第10話 シェントの村

 少し背中が痛むような気がして、寝返りを打つ。動くその体に従って、下に敷かれた藁がカサリと音を立てた。顔の右側を下にすると、温かい藁の香りが鼻をくすぐり、安堵を覚える。とてもいい香りだ。このままもう少し眠っていたい。まるで……昔のような……。


あれ、そういえばどうして俺は藁の上にいるのだろう?


 彼はその小さな探求心から、ゆっくりと目を開けてぼんやりと周りを見渡した。一瞬、横たわる彼のそばで懐かしい友人が泣いているような気がして、自然と笑みがこぼれる。


 「泣かないで、ジヤヴォール。俺は大丈夫だよ」


 そう呟いて左手を伸ばすが、だんだんとはっきりしてくる意識と視界に動きを止める。先ほどまで隣にいたはずの懐かしい声の主は、もうどこにもいない。今俺のそばにいるのは、気を失う前に出会った真っ黒の青年であった。青年は目を覚ましたギルを一瞥すると、あきれたような顔で自分の頭をガシガシと掻いた。


 「おれはウルだ。悪かったな、お前の会いたい奴じゃなくて」


 ギルは体を起こしてあたりを見回す。どこかの洞窟のようであった。かなり深い洞窟で、ここからでは出入り口も見えず、今が昼なのか夜なのかもわからない。


 「そんなに俺は、残念そうな顔をしていたの?」


 「ああ、おれの顔を見た瞬間ずいぶんと落胆した顔をしていたぞ……お前、名前は」


 「ギルだよ。君はウルだったね。ありがとう、助けてもらったみたいで」


 素直に礼を言うギルに、ウルは顔をそらして軽く口笛を吹いた。


 「あのまんま置いて行って、モンスターの餌にでもなっちまったら後味が悪いだろ」


 そう言いながら少し笑うウルに、ギルも微笑み返す。


 「随分と優しいんだね。下の町で聞いた話とは大違いだよ」


 「ああ、狼が人を襲うとかいう話か」


 バタバタと何人かの足音が洞窟内に響き渡った。少し身構えるギルとは対照的に、ウルはだらしなく座ってあくびまでしている。やがて他の人狼たちが洞窟の暗闇から姿を現した。


 「おお、目が覚めたか」


 「水でも飲むか、どこからきたんだ」


 皆、ギルのそばに座って各々声をかける。彼らの腰から生えている尾を見ると、フルフルと左右に揺れていた。傷だらけの恐ろしい容姿に似合わず、好奇心旺盛な彼らにギルは目を丸くしながらも小さく笑って肩の力を抜いた。


 「な、わかったろ。おれらは基本人は襲わない。お前はちょっと例外だが……」


 人狼たちに囲まれるギルを横目で見ながら、ウルは立ち上がって壁にもたれかかり、腕を組んだ。


 「ああ、あんた獣臭いんだもの。獲物だと勘違いしちまったよ」


 「でもまあ、悪かったよ。びっくりしたろう。詫びと言っちゃなんだが、好きなだけ休んでいけ」


 「歩けるようになったら森の出口まで案内してやるからな。とりあえず今は、飯でも食おうぜ」

 そういうと、人狼たちはギルの寝床の近くに牧を集め、火をおこし始めた。何人かが、仕留めた大きな獲物を引きずって持ってくると、角の生えた獲物の頭部をナイフで切り落としてさばき始めた。


 「へえ、焼いて食べるんだね」


 感心したような声を出すギルに、人狼たちは作業をしながらムッとした表情で答えた。


 「おれらは生のままでも構わんが、お前が腹壊すかもしれねえだろ」


 「それとも、おれたちが火の起こし方すら知らんと思っていたのか」


 確かに彼らは親切であったが、獲物の血にまみれながら睨みつけられると、さすがに背筋が凍る。


 「いや、下の町で君たちは火を怖がるんじゃないかって聞いてたからさ」


 「馬鹿言うな。人と暮らしたことのない野生の魔法生物なら怖がるだろうが、おれたち人狼族は人間たちのパートナーだぞ」


獲物の皮を剥ぎ終わると、次は腹を切り裂く。手際よく臓物を引きずり出し、丁寧に捌く様子を見るに、なるほどそれなりに人間的な生活をしているようであった。そのことが、なおさら不思議であった。


 「その割には、ここに人間はいないみたいだけど」


そう、ここには耳と尾のはえた人狼しかいないのだ。彼らのいうパートナーの存在は影も形もなかった。一人の人狼が血だらけのナイフを下げ、目を伏せて答える。


「この森にはな、シェントの村って場所がある。そこでは人狼と人間が助け合って暮らしてるんだ。おれたちは皆、そこの出身だ」


「出身? 今はそこには住んでいないの?」


しばしの沈黙。肉をはぎ取る手を止めて下を向くもの、聞こえていないかのように一心不乱にナイフを突き立てるもの。銘々に口を閉ざす彼らに変わって、会話を横目で見ていたウルがため息をついて話し出した。


 「三年前、シェントの村は大量の凶暴化したモンスターに襲われた。今思えば、きっと魔王復活の前兆だったんだろうな。シェントの村では、人狼たちは人間から衣食住の施しをもらう代わりに、命がけで人間達を守らなければならないという掟があるんだ」


