第27話 選択
時計塔の町から少し離れた場所にある、小さな洞穴。その中で、ギルと悪魔は向かい合って立っていた。洞窟の口から差し込んでくる光が、二人の顔の片側に暗い陰を作り出す。ギルが、ふと悪魔から視線をそらして地面を見下ろした。
「あいつら、“悪魔は怒りを食う”って言っていた…………本当なの?」
悪魔はすぐには答えずに、一度だけ目を閉じた。そして、次に目を開けた時に優しく笑いながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「ええ、本当ですよ」
ギルは拳を握りこむ。その体は、微かに震えていた。
「じゃあ、お前は……お前は、いつでもあいつを助けられたのか」
「……ええ、そうです」
悪魔は全く悪びれる様子もなく、間延びした声を出した。握りしめていた拳を開き、その胸倉をガッと掴む。
「ならなぜ助けなかった! お前はずっとそばにいて、どれだけあいつが苦しんでいるのか、誰よりも知っていたくせに!」
怒りのあまり、洞窟中に響くような大声が出た。全てのものが真っ赤に見えて、他の物など視界にも入らない。
「それは……」
悪魔の顔からスッと表情が消えた。自分の胸倉を掴むギルの手に、自分の右手を添えると諭すような声で言った。
「彼が望んでああなったからですよ。私は、彼の意志を尊重したまでです」
その言葉に口を噤み目を見開く。悪魔は、ゆっくりと力の抜けるギルの手を胸倉から外した。
「それで、あなたは地面を這いつくばってまで、何か見つけられたのですか? 彼を救う方法を」
「…………」
勇者はフラフラと後ずさり、その場に力なく座り込んでしまった。右手で目元を覆い、そのまま動かなくなる。
「……いや」
地面を凝視したまま、頭を抱えて消え入りそうな声で呟いた。
「ああ、わかっていたさ。こんなことしたって無駄だって」
ポツポツと洞窟の地面に数滴の水が零れ落ちる。
「でもさ、でも……やっぱり俺は……」
ボロボロと流れ落ちる涙を拭おうともせず、叫ぶ。
「……ジヤを、殺したくない……!!」
己の思い通りにいかず泣いている子供のような、そんな慟哭であった。そして同時に、純真無垢な心からの叫びでもあった。
「何が皆を笑顔にだ! 何が平和のためだ! 俺はそんなもの、心底どうだっていい!! ただ普通に、ジヤと一緒に笑って暮らしたかっただけなのに……そのはずだったのに」
一度溢れだした涙と感情は、もう抑えられない。洞窟中に響く声で、悪態を吐き続ける。悪魔はただ無表情に、ギルを見下ろしていた。ゆっくりと彼の目の前に跪くと、その両肩に手を置く。
「それでいいんですよ。もともとあなたに、勇者は似合わない。それが、本来のあなたです」
悪魔の優しい声が、かえって心に突き刺さった。心臓を縄で締め付けられるようであった。顔を勢いよくあげて、その無表情を睨みつける。
「でも! ジヤはそれじゃあ笑わないんだよ。ほんっとうにめんどくさい奴で、困ってる人を見るとほっとけないような奴なんだ」
肩に乗った悪魔の手を振り払う。自分の左手首を握りしめ、悔しそうに爪を立てた。
「誰かを犠牲にするくらいなら、代わりに自分を差し出してしまえるんだ。その優しさに付け込んだ奴らが、お前が……そして自分すらも、すべてが許せない」
爪を立てた箇所から、血が流れだす。鮮血は、先に流れ落ちた涙とともに、地面に黒いシミを作り出した。
「それで、あなたはこれからどうしたいんです?」
しばらくの沈黙の後、悪魔はまた優しく問いかけた。
「…………わからない。わからなく……なってしまった」
散々叫んだせいで、声はかすれてしまっている。
「ジヤのために、たくさんの人を助けた。でも本心では、世界なんて滅んでもいいと思っていた。そう思っていたのに……必死で生きる人たちを間近で見て、わからなくなってしまった」
建前が、だんだんと本音になっていく。今までの自分が否定される。全部、あの友人のせいだと思っていた。自分が変わってしまうのが、ずっと怖かった。
「……だから……そうだな……」
それでも旅をする中で、自分以外の生き物にも“心”があることを知った。他を知ることで、初めて個を知った。結局自分は、何にも知らないただの子供だったのだ。
目元を擦りながら顔をあげ、目の前で優しく微笑む悪魔の顔を見つめ返した。
