第5話
「リコちゃん…どうしたの? そんなにあわてて…」
「山路さん…っ! サっ…サクラ…は…?」
心臓が割れそうに痛い。
「いつもと変わりないけど…大丈夫?リコちゃん…」
「わ…私は…大丈夫です…」
「なにかあった?」
「いえ…そういう、わけでは…」
呼吸が安定してきた。冬場は乾燥していて息が整いにくい。
「院内は走っちゃだめだよ。とりあえずサクラちゃんのところ、行くんでしょ?」
「はい、すいません。失礼します…」
「うん、気をつけてね。それじゃ」
サクラの病室はすぐそこだ。とにかく今はサクラのところへ。
「サクラ…っ!」
ノックなしでサクラの病室に入ったのは初めてだった。サクラは、いつものように規則正しく呼吸していた。
「サクラ…良かった…」
サクラに異常がないことを確認して、とりあえずひと安心した。
イチカから送られてきたレポートのデータ。そこに記されていたのはMIND-Glassの仕様がAI任せであることの危険性と、その対応方法の一案。つまり、イチカは知っているのだ。MIND-Glassをハッキングする方法を。そうだと仮定するなら、この状況には説明がつく。ただ、どうしてサクラの意識がロックされたのか。ここだけが疑問だった。あのレポートの内容に則れば、意識がロックされるのはイレギュラーケースだ。本来の仕様ではない。つまり本来のMIND-Glassの用途とは別の使い方をサクラがしていたことになる。
サクラはいったいなにを見ていたのか。なにを…?
「サクラ、またモグリで講義受けてたの?」
「あ、リコ。おはよう」
「おはようじゃないよ…まったく」
「まあまあ、減るもんじゃないし。ね?」
「それはわかってるけど…限度があるでしょ…」
「はいはい」
サクラはうれしそうだった。
「なんで笑ってるの…」
「だってリコが構ってくれるからうれしくて…」
「もう…それはわかったから…とにかくあんまりやりすぎないでよ?バレても助けてあげないからね。」
「そんなこといって絶対助けてくれるのがリコだよね」
「もう…サクラには負けるよ…」
「ふふ、ありがとう、リコ…」
サクラはもしかして…この仕様を知っていた? どうして? イチカでさえここまで時間がかかっていたのに…いったいどうやって? いや、もし仮にサクラがこれを知っていたのだとしたら、イチカの着想は、もしや…
その瞬間、院内の電源が落ちた。停電? こんなときに? …いや、この状況を私は知っている。そう、日向先生と話した時だ。なら、局所的な停電のはずだ。はっとして振り返る。サクラ! ヴヴッと音がして非常電源に切り替わる。点滴はAI管理だ。スタンドアローンでも一応は機能するが、サーバーで管理しなければ異常が起きても検知されない。サクラはとりあえず無事だろう。問題は…
「リコちゃん! 大丈夫?」
「山路さん…」
「良かった、無事だったね」
「はい、私は大丈夫です」
「サクラちゃんも…今のところ異常はなさそうだね…」
「はい…山路さん…」
「ん?」
「サクラになにか異常があったらすぐに連絡ください。お願いします」
「わかった…リコちゃん? どこに…」
私は知っている。心あたりがある。この状況を引き起こせる人物に。
プログラマーは、コードに自分の思想を残すという話を聞いたことがある。そんなセンチメンタリズムが、この情報にあふれた社会で、唯一自分という意識が存在していたことを証明するものだとしたら、とても切ない。でも、この漂白されていく社会の中で、自己の存在を証明をするためには致しかたないことなのかもしれない。私が例えばこのコードの制作者なら、存在を残さずにいられただろうか。好きな人に気づいてほしいと思わずにいられただろうか。エレベーターは止まっている。私はゆっくりと階段をのぼる。わかっている。私の返事を待っている人が、きっと、そこにいる。
