第9話 災狼
「おい、起きろ。クソガキ」
マーヴィの平手がグラーノの左頬を的確にとらえる。ベチンといった音とともに、走る鋭い痛み。
「いったああああ。ちょっと、普通に起こせないの!? ねえ、ギルも何か言って……」
隣を向き、そこにいるはずのニヤケ顔に同意を求めようとする。だが、グラーノの言葉に返ってくる声はなく、目の前に広がるのは殺風景な木造の部屋だけであった。同時に昨日のことが脳内を走馬灯のように駆け巡り、グラーノは下を向いてグッと口を閉じた。
あの後、人狼に呼ばれた何人かの人間が捜索に協力してくれた。マーヴィとともに彼らも下まで降りて探してくれたが、すでに日が落ちた中では視界が悪く、遺体の一部すら見つけられなかった。そこで朝にもう一度出直そうと、その日の捜索は打ち切ることとなった。行く当てのない二人は引き上げる人狼と人間たちの好意に甘えて、彼らの村で一晩の宿を借りることとなった。案内された場所は、森の奥深くにある「シェントの村」で、そこは人狼と人間が共存する村であった。外からの者が珍しかったのかよく世話を焼いてくれる村民たちの様子は、スランバーの話す人食い狼の姿とはかなりかけ離れており、二人は驚愕した。
コンコン
誰かが部屋の扉をたたく音がする。
「マーヴィ、グラーノ、起きているか?」
「ああ、起きている。入っていいぞ」
ガチャリと音を立てながら扉を押し開けて入って来たのは、昨日彼らが最初に出会った人狼の青年であった。朝日に照らされた白髪がキラキラと光り、その頭についた二つの耳はピクピクと動いている。
「朝食ができている。食べられそうならおいで。食べたらまた昨日の峡谷に行くから」
「すまないな、スタビー。何から何まで」
「昨日も言ったが、困ったときはお互い様だ」
客人用の寝室を出て、一階に降りると昨日の若い人狼の女が人型に戻って湯を沸かしているところであった。
「あら、おはよう」
ポットを持ったまま、振り返る。腰から生えた尾がかすかに揺れた。
テーブルを見ると、人数分のトーストと出来立てのジビエ料理が並んでいる。
「おはよう、クロエ。今日もおいしそうだな」
三人が席に着くと、クロエはそれぞれのカップに茶を注ぎ、自分も席についた。手を合わせて「いただきます」と食べ始める三人を微笑みながら見つめる。
「たくさん食べてね。今日もたくさん動くんでしょう」
「ああ、今日こそ見つかるといいな。あんたらのお仲間」
「そうだな……」
スタビーとクロエはマーヴィとグラーノの方を向く。二人とも、決して明るいとは言えない表情をしていた。目の下の隈がそれをより際立たせている。
「昨日……。血の匂いを追おうとしたんだが、途中で薄れてきて最後には消えてしまった。あんたたちの仲間が強力な回復魔法を使えるっていうなら、すでに自力で治していてもおかしくない」
クロエの入れてくれた紅茶をすすりながら、スタビーは二人を励ました。
「今日は落ちた奴の匂いを辿ってみる。あんたら、お仲間の持ち物か何か持っていないのか?」
マーヴィは眠そうに眼をこすりながら、自分の首元にある鉤型のペンダントを持ち上げる。
「ああ、このペンダントがそうだ」
スタビーが身を乗り出し、手を伸ばしてそのペンダントを取ろうとするが、すぐにマーヴィが身を翻してペンダントをスタビーの手から遠ざけた。
「悪いがこれは貸してやることはできない。お前らのことを信用していないわけじゃねえが、こちらも命がかかっているんでね」
スタビーは手を出したまま驚いて目を見開くが、すぐに納得がいったというように手を下ろして自分の席に座りなおした。
「なるほど。ぼくたち人狼族も変身魔法で人間に化けているんだ。それでなんとなく察してはいたんだけど……君らも人間じゃないんだな」
「ああ、俺たちは変身魔法が使えない。海では人間に化ける必要はなかったからな。もしこんな陸のど真ん中でギルの変身魔法がとけて元の姿に戻っちまったら、動けずに干からびて死ぬだけだ」
“海”という言葉に、スタビーは驚いたような顔でクロエと目を見合わせた。
「これは驚いた。まさか、海の国から来ていたとは。なるほど、そういうことなら仕方がないな。ぼくは匂いさえ嗅げればそれでいい。無遠慮に手を出してすまかったな」
少し恥ずかしそうに鼻先を掻くスタビーに、マーヴィは顔をしかめる。
「いや、こっちこそすまねえな。手伝ってもらってる身だってのに」
下を向いて口を閉ざすグラーノを右腕で小突きながら、しかめっ面のままマーヴィは呟いた。
朝食を食べ終わった四人は、すでに賑わいを見せ始めている家の外に出た。グラーノは、自分の中にある不安を打ち消すように村を見渡してみた。普通の人間に交じって、村中を耳と尾の生えた人狼たちが歩き回っている。そう言った人狼たちは皆、色や模様の濃淡はあるものの全員が灰色の髪をしていた。
「白い狼ってスタビーだけなの?」
ふと、湧いた疑問を口にする。
「ふふっ、そうよ。私たち人狼族には言い伝えがあってね、白い狼は幸運を呼ぶらしいの。だからスタビーは村の人から“ラックウルフ”って呼ばれているわ」
答えたのはスタビーではなく、嬉しそうに笑うクロエであった。
「クロエ、あんまり変なこと言うなよ。ぼくはただ白いだけだ。そんなたいそうなもんじゃない」
