人で行っていたんだ。二人でとはいっても、メインは父の方で、私は助手だったんだけどもね。とても偉大な人だった。ここの遺跡を最初に発見したのも私の父だったんだよ」
指を組んで膝に乗せ、悲しそうに笑いながら彼は話し続ける。
「私が幼いころから、古代の国の様子を、自分の仮説を交えながらよく話してくれた。そんな父みたいになりたくて、私も考古学者の道に進んだんだ。でも、現実は甘くなかった」
シェリーマンは、食事をするために端へと追いやられた分厚い本に手を伸ばした。
「おそらくこの国の君主は、異常なまでに過去を知られることを恐れている。だから、私たちのような存在を目の敵にしているんだろう。……父や私が掘り起こしたものは、すべて国に没収された」
その言葉に、マーヴィが目を見開く。信じられないとでも言うように、シェリーマンの方を向いた。
「このあたりまで、王都の人間が?」
「滅多には来ないけれどね。年に一度くらいだよ」
マーヴィはギルに視線だけを移す。訝し気に睨むと、ギルは眉を下げて肩をすくめた。
「どうして、そんなに陸の国は嫌がるんだろうね? 昔のことを知られるの」
一方のグラーノは少し険悪になっている二人のことなど気にも留めず、シェリーマンの話に興味を持っていた。
「新しい為政者が前の政権を否定するなんてよくあることだよ」
身を乗り出すグラーノに、持っていた分厚い記録書を手渡す。グラーノは嬉しそうに、思う存分ページをめくり始めた。
「今の陸の国は、もともと古代デザイヤ国の内乱と魔王の出現がきっかけでできたんだ。私が思うに、魔王が封印されて新しい国ができたころに情報統制がされたんだろうね」
「だが、古代の技術ってのは随分と進んでいたよな? あの鉄の塊を飛ばせるくらいに。あの悪魔が言うには、それもさらに古い時代の人間たちの技術らしいが……」
空いた手で鉄のカップを持ち上げて、ぬるくなった中身を少しだけ口に含む。その横で、マーヴィは頭を抱えていた。自分たちが何気なく生きているこの場所の、気の遠くなるような長い歴史に頭痛を覚えていた。
「そうだね。うーん……。ややこしいから、千年前の古代デザイヤ国にいた人を“古代人”、氷河期を生き残った人やさらに古い時代の人々を“超古代人”と呼ぼうか。古代デザイヤ国の古代人たちは、さらに昔の超古代人が残した技術で栄えたと言っていたね」
「うん。でもさあ、どうしてそんな便利なものをなくそうとしたんだろうね。自分たちだけのものにしちゃえばよかったのに」
マーヴィとは対照的に明るい顔のグラーノが、ページをめくりながら尋ねた。
「さあ……。どうだろうね。理由はいろいろ考えられるけど……。あの悪魔の言うことを真に受けるなら、超古代人が残した技術は碌なものじゃなかったから……とかかな」
そういえば、あの悪魔は人間が争いで氷河期を招いたと言っていたか。その争いをしていたのが超古代人達であるならば、彼らの技術をもとに発展した古代デザイヤ国も、かなり危うい国だったのではないだろうか。下手をすればまた同じ道を辿っていたのかもしれない。そのことに気づいた四人は、この氷の大地が世界を覆っていく様子を想像し、ゾッとした。
「もしかしてさ、人狼たちが広い森のずっと奥にいたのも、猩々たちがジャングルの奥地に住んでいたのも、その“じょうほうとうせい”ってやつのせいなのかな……」
「私はそう考えているよ。知性のある三種類の魔法生物は、“古代デザイヤ国”を守護する存在だったみたいだからね。発掘した王冠の装飾に施されていたり、その三匹が描かれた旗がでてきたりしたから。新しくできた国にはなびかなかったと考えるのは自然なことだ。魔法が使える彼らを、非力な人間は簡単には殺せない。だから人がなかなか入れないような場所に追いやったんだろう」
確かに、そう考えれば辻褄が合う。狼たちはリーダーにひどく従順だった。リーダーが否と言えば右に倣えで、どこまでもついて行くのだろう。猩々たちは、人間が魔法を使うために利用されていた。超古代人の技術によって生まれた混血の彼らは、存在自体が国にとっては危険だったのに違いない。
「超古代人と、古代デザイヤ国の遺物はすべて消し去られた。もしくは人目のつかないところに追いやられた。そして過去を探ろうとすることを徹底的に禁じた。時代も進んでだいぶマシにはなったが、考古学者の地位がこの国では依然として低いままなのはそれが原因なのではないかと思う」
シェリーマンは落ち込んでいるように、声のトーンを落として言った。
「……今までは、王政府を恨んでいた。私たちのことを散々無下にしておいて、父が死んだら形見の研究材料を“必要だから”と問答無用で根こそぎ持って行って。何度呪ってやると思ったかわからない。…………だが、私たちはもしかしたら、覗いてはいけない深淵をずっと覗いていたのかもしれないなぁ」
組んだ両手の指をじっと見ながら、悲痛な面持ちで何かを考えているようだった。
「もう、引き時かな……。これからは、おとなしく国に従うよ」
力なく笑いながら、シェリーマンは顔をあげた。その表情を見た三人は、どう言葉を返せばいいかわからずに一瞬動きを止める。
「そんなの……間違ってる!」
沈黙の中、声をあげたのはグラーノだった。記録書を両手に抱えたまま、泣きそうな顔でシェリーマンと向かい合った。
「人狼たち、辛そうだったよ。あんなに危ないところに追いやられて、人間を守るためにたくさん傷ついて。猩々たちだってそうだ。自由に外の世界にも出れずに、ずっとジャングルの檻の中に閉じ込められて。本当は、種族なんて関係なくみんないっしょに過ごしていたはずなのに」
旅で見てきたことを、思い出しながら話す。大切な存在を守るために戦って傷ついた人狼たち。大切なものをたくさん失った猩々たち。そして、小さな体に大きな夢を持った少年。ここで引き下がっては、彼らがあまりにも報われない。
「俺も……。故郷に愛着があるわけではないけれども、何となく今の国も危ない気がするんだよね。何にも知らないからこそ、同じ過ちを繰り返してしまうような気がして」
「ああ、反省から学ぶことは多いだろう。失敗をなかったことにするのは、永遠にその場で足踏みすることと同じだ」
グラーノの必死の説得に、他の二人も同意の意思を示す。その言葉に押されるように、グラーノは手に持っていた記録書を表紙だけ捲ってシェリーマンに渡した。
表紙の裏を見て、シェリーマンは目を見開く。父が亡くなってから前の方のページは見ないようにしていた。だから、ずっと忘れていたのだ。父の字で書かれた、この言葉のことを。幼い自分に、父がよく話してくれたどこかの偉人の言葉を。
“Kites rise highest against the wind - not with it”
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