この病院の屋上には、ソーラーパネルが試験的に配備されている。これは都市開発の一環だ。もちろん大学の屋上にも、環状線状に作られた道路の路肩にも、至るところにソーラーパネルが設置されている。緊急時や災害時に安定して電力を供給するためだ。普段は充電用として運用され、各建物のサブバッテリーに電力が蓄積される。メインバッテリーとサブバッテリーは本来であれば管理棟にあるコントロールルームで操作し、外部から干渉することは、公表されている仕様では出来ないことになっている。しかし、それを可能にするのが管理AIに対してのハッキング。防壁マスクのプロトコルは乱数で暗号化し、安全性を保っている。それがメーカーから公表されている情報だ。もちろん、汎用型ではあるが量子コンピューターで処理するため、安全性は極めて高い。だが、防壁マスク自体はMIND-Glassの仕様と同じであるため、AIが管理者と判断すれば容易に防壁マスクを突破できる。これだけならば、おそらく優秀な人間からすればそういう事態も起こり得ると予想ができたはずだ。そこで、生体認証という必殺兵器が実装されることになったわけだ。
もちろん管理AIにも生体認証は実装されている。だが、管理AIはその性質上MIND-Glassのように個別のデバイスに搭載されているゾーニングAIと同様に扱うことができない。管理者を二十四時間管理センターに常駐させていたら労基法に抵触する。よって、管理者にのみ管理センターに入るためのプロトコルキーが配布される。それを社用のMIND-Glassに保存し、個人の生体認証とプロトコルキーの二段階認証で安全性を保持しているという仕組みだ。
しかし、このプロトコルキーの弱点を指摘したのがイチカのレポートだ。プロトコルキーを管理AIが読み込む際の承認の仕組みが、MIND-GlassのゾーニングAIが行うメッセージのアクセスキーを読み込むアルゴリズムとほぼ同じであるとイチカは推察した。その結果が、おそらくこの停電。どのような過程を経てかは不明だが、イチカはなんらかの形で管理AIにアクセスしたのだ。おそらく大学での停電は実験だったのだろう。もちろん本人に聞くまで真実はわからないが。
屋上のドアを開ける。ひゅうっと冷たい風が吹き込んでくる。ソーラーパネルの奥、建物の構造上出来た開けた空間に、彼女はいた。私は、彼女の名前を呼ぶ。
「イチカ…っ!」
白髪の美しい女の子。月を背負って立つその姿は、天使にも悪魔にも見える。あるいは、この世でいちばん美しい死神か。
「リコちゃん、ようやく来たね…リコちゃんなら絶対ここまで来るってわかってた」
「イチカ…やっぱりあのエラーコードはあなたの…」
「このソーラーパネルはスタンドアローンでは機能しない。AIが載ってないからね。だから、ソーラーパネルからコントロールルームのコンソールにアクセスするのは簡単…」
「私が聞きたいのはそっちじゃない。わかってるでしょ…」
「もちろん。サクラちゃんのことだよね」
「そう。サクラの意識を返して…」
イチカは天を仰いで話し始めた。
「人間は意識の概念を持ってる。注意スキーマを持った生命体すべてが持っているわけじゃないけど、人間は、間違いなく意識という概念を持ってる。」
白髪に月光が反射する。
「マインドハックそのものの原理はそんなに複雑じゃない。思考のベクトルと感情の同期。言い換えるなら、脳波の調律がとれていれば、MIND-Glassを介して意識をハックすることは可能なんだ。これは致命的な欠陥だね。そうだな…より高次な、例えば感性とか深層心理なんかはトレースできないけど、それよりもAIは同じ形をしているかどうかを判定基準としているんだろうね。それは結果が証明した」
「サクラの思考を…トレースした…?」