 ウルは壁から背中を離し、ギルの前に向かい合う形で座りなおした。


 「その掟に従って、おれらは戦った。男も、女も。子供も、年寄りも。戦える奴は皆戦った。たくさん死んだよ。生き残った奴らもこんなに傷だらけになってさ」


 ウルは横を見て、切り分けた獲物の肉を焚火で炙る傷だらけの人狼たちを視線で指した。

 「すべてが終わった後、村にはだいぶ数の減った血だらけの人狼たちと、ほとんど無傷の人間たちが残った。それを見て、なんかもう訳わかんなくなっちまったんだよな。心ん中、色々とぐちゃぐちゃになってさ。爪も牙もない人間達にどうして欲しかったのかわかりゃしねえけど、ものすごく怒りがわいたし、悲しかったし。でも人間達のことは大好きで大切だったんだ」


 「だから、正直に言ってみたんだ。“もうこんなことしたくない”ってさ。そうしたら、人狼が人間を守るのは、ずっと昔から続いている村の掟だからって言われた。掟を否定するものは問答無用で村から追放するとも。だからおれたちは村に帰りたくても帰れないのさ」


 一人の人狼が焼きあがった肉の塊を大きな葉の上にのせて、ギルのもとへ持ってきた。「ありがとう」と呟いて肉を齧りながら、その人狼のことをじっと見つめる。彼は、目元の小皺からして少し年配のようであった。左目に大きな傷があり、その眼球は白く濁ってしまっている。尾も半分くらいのところで切られ、僅かな筋肉でつながった先端は折れてだらんと下を向いている。彼はウルの前にも肉を置くと、その隣に座って話し始めた。


 「おれは、その襲撃で番相手を失った。他の奴らもそうだ。親、子供、友人、たくさんの物を失った。そんだけの襲撃だったってのに、何にもしなかった人間たちに愛想が尽きた部分もあったんだろうな」


 他の人狼たちも、各々座って肉を齧り始める。それを見て、隅の方で蹲っていた一番体の小さな人狼が、ほとんど肉の残っていない骨に飛びついた。狼の姿に戻り、堅い骨を必死にかみ砕いて食べる。年配の人狼は、悲愴な面持ちで彼を横目に見ながら話を続ける。


 「でもよ、こうやって野生に帰って過ごしてみると、今更村での暮らしが恋しくなるんだ。毎日腹いっぱい食えて、ぐっすり眠れてさ。結局おれたちも、守られていたんだよなあ」




 村の出入り口で、クロエの見送りを受けたマーヴィ、グラーノ、スタビーの三人は昨夜の峡谷まで戻ってきていた。スタビーは真っ白の狼の姿に戻り、マーヴィのペンダントに鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、今度は地面に鼻を近づけたままあたりをウロウロと歩き始めた。時には峡谷の淵近くまで行き、また戻ってきてはマーヴィたちが立っているそばの匂いを嗅ぐ。そんなことを何度か繰り返すとやがて人の姿になって困惑した顔を二人に向けた。


 「なあ、あんたらのお仲間って人間なんだよな?」


 「は? ああ、そのはずだが。どうかしたのか」


 予想もしていなかった言葉に、マーヴィとグラーノも困惑した表情で顔を見合わせた。


 「そうだよなあ。いや、実はな峡谷の淵にまったく匂いが残っていないんだ。そのくせ、森に続くこの辺にはかなり強いにおいが残っている。多分、ほんの二、三時間前の物だと思う。もう谷底にはいないと考えた方がいい」


 困惑した顔を返すマーヴィに代わり、今度はグラーノが口を開いた。


 「それってつまり、ギルが空でも飛んで峡谷から抜け出したってこと?」


 先ほどまでの悲哀に満ちた顔から一転し、朗らかな顔で詰め寄るグラーノに、スタビーも笑みを返す。


 「可能性の一つだ。匂いを消す方法はいくらでもある。だとしてもそうする理由がわからないんだがな。ともかく今は、この匂いを追おう。匂いは森の中に続いている。途中で途切れるかもしれんが行ってみよう」 


 そう言いながら、また白い狼の姿に戻って森の中へと入っていく。マーヴィとグラーノもそれに従い、森へと分け入った。


 森の景色は、夕方に見たものと大きく変わって見えた。まだ少し東に傾いている日が、木々を通して地面に無数の木漏れ日を作り出している。ある程度舗装すれば、心地のよい散歩コースになるだろう。


 何度か深呼吸をしながら、しばらく歩いているとふと前を歩く白色の毛玉が足を止めた。地面の草が、何人にも踏み荒らされたように踏み固められ、少し開けた場所となっている。その場所をしきりに嗅ぎまわっていたスタビーは、やがて人間の姿となりマーヴィとグラーノに声をかけた。二人の方を向いて口を開くスタビーは、どこか不安げな顔をしていた。


 「ここでにおいが消えている。その代わりに数十匹分のはぐれ狼たちの匂いがする」


 “はぐれ狼”その言葉を聞いた瞬間、グラーノがスタビーに詰め寄る。


 「そいつら、危ない奴らなんだよね? っていうことはギルが襲われたかもしれないってこと!?どうしよう、早く助けないと。ねえ、マーヴィ早く行こう」


 慌ててマーヴィの右手を引くグラーノだったが、当のマーヴィは冷静な声で、目を伏せるスタビーに声をかけた。


 「数十匹か、村に戻って応援を頼むか」


 マーヴィは、目を細めてスタビーの顔をじっと見ていた。その真っ黒の目は、せわしなく動くスタビーの瞳をしっかりと捉えていた。何か、迷っているような……。


 「いや、そんな時間はない。おれ達だけで行こう」


 スタビーはやがて顔をあげ、決心したような顔で二人の方を向く。すぐに白い狼の姿に戻り、今度はその場に残っているはぐれ狼たちの匂いを辿り始めた。

 慌てて後にグラーノが続き、後には先頭を歩く白い毛玉をどこか訝し気な顔で見つめる男だけが残っていた。

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