最終話
”この世において極めて断ち難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。――水の滴が蓮葉から落ちるように。”
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
「サクラ、おはよう」
「リコ! おはよう!」
サクラが飛び着いてくる。
「サクラ、まだリハビリ中なんだから無理しないで…」
「いいじゃないこれくらい。それにもうこんなに元気だよ!」
サクラはぴょんと跳ねてみせる。
「もう…それよりちゃんと復学手続き終わった?」
「大丈夫。単位は足りないから一年留年しちゃうだろうけど、はやめに進学の目処もつけるつもり」
「そう、良かった」
「リコは研究、進んでる?」
サクラは復学を機に理転した。イチカの研究を引き継ぐためだ。私は日向先生のはからいで、先生が所属している研究チームの手伝いをさせてもらえることになった。
「さずがに専門職の人たちはひと味違うね。卒業後は一応進学も考えてるけど、あっちのラボに入るのも楽しそうではあるかな」
「リコならなんだって出来るよ。大丈夫」
「ありがとう、サクラ…」
「今日病院行く日だったよね? 何時にしよっか」
「夕方には行こう。日向先生には言ってあるから」
「わかった。じゃあ、カフェテリアで待ってるね」
「うん、わかった」
「うん、それじゃ後でね」
「サクラ…」
サクラはふわりとふりかえる。
「どうしたの、リコ?」
サクラと目が合う。私はこの気持ちをどう伝えたらいいのだろう。
「…ううん、なんでもない。気をつけてね」
「リコは心配性だなあ。大丈夫だよ!」
サクラの背中が遠くなる。そうか、サクラが戻ってきたんだ。私の日常に。
ナレッジセンターは閑散としていた。それもそうだ、新入生がいきなりこんな設備を使うわけがないし、勉強熱心な学生は図書館のほうを好む。
「日向先生、この資料なんですが…」
「ん~…? どれどれ…?」
「先生、煙草くさいですよ…いつ禁煙するんですか?」
さっきいなくなった理由はこれか。まあ別に怒ってはいないんだけど。
「あ~…ら、来月…?」
「まあ喫煙は個人の自由なのでとやかくいうことはしないですけど…エチケットというか…一応ここは大学なんですから」
「浦賀井…最近俺にキツいな…」
「一緒に作業してると気になるんです…」
キツい、というほど責めたりはしていない。先生もわかっているとは思うけど。
「まあそう堅いこというなって…単位は免除してるんだからさあ…な?」
「それとこれとは別です」
「まいったなあ…」
日向先生はいつもこんな感じだ。一見不真面目そうだが、その実、実務能力や知識量はうちの大学の教授陣でもそうそう勝てる人はいないだろう。なぜ非常勤なのかと聞いたことがあるが、「教育者ってガラじゃねえんだよな」といいながら笑っていた。たしかに講義でもそういった空気はある。自覚的なのか無自覚なのか、この人は自分の役割がわかっているという感じがする。
「あ、浦賀井、コーヒー買ってきてくれ。ちょっと休憩しよう。後、浦賀井も好きなもん買ってこい。金は出すから」
「はい、わかりました。ブラックでいいんですか?」
「おう、頼むわ」
ホール脇の自販機で飲みものを買う。だいたいこの時間になると先生は休憩をはさむ。本人いわく、こういうルーティーンが必要なのだそうだ。
「先生、買ってきました」
「おう、サンキュー」
「先生、かなり疲れてますね…」
それもそのはずだ。二足の草鞋どころか、自分の研究もあるのだから。
「まあなあ、俺もなにやってんだか…」
「でもこのプロジェクトはすごく興味深いです。進化について哲学的なアプローチをするっていうのは、なんというか…面白いです」
「そりゃ良かった…俺も優秀な学生に手伝ってもらえて助かってるよ。ありがとな」
「いえ、私は…」
「あんまり自分を犠牲にするな」
「え…?」
「浦賀井はたぶん、いろんなものを背負いすぎだ。若いのに苦労する必要はない」
「そんな…苦労なんて…」
「そういうところだ。もうすこし好き勝手やってもいいと思うぞ」
「今は、結構そういうつもりですが…」