「思考のトレースはそれほど難しいことじゃなかった。私もモグリで講義を受けてたし、なによりサクラちゃんはこの原理にどういうわけか気づいていた。それよりもいちばん大事だったのは感情の同期。サクラちゃんのことはアッパースクールのときから知ってたの。同じ学校だったから。選択科目が違ってたから話すことはなかったけど、校内でも有名だったよ。私の家はサクラちゃんの家ほど良家ではなかったけど」
イチカは続ける。
「感情の同期が起こったのは偶然だったの。私が意図的にやったことじゃない。サクラちゃんとリコちゃんが一緒にいるところをたまたま見かけて…私はリコちゃんにひとめ惚れしちゃったの。すごく…かっこよくて、きれいで…それで…」
「それとサクラの意識が失われたことと、どう関係があるの…」
「サクラちゃんが学内サーバーにアクセスした瞬間に、偶然私も同じタイミングでアクセスしてしまったのが同期のはじまり。私しか知らないと思ってたんだけど、サクラちゃんもこの原理を知っていた。それはさっき言ったよね。同じタイミングで防壁マスクのプロトコルを破ったとき、私とサクラちゃんのデバイスが瞬間的に同期してしまった。そこで意識がリンクしてしまったの。思考ベクトルと感情の同期がその瞬間、起こった」
「つまり今サクラの意識は…」
「そう、私の中にあるよ。といっても、私のデバイスでネット上に作った仮想サーバーの中にある。今も私とサクラちゃんの意識は同期しつづけてる。もっとも、サクラちゃんの意識はロックがかかってるんだけど…」
「…イチカならそれを解除する方法を見つけられたんじゃないの…」
「もちろん研究したよ。その答えがあのレポートなんだけど…現段階では条件があるの」
「条件…?」
「その前に、言っておきたいことがあるの。リコちゃんは私の思考をトレースしてここにたどり着いた。それなら、私とサクラちゃん、そしてリコちゃんは今この瞬間においては同じ存在だと定義できない? それは…美しいことじゃない? リコちゃんと私がここでリンクすれば、三人の意識はこのままずっと一緒にいられる…私はリコちゃんとずっと一緒にいたいの…」
「イチカ…人間は必ず死ぬの。どうやってもそれはまぬがれることができない。だから私たちは選ばなきゃいけない。自分が自分でいるために」
「リコちゃん…」
「個体淘汰は行動で変えられる。イチカ、一緒に未来のことを考えよう。あなたと私、サクラもいれば、きっと未来は変えていける」
イチカはすこしの逡巡の後、ゆっくりと口を開いた。
「私はサクラちゃんのエングラムによって変化したニューロンネットワークを追体験した。そうして私とサクラちゃんはすこしずつ、深く同期していった。私はサクラちゃんのエングラムセルにアクセスできたの。デバイスを介して、神経を介して、脳の深くまで」
「脳…の…?」
「そう、そこで私のほうに問題が起きた。私の記憶が、サクラちゃんの記憶にあてられて、過誤記憶になってしまったの。サクラちゃんはリコちゃんをすごくすごく好きだったんだね。それで、私はリコちゃんをどうしても手に入れたくなった。本当はあきらめるつもりでいたのに…」
「意識の…同調…?」
「ある意味そうだね。そして私はサクラちゃんの個体情報からコードを受けとった。私は、サクラちゃんのミームとして生きるようになっていった」
「ミーム…模倣ってこと?」
「言語はね、遺伝じゃなくて模倣によって獲得するの。私はあれだけのレポートを書く遺伝子をもってない。つまり、サクラちゃんと同期して獲得した模倣子によって私は変異した。なにも持っていなかった私が、初めて自分の意志で動けるようになった」
変異。人が、変異する瞬間…それは進化とどう違うのだろう。
「わかるんだよ、私。リコちゃんの体温もわかるし、やさしい顔も知ってる。やすらかな寝顔、やわらかいくちびるの感触…サクラちゃんが体験した記憶がわかるの。でも、でもね、これは私のものじゃない。サクラちゃんのもの。だから私、どうしてもリコちゃんがほしいの…リコちゃんがいない世界なんて私はいらないの…」
