第4話

 夏休みが終わり、秋のにおいがただよっていた。イチカのレポートは完成し、学内でちょっとした話題になったらしい。完成したレポートのデータを送ってもらったのだが、私はすこし疑念を抱いていた。

 イチカの本気はこんなものじゃない。たしかに良くまとまってはいるが、シンプルすぎる気がしてならない。たぶんイチカはいくつかの項目を削っている。そんな気がするのだ。もっと深いなにかにイチカは気がついているが、あえてレポートから削除した。その理由はわからないが、あの子のことだ、先を見通してのことだろう。そう思えばこそ、七割程度の試作品といった考察が評価されたのは、やはりイチカの能力が優れていることの証左に他ならない。とんでもない子だなと改めて感じる。それにしてもイチカはどんな仮説に行きついたのだろう。その内容はおそらく本人に聞いてみないとわからないが、私にとってもイチカにとっても、それがとても重要なことだと思うのだ。



 「ねえ、イチカは感情的になることってある?」

 私たちは例によってクレールヒェンに来ていた。

 「感情的…ならないようにしてる、って感じかな。あまり感情を表に出すのは好きじゃないかも。止まらなくなりそうで…」

 「止まらなくなる?」

 「そう、イメージだけどね。抑制されていたものがあふれるときって、危険だと思わない?」

 「攻撃的になるってこと?」

 「それもあるんだけど、もし私の自制心や良心が感情を制御できなくなったらって考えると…なんて表現したらいいかな…意識に組み込まれてるバグが、私を壊そうとする感じかな。アナロジーだけどね」

 「バグ…」

 「リコちゃんは感情的になったりするの? あんまりイメージがわかないけど」

 たしかに私は感情というものが希薄な気がする。いったい自分の感情はどこにあるのだろう。あるいは無意識に出てしまっているのだろうか。

 「私は…あんまり感情がわからないの。自分のことなのに…」

 「リコちゃんは好奇心が旺盛だから、意識が外に向き続けてるのかもね。知的欲求って言い換えても良いかもしれないけど」

 「そんな高尚なものじゃないと思う…」

 「高尚である必要はないんじゃないかな。すごく良いことだと思うよ。他人をねたんだり嫉妬心にかられることほど不幸なことはないから」

 「ねたみ…」

 「”退屈の反対は快楽ではなく、興奮である”。ラッセルの言葉だよ。人間は退屈してくると無駄な考えにとらわれちゃうの。他人と自分を比較して不幸を嘆くのは、きっと人生が退屈だからだね。リコちゃんは前に進もうとしてる。だから退屈よりも好奇心が勝って、無駄なことを考えてない」

 「そうなのかな。私は手ごたえを感じてないけど」

 「リコちゃんの理想が高いからだね。理想が高ければ高いほど現状の自分と理想の自分との乖離に苦しむものだけど…」

 「理想が高いとは思ったことがないかも。でもたしかにどこかちぐはぐな感じはしてる」

 「今はそれでいいんじゃないかな。きっとリコちゃんならそこにたどり着けると思うし」

 「そんなに楽観的にはなれないけど…でもありがとう、イチカ」

 「最悪の事態を想定して楽観的に構えることは悪いことじゃないよ。あんまり真面目すぎても疲れちゃうから」

 「そうだね。日向先生にも言われたな」

 「あの人はゆるすぎるけどね…」

 「そうかも」

 ふたりしてクスっと笑ってしまった。日向先生にはちょっと悪いことしたな。



 「”ジョバンニが云いました。「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄にわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました”。『銀河鉄道の夜』からの引用だ。まさかこの講義を取っている学生に読んだことがない学生がいるとは思わないが、もし未読だったらぜひ読んでみてほしい。宮沢賢治の仏教観というか世界観にふれてほしいと思う」

 近現代文学論の講義だ。文学部である以上必修なので取らざるを得なかったのだが、宮沢賢治は童話作家というイメージが強かったので文学的に研究するというのが想像できなかった私にはありがたかった。

 「このあとの展開は稿によって違いがある。一応ブルカニロ博士が出てくる稿が正確なものと言われているが、なにせ作者の死後発表された作品だからな。本当のところは誰にもわからん」

