狼編
第8話 人魚の呪い
グラーノを先頭にして、鬱蒼とした森の中を三人は進んでいた。ほとんどだれも踏み入ったことのない森では、地図など何の役にも立たない。背の高い木がひしめき合って生えているせいで、太陽の方向もいまいちわからず、グラーノの勘だけが頼りの状態だった。
「おい、クソガキ。本当にこっちであってるのか? 進んでも進んでも木しか見あたらないんだが?」
すでに日は落ち始めている。スランバーと別れてから四時間といったところか。何とか今夜中には森を抜けたいところだった。
「もう、黙ってて。こっちであってるよ。ボクたちは雲の上を飛んでいる時だって方角がわかるんだもの。天竜の方向感覚を馬鹿にしないでよね」
グラーノが頬を膨らませながら、後ろに続くマーヴィの顔を松明で照らして睨みつけた。
「はあ、思ったよりも大きい森だね。今夜中に出るのは諦めて、交代で見張りながら野宿をした方がいいのかも」
かすかに肩を上下させながら、最後尾のギルが二人に声をかける。そんな、いつもの会話をしていると突然グラーノが感嘆の声をあげた。
「二人とも見て! 光が見える。森を出るよ」
誇らしげな顔をこちらに向けたかと思うと、息つく間もなく走り出す。ギルとマーヴィも、その言葉にようやく出られると安堵して足早にその後を追った。
ひしめき合って立っている木々を避けながら、光に向かって走る三人。しかし、その場所にたどり着いた瞬間、三人は愕然とした顔で立ち止まった。
「おい、クソガキ。なんだこりゃあ」
三人の目の前に、広がっているのは深い峡谷であった。日が沈みかけているせいか、底の方は暗くてまったく見えない。そして、その谷の裂けめの先には夕日を背に受けた雄大な森が広がっていた。
「方向はあっていたみたいだけど……向こうに行くにはこの峡谷を越えないといけないね。どこかに橋はないのかな」
ギルのその言葉で、マーヴィとグラーノもあたりをキョロキョロと見回す。刹那、後ろの草むらががさがさと音を立て始めた。
素早く氷の槍を作り出すマーヴィと、サーベルに手をかけるグラーノ。峡谷を背にして、先ほど抜けてきた森をにらみつける。徐々に近づいてくる音は複数のようだ。がさがさと草を分ける音は徐々に大きくなる。戦いは二人に任せようと、ギルが数歩下がった時であった。
二つの大きな黒い影が草むらから飛び出してきた。影は腰を落として攻撃に備えるマーヴィとグラーノにそれぞれ飛びかかり、前足のかぎづめでその肉を引き裂こうと、後ろ脚だけで立ち上がった。攻撃を受け止めるマーヴィとグラーノに、可愛らしい小さな丸い耳とは不釣り合いな、鋭い牙を見せつけて低く唸った。その声に呼応するように、別の一頭が新たに草むらから飛び出す。その個体は、峡谷に一番近い場所にいたギルの方へとわき目もふらず一直線に走って来ると、大きな体で飛びかかった。
「うっ」
「「ギル!」」
正面からの重たい衝撃に、後ろへどさりと倒れこむ。頭を両手で守りながら、体勢を立て直そうと立ち上がって後ろに下がった。ギルはすっかり失念していたのだ。突然の衝撃に。後ろは深い峡谷であることを。正面を塞がれ、それでも何とか魔法生物の牙から逃れようと下がったギルが立った場所は、不安定な峡谷の淵であった。脆弱な地面が、ギルの体重を受けてガラッと音を立てながら崩れる。
「あっ………」
三人が声を出した時には、ギルは深い峡谷へと吸い込まれてしまっていた。
マーヴィは魔法生物の前足を受け止めていた槍を力づくで払い、相手の鼻っ面に氷魔法を放った。顔全体が凍り付き、口を開くことすらできなくなったその個体はパニックとなり、暴れながら草むらへと再び姿を消した。マーヴィは素早く振り返り、ギルのことを谷底へと落とした個体のもとへ走る。マーヴィが走りながら右手の槍に魔力を新たに込めると、白い煙を出しながら槍は大鎌へと形を変えた。その大鎌を両手でしっかり握ると、噛みついてこようとする生物の口の中に鎌の切っ先を突っ込んで、上顎を引き裂く。その個体は悲鳴を上げて後ずさりをすると、ギルと同じようにしてガラガラと崩れた地面とともに谷底へ落ちていった。
「マーヴィ! ギルが……」
自分の相手をしていた個体の喉をサーベルで切り裂き、返り血を浴びたグラーノがマーヴィのもとへ駆け寄る。
「ああ……」
渋い顔をしながら谷底を見下ろす。しばらく顔をしかめながら考えていたマーヴィは、両手から再び白い煙をだして、長い氷の鎖を作り出した。その鎖を峡谷の最も近い場所にある大木に回し、何度か引っ張って強度を確かめる。
「この高さじゃあ生きてる訳ねえが、念のため探しに行く」
「ボクも行くよ」
「だめだ。オレが一度に出せる氷の量には限界がある。この深さじゃあ一人分足りるかもわからん。お前はここにいろ」
マーヴィが氷の鎖を自分の腰に巻き付けていると、ガサガサとまた草むらを何者かが進む音が聞こえた。
「あんた達、ここでなにしてんだ」