「イチカ…」
月明かりが消えていく。雲が空を隠す。乾いた空気が湿りけを帯びて、気温が下がっていくのがわかった。
「私はサクラちゃんの光に、オプトジェネティクスにあてられた変異種…おかしいのは私…わかってる。でも、たしかにあるの、私の中に。サクラちゃんの情動が…リコちゃんを求める情動が…これはいったい誰のもの…?」
私はイチカをおかしいとは思わない。もちろんサクラのことはどうにかしないといけないが、それよりも、まずは。
「イチカ、さっき言ってた条件というのは?」
意を決して問いつめる。私の考えが正しければ…
「…ふたり同時に意識をとり戻すことは今の技術ではたぶん…出来ない…」
「そう、わかった」
「リコちゃん…?」
「イチカ、あなたの気持ちは伝わった。でもまずはこの間の返事をしなきゃね。」
私は覚悟を決めるしかなかった。
「答えはどちらでもない」
「え…?」
イチカとサクラ。ふたりを天秤にかけるなんて、私にはできない。
「あなたは今きっと沼の中にいる。怪物になろうとしている。私に怪物にならないでと言ったあなたが、今まさに怪物になろうとしている」
「私…が…?」
「そう、あなたが。」
イチカの目線が下を向く。
「イチカ、私を見て」
イチカの瞳が私を見つめる。
「あなたは伍條イチカ。他の誰でもない。私の大切な人」
「リコちゃん…」
「あなたがサクラと同期してしまったのは偶然。もうそれは過去のこと。しかたがないこと」
「うん…」
「だからイチカ、私と一緒にいなさい。そしてサクラの意識をとり戻す方法を一緒に考えて。イチカじゃなきゃだめなの」
「私…じゃなくちゃ…?」
「そう、他でもない、イチカだから出来ること」
「私に、出来るかな…」
「大丈夫、出来る。私がいる。イチカがいる。それで充分」
「でも私…リコちゃんを…」
「サクラの意識をとり戻したら全部チャラにしてあげる。だから私と一緒にいなさい。それがあなたにしか出来ないこと」
「でも…私は、空っぽだったの…私にはなにも…」
「今のイチカなら出来るよ。絶対に。これからは私のために生きて。今ここで、あなたは変異、いいえ、進化するの」
私はイチカの選択に賭けた。私は私の選択をした。後は、イチカが決めなくてはならない。酷なことだと思う。自分を失ったイチカに、あるいは本来の空っぽだったイチカに、それを課すのは。
「リコちゃんはやっぱりやさしいんだね…」
冷たい風が頬をなでる。イチカの白髪がなびく。雨のにおいがする。
「でもねリコちゃん…もしかしたらそれは、この社会を壊してしまうものなのかもしれないよ?」
「わかってる。でも、サクラともイチカともいられない世界なら、それこそ私には不必要なものだよ。」
「サクラちゃんが言ってた通りだ…」
イチカの瞳に涙がにじむ。
「リコちゃんにはかなわないなぁ…これが、人を好きになるっていうことなんだね…私、やっとわかった…」
イチカがなにをしようとしているのか、私にはわかった。
「イチカ! やめて!」
「いいの、これでいい…でもひとつだけお願いがあるの…」
「イチカ…っ!」
「私を、ひとりにしないでね…」
イチカの身体が崩れ落ちた。まるで、糸の切れた操り人形みたいに。
「リコちゃん! サクラちゃんが!」
山路さんが屋上へ飛び込んできたのは、それから三十分は経ってからだっただろうか。私は白髪のお人形さんを抱きしめていた。季節はずれの冷たい雨。私の頬を伝ったのは、きっと雨だったに違いない。ああ、なんて真っ黒な空だ。私の腕の中にいる白髪のお人形さんは、それでもやっぱり、美しかった。
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