 研究の余地はあるということか。なるほど。

 「昨今文学研究は肩身が狭い。なにせ実学とは程遠いからな。文学を研究したからといって社会の役に立つとは思えないというのは理解できる。だが、文学は人生を豊かにする。文学は時代を象徴するものだ。比較研究にも言えることだが、その時代における必然が文学には込められていると、私は信じたい」

 なかなか熱い教授だ。信念というか、貫きたいなにかがあるのだろう。

 「今日の講義では”ほんとうのさいわい”というところにフォーカスしたい。宮沢賢治が仏教を信仰していたこととも関連がある。殊に大乗仏教における幸福の追求とは宮沢賢治の各作品にしばしばみられる」

 ”ほんとうのさいわい”か…幸せというのは個人の主観によるものではないのだろうか。

 「例えば現行における都市開発。これを文学を軸に捉えてみたい。たしかに私たちの生活は都市開発によって豊かになりつつある。しかし、だ。豊かさとはいったいなんなのか。その本質を文学は鋭く指摘しているとは思わないか? 別に貧しくあれだの生活水準を見直せだの言うつもりはない。考え方の話だ。例えが多くて申し訳ないが、例えば花を見たとしよう。その花の名前や花言葉を知っているときと知らないとき、どちらが豊かな人生と言えるだろうか。これを文学に置き換えてみよう。生きていく過程で困難に遭遇したとき、どうしようもない事態に遭遇したとき、まるであの小説のようだと思える場合と思えない場合、どちらがゆとりある精神状態でいられるだろう。ものの例えだが、そういうことだ」

 含蓄のある話ではある。想定外の事態に対処するときの姿勢としては、精神的にゆとりがあったほうが間違いなく冷静でいられるだろう。

 「文学を通じて生き方や考え方を養う。それが本講義の目的だ。無論実学も生きる上では非常に大事なことではあるが、教養を軽視するのはあまり良いことではないと私は考えている。文学には、まあ、そういった意味があると思っておいてくれ」

 講義終了の時間だ。講義のスピード感に圧倒されてすこし呆けてしまった。サクラの本好きな理由がなんとなくわかった気がした。


 肌寒くなってきた風がそよぐカフェテラスで、私はひとり考え込んでいた。私にとっての幸福とはなんだろう。今の状態じゃないことだけはたしかなのだが、答えはやっぱり出せずにいる。それもそのはずだ。今までそんなことは考えたことがない。サクラがいる日常を取り戻すことにばかり気を取られていて、自分自身のことなんて考えていなかった。最近はそもそもサクラがいた日常は幻想だったんじゃないかと考えたりもする。かなり疲れているらしい。沼に落ちていく感覚。もしかしてこれがそうなのか…私には判断がつかない。どうしたものか。不思議と最近サクラをハッキングした人間を恨めなくなっていた。もとより恨んでいたわけではないが、サクラの意識を取り戻すことがなによりも優先なので、そもそも憎しみなんてなかったのだと考えるようなった。

 私が求めているのはサクラとの日常。幸福なんて大げさなものじゃない。ただ好きな人と一緒に時間を過ごしたい。それだけなのだ。


 「イチカ…」

 「あ、リコちゃん。こんなところで会うなんて奇遇だね」

 イチカはナレッジセンターでモニターディスプレイを眺めていた。

 「なにか調べもの?」

 「そう、お世話になろうと思ってる教授のお手伝いしてるの」

 「ああ、こないだのレポート見てもらった教授?」

 「うん、でもね…」

 めずらしくイチカがため息をついた。

 「調べてる論文が文章力に乏しくて…たしかに理系に文章力は求められないとはいえ、もうすこしレトリックでも良いと思うんだよね。まあ内容はわかるから別に問題はないんだけど」