「ははは、浦賀井は良い子のお手本だな。だけどな、ときには言いたくないことも言わなきゃならんときが来る…いや、説教くさくなるのはだめだな。まあわがままで良いってことだよ」
「わがまま、ですか…」
「俺が今考えてるのはな、人間が進化した瞬間、自分が進化したと認知できるかどうか、っていう思考実験なんだが…」
「模倣における変異ではなく、進化ですか?」
「ああ。例えば子どもが産まれてくるとき、配偶者同士の異なる遺伝情報を持った状態で産まれてくる。それは種として強化された個体のはずだ。だが、それが進化した人類の形だとは認識されない。本人はもちろんだが、周りの大人さえも、ただ産まれてきたことを祝福するだけだ」
「そう、ですね」
「伍條さんのレポート、読んだか?」
「はい」
「あれは、なんというか…今の社会制度を根底から覆す可能性がある気がするんだ。例えば指摘されているMIND-Glassの接続部分からのウイルス感染の可能性。それは意識へのハッキングも可能ってことになる。視神経から視床下部へ、視床下部から大脳皮質、偏桃体へ…そう考えると末恐ろしい才能だと思ってな」
先生もやはりそこに気づいた。
「まあ俺の専門じゃないからどうにも説明できないんだが、浦賀井は自分の意識を認識したことはあるか?」
「いえ…考えたこともないですね」
「そうだよなあ…意識ってやつは人間からすると無意識みたいなもんなんだよ」
「というと?」
「例えば赤い花があったとして、赤い、と思うことはあっても、赤いと思った、だから自分には意識がある、とはならないんだ」
「たしかに…」
「チューリングテストってのがあってな、機械に意識があるのかどうかをテストできるものなんだが、機械に意識が宿ると思うか?」
「現行のAIはかなり近づいているとは思いますが」
「そうかもな。だが、AIに入ってるのはあくまでも情報にすぎん。情報だけじゃ会話は成立しないと思わないか? 意思というか、心みたいなものがない」
「そうですね…情報だけでは主観的意識を持っているのかどうか…判別できないでしょうね」
「そうだ。だがそれは人間もあるいは同じかもしれん。主観的意識体験である以上、俺たちが感じていることも情報でしかないとしたら」
私は言葉に詰まった。
「まあもし機械やAIが抽象概念を理解できて、適宜主体的に取捨選択をして、なんてことがあれば見た目には人間がやってることと区別がつかんだろう。もしかしたら、神の存在を定義できるのはAIのほうかもな」
「だとしたら、世界がひっくり返りますね」
「そうかもな。でもさっきいった通りだ。もしかしたら人間はそのことにすら気づかないまま、AIの奴隷になってしまうかもしれんな」
「先生はやっぱり教育者には向いてませんね」
「ははは、そうだろう?」
「もっと大きな仕事に携わるべきだと思います」
「まいったな…それは、よくいわれるんだよ…」
先生は、一服してくるわ、といって外に出た。あの様子だと当分禁煙は期待できなさそうだな。
「あ、リコ!」
「サクラ、おまたせ」
「いいよ、今日は講義詰まってたからちょうど良い休憩になったよ」
「それなら良いけど。疲れてない?」
「そんなこといってられないよ。私もちょっとはがんばらなきゃ」
サクラは強いな、と改めて感じる。
「でも無理はしないようにね。まだ回復したわけじゃないんだから」
「うん、でも講義は面白いよ」
「理転したばっかりだもんね。新鮮で楽しそう」
「教授はなにいってるかわかんないけどね。声がちいさいの」
サクラはほがらかに笑う。本当に楽しそうだ。
「それじゃ、行こうか」
私たちはリニアバスの乗り場へ向かった。
いつもの道。見慣れた景色だが、やっぱりサクラがいると雰囲気が違って見える。見える、というか、感じがするといったほうが正しいかもしれない。これはきっと主観的意識体験だ。
「ねえ、リコ」
「なに?」
「今のリコにはなにが見えてるの?」
「どうしたの急に?」
唐突に聞いてくるサクラ。質問の意図がわからずにいた。
「私はずっと…意識がなかったから…その間のリコのことあんまり知らないから」
「私はね…」
そう、私は。
「怪物になりかけた」
「深淵をのぞいたの…?」
「そう、サクラのためって思いながらやってるつもりになってた。でも本当はエゴだったのかもしれない。サクラの意識は結局、私の力ではとり戻せなかったから」