「悪魔って、どうやったらなれるんだろうね」
また、いつものようにギルは笑顔を浮かべる。正確には、浮かべようとしていた。眉は下がり、涙でぐしゃぐしゃなその顔は、笑顔というにはあまりにも歪であった。
「さあ、どうでしょうね」
悪魔はその答えが意外だったようで、大きく目を見開いた。大げさに首を傾げ、困ったという風に笑う。
「しらばっくれないでよ。君は、どうして悪魔になったんだ」
「わかりません。ただ覚えていることと言えば……」
悪魔は顎に手を置き、思案するような仕草を見せる。
「強い怒りを抱いたまま、たくさんの怒りを浴びて死んだこと……ですかね。後は運もありますが」
「死か……俺には少し難しいな」
力なく、フッと笑う。それを見て、悪魔はまた大げさに首を傾げた。
「何をおっしゃいますか……あなたに覚悟がおありなら、その剣で胸を一突きしてごらんなさい」
ギルのベルトポーチを、細長い人差し指で指し示す。
「知っていますよ。その剣、“不死殺し”でしょう? その剣ならば、人魚の魔法をかけられたあなたでも、簡単に殺してくれます。ただ、必ず悪魔になれるという保証は、ありませんがね」
腰のポーチに、右手を添える。艶のある皮ごしに、堅い感触が伝わって来た。ここで死んだなら、一体どうなるのだろうか。この苦しみからも、解放されるだろうか。
「はっ」
馬鹿馬鹿しいというように、鼻で笑う。ポーチの上部にある口を開け、中に手を突っ込んだ。
「まさか、あなたが自己犠牲的なことを考えるとは。これでは、良い答えは聞けそうにありませんね」
「うん、そうだね」
中から天使のレリーフが施された短剣を取り出して、鞘を払った。その剣の刃先を、何の迷いもなく、悪魔に向ける。
「俺は、お前とは行かない。幸せに生きるのに、お前はいらない」
時計塔の町にある、小さな診療所では慌ただしく人が行きかっている。ベッドの数が足りずに、何人かは床に敷いた布の上に寝かされている。時計塔の中にいた人はそう多くはなかったものの、朝市の時間に瓦礫が降り注いだために怪我人の数はかなり多かった。
「ギル、戻ってこないね」
傍らにいる包帯だらけの男が、痛みに呻めいた。その声に、グラーノは顔をしかめる。
「ああ、どこで何してるのか」
胸元に包帯を巻いたマーヴィは壁にもたれかかり、片足を投げ出して座っていた。頭をガシガシと掻きながら、大きくため息をつく。
「それよりも、オレたちにはのんびり話してる時間はねえぞ」
マーヴィは胸元にあるペンダントを持ち上げて言った。青かったはずの何かの鉤爪は、彼の血で一部が赤く染まっていた。
「あれ、そういえば鎧は?」
そうだ、悪魔に切りかかられた時には、彼の上半身は鎧で覆われていたはずである。だというのに、胸元を見るとすっぱりと、鎌で傷つけられた跡が残っていた。
「ああ。それなら、あの悪魔の魔法の方がオレよりも強えってだけのことだ。魔力も、練度もな。それも問題だが、見てほしいのはそこじゃねえよ」
大きな手で、ペンダントの青い鉤爪の部分を包むとグラーノの目前につきだした。手の中にある装飾を、まじまじと覗き込む。よく見てみると、横に大きな亀裂が入っていた。マーヴィが親指で少し押してみると、パキリと音を立てながら亀裂の形通りに、真っ二つに割れてしまった。
「あの野郎、これを狙ってやがったんだ。衝撃で中の魔力が全部外に逃げちまってる」
薄皮一枚でつながっている装飾をつまみ上げ、苦虫をかみ潰したような顔で言った。
「お前も耳のヤツ、燃やされちまったんだろ?」
自分の左耳を触ってみる。そこにずっとぶら下がっていたはずの羽根はない。
「……うん」
「だったら、オレたちはもうここにはいられない」
耳を触るために、あげた左手の手首のあたりが目に入る。そこには人間にあるはずのない、鱗のような模様がうっすらと浮かび上がってきていた。
「猶予は一日ってところか……」
マーヴィは、ため息をつくとペンダントを横へ投げた。自分の膝を叩き、立ち上がる。
「どこへ行くの?」
「川を探す。下っていけば、いずれ海に着くだろう」
その言葉に、グラーノは目を見開いて勢いよく立ち上がった。
「魔王は? どうするの?」
「どのみち、一日じゃあ魔王城にはつかねえよ。それよりも今は死なねえ方法を考えろ」