 「どんな論文なの?」

 「うーん…簡単に言うと意識の発生についての論文かな」

 「近い分野の記事は読んだことあるよ。脳科学に近い?」

 「そうだね、あとは遺伝子的な観点も含まれるかな」

 「そっか、イチカはそっち方面に進むんだもんね」

 「うん。でもね、やっぱり心理とか意識って私の考えてた以上に抽象概念が多くて…」

 「たしかに目には見えないものだからね、そうかもしれない」

 「意識ってどうして生まれたんだろうね…」

 深い問いだ。このあいだダウンロードした論文には目を通したが、今の私にはとうてい答えられない。イチカは続ける。

 「もしも…意識が見える状態になったら、あるいは意識を相互に共有できる状態になったら、人間はどう進化するんだろう…」

 日向先生の研究している分野に近いのだろうか。

 「相互理解が可能になる?」

 「ううん、私はそう思えないな。意識が共有できたとしても思想、あるいは…こんな表現はしたくないけど、魂がなければ意識はおそらく単なるデータ、もしくは道路標識みたいなものでしかないと思う。OSがないコンピューターみたいなものかな。だからきっと人間はそんなに便利にはなれない」

 「迷子になっちゃうってこと?」

 「簡単に言えばそうだね。どの道をどうやって進めばいいのかわからないまま、ただまっすぐに進んでいくのは危険だと思う。だから人間の進化にはある意味で不確定要素が必要なのかもね」

 「不確定要素…?」

 「仮に完璧に感情をコントロールできる人間がいたとして、私たちはその人をAIと別なものとして認識できるのかな」

 「うーん…難しいかも…」

 「そうだよね。もしそれが人類の理想形であるなら、意識なんてそもそも必要がないってことになるよね。なら、ユートピアは人間が意識をもっていない世界って定義するしかなくなる。あるいはどこまでも意識が溶け合って他人と自分の境界線がない世界。まるでおとぎ話や神話の世界だね。知恵の実を食べなければユートピアにいられたのに…」

 「そそのかしたのは蛇だけど」

 「意識がないんじゃハートもピュアなんだろうね…それにしても教授にはまいっちゃうな。こんなに資料の数が多いと精査に時間がかかってしかたないよ。」

 「それだけ解明されてないことが多いってことでしょ?」

 「どうだろうね…たしかに論文は豊富だけど、多ければ良いってものでもないし…研究者は定期的に論文を発表しなきゃいけないから、研究者が多いだけってことも考えられるかな」

 「なるほど…裾野が広いってことなのかな」

 「それもありそうだね。こういう研究をもとにした胡散臭い心理学の本とかも過去にはたくさん出版されてたみたいだし」

 「後学のために読んでみたいけど」

 「アーカイブにも残らないような情報ってことは価値がないと判断されたんだろうね」

 「それは残念…」

 「出版社の都合や流行り廃りもあるからね。ベストセラーの本が必ずしも素晴らしいとは限らないから」

 「後世評価された作家もいるしね。ちょうど聴講してきたとこ」

 「そう考えると古典なんかはまさにそれだね。現代のほうが確実に読者が多い。でもこの社会では異端者は排斥される。新しい思想なんて人びとは求めてないってことかもね。社会の求めてる形にチューニングしないと芸術も文学も評価されない。もちろん研究もね。窮屈で退屈な世界」

 「イチカは自由でありたいの?」

 「うーん…型は大事だと思うよ。ただ、安直なテンプレートに沿って表現されたものに価値は感じないかな。それはただの最適者生存でしかないし、壊せるものは壊してみたくなるじゃない…?」

 「壊す…か…」

 「物理的な破壊衝動や欲求はないけど、既存の概念というゆりかごに揺られたままじゃいつか人間の進化は止まってしまうと思うの。最適者生存は安定するんだけど、不確定なことが適度に起こらなければ新陳代謝は起こらない。特に過度にゾーニングされたこの社会じゃ他人との価値観が違いすぎて隣人と手を取り合うことなんて、とうてい無理だろうね」

 「個人間の意識の分離が大きすぎるってこと…?」

 「分離というより個人の持つ意識のウエイトが大きすぎて他人の意識を受け入れる余裕がないの。他人の意識ってデータとして捉えるとすごく重いから、そもそも人間のキャパシティを超えてるんだね」

 「でも進化のためには意識の共有だったり、そういうものが必要なんじゃないの?すくなくとも今の話を聞いてる感じだとそのくらいの衝撃がないと革新は起きないように思えるんだけど」