「リコ…」
「皮肉な話だよね。でもおかげでわかったこともあるの」
「なに?」
「情念が意識を飲み込んだとき、人間は怪物になる。あのときはおかしくなってて、そんなことにも気がつかなかったけど…今は、わかるよ。ユートピアなんてないってことも、ね」
それにもしもユートピアが完成したとして、はたしてそこに人間なんて存在する必要があるのだろうか。
「そう…」
「サクラは、なにを見てたの?」
「私は…あの子の、急速な進化の過程を見てた」
「そっか。やっぱりサクラは進化だと思ってたんだね」
「リコ、心のアップロードって可能だと思う?」
「心の…?」
「そう、工学的な考えかただけど、その人のエッセンスである脳の内容を人工的なプラットフォームに移すの。それが心のアップロード」
「それって…」
「うん、肉体的、物理的な死は回避出来ないけど、意識、心は、ヴァーチャルな空間の中で生きつづけることが出来る…」
「データと同じなら、複製に近いってこと…?」
「そうだね、まだまだ先の、すこしとおい未来の話だと考えられてるけど、理論上は可能なの」
「なら、もしかして…」
「でも、心のアップロードには大きな欠点がある。それは生殺与奪の権利を完全に他者にゆだねなくてはならないってこと」
「…そうか、データと同じだから…」
「うん、不要だと判断されれば…」
サクラは続ける。
「原理は脳の構造がベースとなってるから、脳のしくみがわかっていれば簡単なことなの。情報は樹状突起と神経終末を経由して、ニューロンを通る。入力から中間処理、出力までの流れは、ニューロン間のシナプスで調整されて、あっちは止める、こっちは通す、みたいな形で脳内の特定の経路や回路に導かれる。これは神経科学での有名な発見だね」
「神経ネットワーク…で合ってるかな?」
「うん、リコも今やってる研究で知ってるかな。その人のエッセンスはコネクトームって呼ばれるものなんだけど、これはマッピングが進められているところだね。これは個人の固有のものなの。だからこれが得られれば…」
「心はアップロード出来る」
「そう。でもね、これはさっきもいった通り、倫理の問題が大きいの。スイッチひとつで誰かが誰かの存在を消せる世界…この問題についてはリコが日向先生と研究してる範囲だよね」
「そうだね。私たちはMIND-Glassの将来的な運用の問題だけど…もし心がアップロード出来るなら、AIの意識獲得の問題にも発展するかもね」
「私の考えでは心がアップロードされたとき、取捨選択をするのはきっとAIになるはず。笑っちゃうよね。人間の存在をどうこう出来るのがAIだなんて…」
「でも、私もそう思うな。人間の良心をいためないようにするには、それが合理的だもの」
「そんな社会にはなってほしくないけどね」
「同感…」
「でもね、リコ。もしかしてあの子ならって思うの」
「イチカ…」
「そう、イチカなら、今もなお進化しつづけてるあの子なら、きっと…」
”ほんとうのさいわい”とはなんだろう。ここ最近自問自答していたが、答えは出ないままだ。日が傾いてきた。今しがた到着したリニアバスが、入り口を開けて私たちを待っている。
「あ、リコちゃん、サクラちゃん、来たね」
「山路さん、こんにちは。あ、もうこんばんはですかね」
「私たちは時間あんまり関係ないから、なんでもいいよ」
ニコっと笑って山路さんが言う。
「お見舞いだよね、イチカちゃんの」
「はい。どうですか? イチカ…」
「サクラちゃんのときとは状態が違うんだよね。なんていうかな…ちゃんと意識はあるみたいなの」
サクラの表情が変わった。
「脳波は乱れてませんか?」
サクラが質問する。
「管理AIには異常として判断されてないみたいだね。状態としては限りなく眠りに近い状態って感じかな。」
「ありがとうございます。リコ、行こう」
「あ、サクラ…山路さん、また後で…」
「了解~! 走っちゃだめだよ~」
サクラは私の手を引っ張ってイチカの病室へ足を向けた。
普段ノックは一応するのだが、サクラはいきなりドアを引いた。
「やっぱり…」
「どうしたの、サクラ…」
「私のときとは違う…意識にロックがかかってない」
「え…?」
同期した意識はふたり同時に稼働することが出来ないはずだ。イチカがそれを証明してみせた。なのになぜ?