苦々しい口調で返すスタービーの顔を、すかさずクロエが覗き込む。
「あら、もしかしてまた“災狼”を仕留められなかったこと、拗ねてるの」
「災狼?」
初めて聞く言葉を、グラーノはなんとなく反芻してみる。
「森に住んでいるはぐれ狼たちのリーダーよ。真っ黒の毛をしていて災いを呼ぶと、村の住民からは恐れられているわ。森に入って来た外の人間を襲っているのもこいつららしいの」
「ああ、そうだな。だからあいつは殺さなきゃならない。人間と狼は永遠のパートナーだ。それを襲うなんて許せない」
スタビーは目を伏せたまま答える。その横を歩いていたマーヴィは、クロエから顔を背けるスタビーの表情をしっかりととらえていた。なんとなく、彼はその表情と言葉が不釣り合いなような気がした。
「おおう! スタビー! 俺たちのラックウルフじゃないか。おはよう。調子はどうだい?」
村の門付近で、禿げ頭に無精ひげを生やした人間の男が楽しそうに声をかけてきた。
「おはよう、おじさん。ずいぶんと機嫌がいいね。なにかあったの?」
「おお、わかるかい? 実は今日、日の出とともに森に牧を集めに行ったんだがな、そこでお前そっくりの白い鳥を見たんだ」
「鳥?」
「ああ見たこともない鳥だったが、かなり大きかったぜ。森の木とスレスレのところを飛んでてよ。あの真っ白の羽毛を見て思ったよ。こりゃあ今日一日、好いことがありそうだってな」
生い茂る木の間を縫って、ギルは一人で歩いていた。自分の体をすべて修復したせいで魔力はもうほとんど残っていない。昨日からずっと飲まず食わずで、それほど体力のないギルにはかなりつらい道のりとなっていた。
体の回復が終わった彼が、峡谷の上に上がったとき、そこには誰もいなかった。マーヴィとグラーノはもう森を出てしまったのだろうか。それならばどうやって彼らを探せばいいのだろう。
そんなことを考えながら、ふらふらとふらつく足を無理やり前に踏み出し、荒々しく呼吸を繰り返していた。その時であった。ガサガサという草をかき分ける音とともに、飛び出してきた何かがギルの体を地面に叩きつけた。咄嗟に、右手で持っていた短剣の鞘を払う。自分の上で体重をかけるそれに短剣を突き立てようと相手を見る。
それは、真っ黒な狼であった。狼はうなりながら薄暗い森の中、黄色く光る瞳でギルをにらみつけていた。しかしその狼はギルの顔を見た瞬間に心なしか目を見開いて驚いたような表情を浮かべ、ゆっくりと後退してギルの上から立ち退いた。短剣を片手に上半身だけを起こして茫然しているギルの目の前で、その狼の長く裂けた口は徐々に平らになっていき、爪の生えた前足は五本の長い指に変わっていた。真っ黒の体毛も減って下の肌が徐々にあらわになり、そして今、そこにいるのは先ほどまでは狼だったはずの一人の青年であった。青年は頭に狼の耳と腰に長い尾を残して、裸に黒いコートだけをまとっている状態であった。青年は先ほどまでの狼姿を思わせる黄色い瞳で、もう一度ギルのことをにらみつけて口を開いた。
「お前、ここで何をしている」
ギルは立ち上がって、先ほどまで狼だった青年の瞳を見つめる。
「この森を抜けようと思って……」
青年は、片眉を少し上げて大きなため息をつく。
「はあ、お前この森が何の森か知っているのか。抜けるなんて無謀にもほどがある。わかったらさっさと帰れ」
それだけ言うと、青年は踵を返して周りの草むらに声をかける。
「おい、お前ら。ただの人間だ。ガリガリであんまりうまそうじゃない。他の獲物を探すぞ」
その号令で、草むらから数十匹ほどの灰色の狼が姿を現す。皆顔や体に大きな傷跡があったり、耳が食いちぎられていたりとかなり痛々しい容貌であった。彼らもまた、青年と同じように耳と尾だけを残して、牙も鉤爪もない人の姿へと変わっていく。すでに敵意がないことは明白であった。それを見たギルは、短剣を握っていた手を下ろした。
うおーーーーん。
少し離れたところで、狼の遠吠えが響く。
黒い青年の一番近くにいた若い人狼が、遠吠えを聞いた瞬間、焦ったように口を開く。
「ウル、あいつが近くにいる」
「ああ、面倒なことになる前に逃げるぞ」
「ちょっと待って」
立ち去ろうとする狼たちを、ギルは慌てて引き留める。
「なんだ」
黒い人狼の青年は、少し苛立たし気に振り返った。
「俺、どっちに行けばいいかわからないんだ。それに……」
途端に足の力が抜ける。その場にへたり込んだギルは何とか立ち上がろうとするが、その意志と反して体はだんだんと鉛のように重くなり、やがてその場に倒れ伏してしまった。
「おい、どうした。お前、おい!」
魔力もほとんど使い果たし、何時間も歩き続けたギルの体はすでに限界に達していた。そこで、ようやく話の出来るものと出会えたのだ。遠のく意識の中で、人狼たちの呼びかける声が聞こえたが、もう自力で起き上がることは不可能だった。目を閉じ、襲ってくる激しい睡魔に身をゆだねる。同時に、また昨晩と同じ懐かしい声が聞こえてきた。
「お前……ギルっていうのか。俺はジヤヴォール、よろしくな」
ああ、よろしく。
よかった、また会えたね。
草冠の作り方を教わったんだ。
またいっぱい遊ぼうね。
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