 「そう、そこが問題なんだ。意識を同時に共有する場所がやっぱりリアルの空間では構築できないの。ネット上に置くと無限に拡大して、あるいは広大な空間の中で個を喪失して、個体としての意識を保てなくなる…というのが今のところの私の仮説。これを解決するためには…」

 イチカは言葉を濁した。おそらくなにか危険をともなう実験が必要なのだろう。イチカが言葉につまるってことはそうとうだな、と私は直感する。

 「今日はこれくらいでいいかな。期日までは時間あるし。リコちゃん、カフェに行こうよ!」

 「まあいいけど…あなた講義は?」

 「私は今日はもう終わってるの。いくつか単位を免除してくれる代わりに教授のお手伝いしてるから」

 「そういうところしたたかだよね…私はもうひとつあるから、待っててもらえる?」

 「うん。それじゃ図書館にいるね」

 「わかった。終わったらそっちに行くから」

 「ふふ!」

 「どうしたの?」

 「待ち合わせてカフェに行くなんてなんだかデートみたいでうれしいね!」

 「あのねえ…」

 「いいじゃない。そういう楽しみがあっても」

 かわいいってことは正義だなと痛感する。この子に関しては自覚的なのか無自覚なのかまったく読めないけど。 


 帰宅した私は今日のイチカの話を思い出していた。頭のなかで想像できる範囲を超えている。難しいとかそういうレベルじゃない。抽象概念としてまだ意識というものが私のなかで定義づけられていないからだ。それでも、出来ないなりに頭を使って理論構築を試みる。

 イチカのレポートをもとにするなら、サクラの意識が、あるいはデバイスのなかに閉じ込められている可能性がある。仮にこれを意識がロックされている状態と定義すると、あるふたつの仮説が導かれる。誰かがサクラの意識をハックし、ロックをかけている状態。あるいは、サクラが自主的にその状態にとどまっているか。ただ、どちらにせよ私の専門外の分野だ。こうやって想像することはできても、知識が追いつかない。

 「沼には気をつけろ」

 日向先生の言葉が反芻する。わかってる。大丈夫。私は怪物にはならない。でも、だけど、なにかとてつもなく大事なことを見落としてる気がする。まるで霧の深い森のなかにいるような…



 日が沈むのがはやくなった。心なしか、リニアバスの車窓から見える街も、すこしせわしないように感じる。病院は相変わらず無機質で乾いた空気がする。どんよりしているよりもはるかに不気味に感じるのは気のせいだろうか。

 不気味の曲がり角をすぎて、サクラの病室のドアをノックする。ノックなんて今のサクラの状態を考えれば不要なのだが、ついつい期待してしまう自分がいるのだ。サクラの金糸雀のような声が響くのを。

 サクラの呼吸は安定していた。すこし痩せたな、と感じる。それもそのはずで、点滴だけでは充分な栄養補給は困難だ。意識が戻ったらまずはゆっくり食事でもしよう。そうしてから筋肉はリハビリしていけばいい。重度の障害が残るようなものではないと医者が言っていたし、退院はすぐだろう。

 「ねえ、サクラ…”どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう”なんて、ちょっとロマンチックすぎだよね。『銀河鉄道の夜』読んだことある?」

 サクラの前髪がはらりと揺れた。

 「あのお話、素敵なんだけど…ラストはどうしてああなっちゃうんだろうね」

 心電図から無機質で規則正しい音が鳴り続ける。

 「サクラ、私は絶対サクラをひとりにしないよ。だから、私を置いていかないでね…」

 奇跡なんて都合よく起こるはずがない。それでも私は、サクラの意識に届くように、しっかりとサクラの手を握った。サクラはすぐそこにいる。そんな気がしてならなかった。

 デバイスにメッセージ受信のポップアップが表示される。イチカからだ。例のレポートの最終稿が完成したらしい。それと、もう一通。これは後で確認することにしよう。もうすこしだけ、サクラとふたりでいさせてほしい。



 「イチカ、どうしたの急に呼び出して…」

 クレールヒェンはいつも通り常連客がまばらにいたが、夕方ということもあってか、そこまで多いといった感じではなかった。昨夜のイチカのメッセージは会って話したいことがあるといった内容だった。