「リコ、これは私の仮説。確証はない。でもたぶん、そうじゃないと説明がつかない」
「なにが起きてるの?」
「たぶんイチカは内部から意識のロックを外そうとしてる」
「内部…?」
「MIND-Glassは長期睡眠状態だとスタンドアローン状態になってるはずだよね。だけどイチカは私をいつでもサルベージ出来るように、ネットに仮想サーバーを作っていた」
「つまり…?」
「イチカは仮想サーバーを通して、すこしずつマインドロックの解除コードを構築してるんじゃないかな…」
「イチカの意識は稼働してるってこと…?」
「普通睡眠状態なら脳波はδ波でほぼ安定するはずなんだけど、限りなく眠りに近い状態が真なら、イチカは今ほんのすこしだけど活動してることになる。たぶんアクセスのエラーコード、出ないんじゃない?」
「本当だ…サクセスが表示されてる…」
「イチカがここまで来るとはね…正直おどろいた」
「すごいな…自力で解除できるのかな…」
人間の進化に必要な、不確定要素。それはもしかして…
「イチカはまだそんな状態じゃない。私たちも出来ることをしなくちゃ」
「そうだね、私たちも手伝わなきゃね」
「そう。そうじゃないとなんのためにイチカの研究を引き継いだかわからなくなるじゃない」
イチカは戦っているのだ。今もなお、自分の力で。なんだ、空っぽなんかじゃないじゃん。うそつき。
おだやかな空気。でっかいソーラーパネル。車いすには美しい白髪のお人形さん。
「そういえばリコ、イチカと約束してたでしょ?」
「知ってたの…」
「意識はつながってたんだもの、当然でしょ?」
「もう…」
「いいよ」
「え…?」
「キスくらいなら許してあげる」
「サクラ…」
「まあ、私もイチカの気持ち、わかるし…」
「あはは、サクラ…」
「なによ…」
”ほんとうのさいわい”がなんなのか。きっとそれはこれから見つけていける。私はそう確信した。
「ありがとう、サクラ。大好き」
「…私も。…イチカにもいってあげてね…」
「うん、三人で一緒にいよう。イチカもいれば、きっと楽しい」
「私恋人なのになあ…今回はイチカに借りが出来ちゃったから頭あがんないよ…」
春のにおい。夕日がイチカの瞳に光を与えている。今にも笑顔で私の名前を呼びそうだ。リコちゃん、て。
「…ーン、タタタタン、タタタタッタタン…」
「イチカ…」
「チャイコフスキー『眠れる森の美女』ワルツ…」
「サクラの影響だよ、たぶんね」
「こんなとこまで模倣しちゃって…でも、良い趣味してるね」
「バレエの曲だよね」
「そう。パ・ド・トロワの練習しなきゃね」
「あれ? この曲はパ・ド・ドゥじゃなかった?」
「三人いるんだからいいじゃない。ふふっ」
イチカの桜色をしたくちびるがふるえていた。それはまるで、はなびらみたいに見える。いつか、このくちびるにくちづけをしよう。願わくば、そう、近い未来に。
風。
風が吹いてる。
この世界は真っ白だ。
だけど、今この瞬間だけは、どうしようもなく美しくて、きらめいている。
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