医務室の扉に手をかけて、出ていこうとするマーヴィの手を掴む。
「お前も、もう国へ帰れ。任務失敗は悔しいが、この場は自分の命を最優先にしろ」
グラーノは、手を掴んだまま離さない。うつむいたまま、掴む手に少しずつ力を込めていた。マーヴィは舌打ちをして彼に向き直った。
「なんだ、ハッキリ言え」
グラーノはしばらく黙っていたが、やがて小さな声でポツポツと話し出した。
「……ボク達はね、地面から飛び立てないんだ。一生を空の上で過ごすから…………どうやって帰れっていうんだよ」
マーヴィは顔をしかめる。居心地悪そうに、頭をガシガシと掻いた。
「あーなら時計塔の上から飛んでみろ。上まで戻れるかわからんが……」
しばらく考え、思いついた答えがそれであった。
「多分……高さが足りないと思う」
未だにマーヴィの手を掴んだまま、グラーノはポツリと呟いた。
「だが、他に一日で登れるような高い場所はない。やってみるしかないだろう」
グラーノの手をそっと離すと、うつむく頭に自分の右手を置いた。
「お前にも、帰りを待ってる奴はいるんだろう。親とか、兄弟とかよ。そいつらのことが大切なら、何が何でも帰れ」
マーヴィの背中が遠くなっていく。残されたグラーノは、しばらく自分の右手を握りしめて立っていた。
グラーノは、壊れた塔の最上階に立っていた。上下がめちゃくちゃになり、もはや何の意味もなさない階段を休み休み何とか登って来た。もともと身軽な彼でなければ、ここまで来ることは不可能だっただろう。すでに、彼の両腕は人間の物ではなくなっていた。手首から先は、その体に不釣り合いなほど肥大化しており、硬い鱗がびっしりと生えていた。鋭い鉤爪は、皮肉なことに水平でないここを登るにはかなり役立った。ギルのかけた変身魔法がきれるのも、時間の問題だろう。
比較的傾斜が緩い場所を見つけて、慎重に歩く。朝の出来事で、大きくえぐれた塔の穴から外を覗き見た。はるか先に、魔王城が見えている。
ここから飛び降りて、上に戻れるだろうか? いや、きっと無理に違いない。このくらいでは、高さが足りずに途中で落ちてしまう。おそらく大騒ぎになるだろう。“それも悪くない”グラーノは、そう思って笑った。いや、そもそも空に帰りたいなどと、微塵も思っていなかったのだ。ならば、ここから無謀な飛行を試みて誰かを押しつぶしてしまうよりも、ここで天竜の姿に戻ってどこかの学者の検体にでもされた方がマシだ。
「待ってるやつがいるんだろう? 親とか兄弟とかよ」
マーヴィの言葉を脳内で反芻する。自分のことを見捨てた親なんて、知ったことか。ああ、そうだ。大切だったさ。ずっと、一緒にいられれば、どれだけ素敵だっただろう。こんな時間が、ずっと続いてほしいと、そう思っていた。……だからこそ、簡単に見捨てられてしまったことがショックだった。大切だと思っていたのは自分だけだったのか。いや、わかっている。自分の命すら危うくなる場所に、死んでるかもしれない奴を探しになんて来ない。それが例え家族であっても……。結局自分の身が可愛いのだ。愛なんて、その程度のものだ。あの人も、きっと……。
顔をあげると、地面に刺さっているサーベルの先を見つけた。それを手に取り、握りしめる。むき出しの刃だというのに、グラーノの手には大した傷も作れない。刃先には、何か文字が彫られていた。その文字を、ぼうっと眺める。
“Brandon”
それは、このサーベルの本来の持ち主の名前だった。目を閉じると、彼の姿が自然と浮き上がって来る。同時に、悔しさと悲しさが胸に押し迫り、涙がこみあげてきた。
硬い鱗で覆われた手は、サーベルを強く握りしめる。両手に力を入れてひねると、薄い鉄の板は簡単に折れてしまった。鉄の破片を、自分が登って来た方向に投げつける。
ギルも、マーヴィもいなくなってしまった。見捨てられるのは、これで三度目だ。
手足を投げ出し、その場に寝そべった。少しでも気を抜けば、滑り落ちてしまいそうである。だが、今のグラーノには、どうでもよいことだった。涙のあふる目で、捻じれた天井をぼうっと見上げる。やがて、何もかもあきらめたように、ゆっくりと目を閉じた。
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