 「リコちゃん…まだ御篝さんのこと、好き?」

 時間を止める機械のスイッチを押したみたいに、空気が変わった。

 「そうだね…大切な気持ちは変わらない、かな」

 私は慎重に言葉を選ぶ。まるで大きな道の分岐点にいるかのようだ。

 「一年もちゃんとお話しできてないのに…?」

 一年…もうそんなに経つのか。

 「会いに行くことは出来てたから。まあ今サクラがどういう気持ちかはわからないけど…それでも信じてる。私は、ね」

 「もし御篝さんが目覚めて、以前の記憶がなかったとして、それでも気持ちはつながってるって信じられる…?意識はつながれるって信じられる?」

 今日のイチカは様子が変だ。

 「どうしたのイチカ…」

 「答えて…」

 弱々しい声が震えて、しりすぼみしていく。

 「イチカ…」

 「私、リコちゃんが好き…」

 「私もイチカのことは…」

 「違うの…そういう、好きじゃないの…」

 今まで気がつかなかっといえばうそになる。こんな予感はしていた。

 「イチカ…私にはサクラがいて…」

 「わかってる。それでも私はリコちゃんが好き。どうしてもそれだけは言いたかったの。断られることもわかってる。でも、ちゃんと言わなきゃきっと…後悔、するから…」

 言葉のない視線の交錯。カフェで見つめあうふたり。まるで映画のワンシーンみたいだ。

 私は、言葉につまった。


 帰り道は同じルートだ。気まずくないわけがない。でもだからといってなにも言わないでいるのも変にすわりが悪い。

 「ねえイチカ…」

 「うん…」

 イチカはしっかり考えたうえで私に告白してくれたのだ。私もちゃんとそれに向きあわなきゃならない。

 「イチカさえ良ければ…なんだけど…すこし時間くれないかな。ちゃんと考える時間が欲しいの。」

 「本当…? 私のこと…考えてくれるの?」

 「もちろん。サクラのことも大切だけど…イチカのことも大切だから。」

 「ありがとう、リコちゃん…」

 大切なのは本当だ。イチカもサクラも、同じくらい私にとっては大切な存在だ。友達とか恋人とか、そういう表面的な形じゃない。人として、私には必要なのだ。

 「リコちゃん、返事をくれるとき…なんだけど…」

 「ちゃんと考えるから心配しないで。すこし時間はかかるけど」

 「ううん、返事の内容は本当はどっちでもいいの。ただ…その…約束してほしいことがあって…」

 「いいよ。なに?」

 「どっちだったとしても…キス…してほしい…」

 意外な言葉に私は動揺した。

 「その…私…そういうの、したことないから…初めてはリコちゃんがいいの…」

 これは…サクラがなんて言うかな…もしかしたら許してくれるかもしれないけど、後で機嫌とるのに骨が折れそうだ…

 「わかった。でもキスはサクラのお許しがでたらね」

 「可能性がゼロじゃないなら、あきらめなくていいんだ…」

 イチカの表情が明るくなる。

 「とりあえず、返事はするけど…キスは保留」

 「それでもいいよ。私、待ってる」

 「期待しないでよ。まったく…」

 「リコちゃんはやっぱりやさしいんだね…」

 「冗談やめてよ…こんなのサイテーなやつじゃん…」

 クスっと笑ってイチカは言った。

 「サクラちゃんがリコちゃんを好きになった理由、わかるよ」

 晩秋の風に乗ってイチカの白髪がなびく。ブルガリの香りがほのかにまじって、私たちの間を風が抜けていった。



 「この世界は基本的に等価交換だ。”There ain't no such thing as a free lunch.”無料の昼食はないって格言なんだが、なにもしないやつがなにかを得ることはないって意味で使われる言葉だ。『月は無慈悲な夜の女王』ってSF小説に出てくるが、初出はもっと前だと言われている。後のシカゴ学派にも影響を与えた考え方だな」

 日向先生の声はあいかわらずよく通る。演劇でもやっていたのだろうか。

 「正直哲学の講義でこんなもんを扱うのはどうかと思うんだが、経済学の話をしたいんじゃないのはわかってくれよ? 大事なのは等価交換の部分だ。経済学は専門外だからな。と言っても、さすがにこのままじゃ説明するのには不親切だ。よって多少引用をはさもう」