思うように魔法の使えないマーヴィの前に立ち、サーベルを抜いて敵襲に備えたグラーノの前に現れたのは、白い髪の青年であった。後ろに十数人の若い男女を引き連れている。青年を含めた彼らの頭には三角の耳のようなものが生えており、腰からはふさふさの尾のようなものを垂らしている。皆、一様に驚いた顔をしているだけで襲ってくる気配はない。
「仲間が……谷底に落ちて……」
サーベルを下げて小さく呟くグラーノに、先頭の青年はさらに大きく目を見開いた。
「それは大変だ。クロエ、村から人を呼んできてくれないか。丈夫なロープも忘れないようにな」
青年の最も近くにいた“クロエ”と呼ばれる濃い灰色の髪をした女は、コクリと頷いて踵を返した。その女は最初は二本足で人間として走っていたが、徐々に体つきが変わっていき、やがて四足歩行の生物へと姿を変えて走り去っていった。
「すぐに人が来る。安心してくれ」
「ああ、すまんな。助かる。先に行ってるぞ」
「なに、困ったときはお互い様さ。気をつけてな。渓谷の淵はかなり脆い」
心配そうに見つめる人狼たちと、グラーノの視線を受けながらマーヴィは谷底へと降りていく。下へ、下へと。すでに日の落ち切った、暗い深淵へと。
「なあ」
無邪気な子供の声が聞こえる。
「なあって、お前だよ。聞こえてるんだろう?」
振り向くと、ぼさぼさの頭にぼろ切れをまとった少年が立っていた。顔や体に無数のかすり傷がある少年は、無遠慮に俺の隣へと座った。
「お前、なんでそんなに悲しそうな顔で座ってんだよ」
少年は俺の顔を覗き込んでくる。内心面倒だと思いながらも俺は愛想よく笑いかけた。
「そんなに悲しそうに見えたの? ぼくはただ、空を眺めていただけなんだけどね」
「ああ、まるでこの広い世界で一人ぼっちになっちまったみたいな顔してたぞ」
俺は目を見開く。
「なあ、もしよかったらさ」
少年はそんな俺の顔を見て、無邪気に笑いかける。
「俺と、友達にならないか」
俺は、少年の顔を見つめた。その時の俺はどんな顔をしていただろう。少なくとも、その瞬間に世界で一人ぼっちの少年は、一人でなくなったのだ。嬉しかったのか、それとも煮えたぎるほどの怒りが湧き上がったのか、すでに覚えてはいない。覚えているのはただ一つ。彼は、後に俺にとっての無二の友人へとなるのだ。当時の幼い俺には知る由もないのだが。
目を開いて、上を見上げる。はるか遠くに細く見える星空を見るに、相当落ちたようだ。深い峡谷の、冷たい地面の上でギルは仰向きに横たわっていた。全身の骨は折れ、肉も内臓も無茶苦茶につぶれているというのに、彼は血だまりの中で空を見あげていた。
久しぶりに昔の夢を見た。懐かしさで自然と頬がほころぶ。彼は今、どうしているだろうか。もう床についただろうか。ゆっくり、眠れているだろうか。
目を閉じて深呼吸をしようとするが、肺もつぶれているのかうまく吸い込めない。痛みなどすでに感じないが、自分の体の肉が地面に張り付いてしまっているのがわかってただただ不快だった。こんな風に血まみれで横たわるのは、いつぶりだろう。だんだんと冴えてくる頭で考える。
頭で考えられるようになると、次は顔を自在に動かせるようになった。首の骨がくっついたのだろう。頭をあげて自分の体の惨状を見つめる。つぶれた肉の中から、白い骨が顔をのぞかせている。まあ、あれだけ落ちたのなら普通はこうなるだろう。そう思いながら苦笑いをした。ただ一つ普通と違うのは、つぶれた肉と骨が意志を持った生物のようにうごめいていることだった。折れた肋骨はぴったりとくっつこうとしている。つぶれた肺は、肋骨の中へ戻ろうとしている。肉は骨の周りを包もうとしている。
彼の魔法は正しく、彼を本来のあるべき姿へ戻そうとしていた。
“まるで呪いだ”
心の中で悪態をつくと、視線を動かして自分のベルトポーチを探した。落ちた衝撃でボロボロとなったポーチは自分の腰から外れ、少し離れたところに落ちていた。散乱した中身には、あの天使のレリーフが施された短剣も混ざっている。ここから見た感じではどうやら、短剣は無事のようである。比較的軽傷で済んだ左腕を伸ばしてその短剣を掴もうとするが、まったく届かなかった。それでも必死に左腕を伸ばすが、やがて短剣を取るのはあきらめて力なく腕を投げ出した。
もう一度、空を見上げる。一筋の星の川が空を流れている。ああ、きれいだ。これまで野宿をしているときには気づかなかったが、こんな風に外で寝るのも悪くない。それに、この様子では、まともに動けるようになるには朝までかかる。動けるようになったら、上まで戻ってマーヴィとグラーノを探さなければ。二人とも、心配しているだろうか。まあ、考えても仕方がないか。朝までもうひと眠りしよう。そう思いながらゆっくり目を閉じた。そうして頭を空っぽにしているとだんだんと睡魔が襲ってくる。まどろむ彼の耳に、はるか彼方から狼の遠吠えが聞こえてくるが、それが彼を目覚めさせることはなかった。
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