 さすが研究職に就いているだけあって守備範囲が広い。

 「シカゴ学派つながりで『選択の自由』から引用しよう。”二人の人や二つのグループの間で行われる交換が、当事者たちの自発的な意志にもとづくものである限り、その交換によって利益をえることができると、どちらの側も信じているのでなければ、交換が実際に行われることはない”。そして著者のふたりは経済学上の誤りに対してこう続けている。”誰かが利益をえるためには、必ず他の誰かがその犠牲にならなくてはならないと想像してしまう”ことが問題だと指摘した。まあ、要するにお互いに利益があれば経済は勝手に回るんだから、いちいち誰かが干渉する必要はないって言いたいんだろうな」

 なるほど、たしかに合理的だ。

 「だが、みんながみんなそういう風に考えられるわけじゃない。この論理は一見すれば合理的だし機能的だ。しかし人間には感情がある。こういう考えで動き続けられる人間が、はたして世界に何人いるだろうな」

 思考実験に過ぎないってことだろうか。

 「これから流行るもんなんて誰にも予測は出来ん。今はニュースも情報メディアもかなり規制がかかってるから、ある程度は予測、と言うよりも操作、だな。それは出来るかもしれんが、そんなものがはたして普遍性をもつのか? こうやって問いかけていくと、思想や哲学ってのは…あるいは今の時代においては、誰かから操作されたものなのかもしれんな。ただ、普遍的な等価交換の法則として、人間は遅かれ早かれ必ず死ぬ。死に対して等価値なもの、これを何とするかだけは、個人の自由だ。絶対に誰にも侵害されることはない。今日言いたかったのはそれだけだ。あとの話はおまけだ。寝ててもいいぞ」

 あいかわらず変な先生だ。


 講義後、学生たちは散り散りにホールを出ていく。

 「日向先生」

 「おう、浦賀井さんか。どした」

 「今日の講義、面白かったです。特に…死についての話。あれは…」

 「ああ、あれは…俺なりの反抗、だな」

 「反抗…?」

 「浦賀井さんはパンクロックを聴くか?」

 「いえ、あまり音楽には明るくなくて」

 「そうか。パンクロックは反骨精神から生まれたジャンルなんだが、まあ、といっても、もちろん仕掛け人はいたんだがな。それでも当時扇動された若者は多かった。作りものでもニセモノでも、その時代の気分がそういったよりどころを求めていたんだろうな」

 「先生もそのひとりなんですか?」

 「いや、あいにく俺はそういうのは苦手でね。ただ、今になって、社会生活を送るようになって、この社会の向かう先を研究するようになって、危機感を持ったんだ」

 「危機感?」

 「もしもこのまま…そうだな、仮に漂白社会と呼ぼう。そんな社会が完成してしまったら、俺たちはまだいいが…君たちのような世代に十字架を背負わせてしまうことになる」

 「先生はなにを見たんですか…」

 「すまん、ちょっと気が入りすぎちまった。さっきも話したが流行りが予測できなかったなら、より良い社会なんてもってのほかだ。誰にもわからん。それを作るのは、もしかしたら浦賀井さん、君のような人かもな」

 「いえ、そんな…そういうのはもっと賢い人が…そう、伍條さんみたいな…」

 「伍條…ああ、あの白髪の」

 「ご存じなんですか?」

 「職員全員に通達が来ていてな、なんでも行方がわからんとか…」

 全身の筋肉が硬直した。冷汗が止まらない。

 「い、いつ、ですか!?」

 「昨日の朝方だが…どうした? 知り合いか?」

 「あ、あの…す、すいません…! 失礼します!」

 「あ、う、浦賀井…」

 先生の言葉が耳をすり抜ける。気がついたら私は走り出していた。イチカが行方不明? ありえない。走りながらイチカにメッセージを送る。デバイスに緊急接続を試みたが、エラーコードが表示される。このコードには見覚えがあった。サクラのデバイスにアクセスしたときと同じコード。つまりイチカは…

 私はリニアバスの乗り場へ全速力で向かった。息が切れる。くるしい。やっぱり私は、マラソンランナーには向いていない。



 


 

 

 

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