第3話

 イチカから『やっと研究してたテーマの基礎理論がまとまったの! 近いうちにレポートが提出できそう!』というメッセージが送られてきたのは、ちょうど夏真っ盛りのころだった。イチカは夏休みを利用してレポートの作成にあたるらしい。私は夏休み中に後期の講義に必要な予備知識を蓄えておくつもりだったので、ある意味では都合が良かった。

 それでもすこしだけ寂しさみたいなものを感じている自分がいる。友達ってこういうときに必要なものなんだなと感じていた。イチカはどう思っているのだろう。あの子も私と同じで周りに誰かがいるような印象はない。人付き合いが苦手なようには見えないが…イチカなりの理由がなにかあるのかもしれない。もちろんこれも想像の範囲でしかないのだけれど。

 


 久しぶりにサクラに会いに行くことにした私は、リニアバスを待っていた。夏休みということもあり、午前中は病院、午後は図書館という予定にした。夏休みでも大学が稼働してくれているのは正直ありがたい。まあ職員のことを考えれば当然と言えば当然のことなのだが、それにしても閑散とした図書館は集中力を維持するのに絶好の環境だ。

 ブザーが鳴ってリニアバスが到着する。前ほど気が重くないのはなぜだろう。友達が出来たからだろうか。サクラにイチカのことを伝えよう。ちょっとだけサクラに似てることは内緒にしておく。サクラは怒ると怖いから。



 「リコちゃん、久しぶりだね」

 山路さんが声をかけてくれる。

 「お久しぶりです」

 「リコちゃん、すこし表情が明るくなったね。なにか良いことでもあった?」

 この人は本当によく人のことを見ている。どうやったらこんなにコミュニケーションが上手になれるのだろう。

 「友達が出来たんです。そのせいかもしれません」

 「そうかあ。リコちゃんは美人さんなんだからもうちょっと社交的になっても良いと思ってたんだよね。だから友達が出来たのはすごく良いことだと思うよ」

 いたずらっ子っぽく山路さんが言う。自分が美人だとは一ミリも思ったことはないが、この人はうそを言わない。本心でそう思ってくれていたのだろう。

 「ありがとうございます…」

 「うんうん、サクラちゃんもうれしいと思うよ。暗い表情のリコちゃんは見たくないだろうから」

 「そうですね…そう、思います」

 「うん。じゃ早く顔見せてあげて。きっとサクラちゃんも喜ぶよ」

 「はい」

 じゃあね、と言って山路さんは仕事に戻っていく。大人とはかくあるべき、といった人だ。本当に。


 サクラはいつも通り機械音の中でゆっくりと呼吸をしていた。見ている限りではただ眠っているようにしか見えない。サクラは寝起きが悪い。たぶん目を覚ましたら「あと五分…」なんて言うんだろうな。私の部屋に泊まりに来たときもそんなことを言ってたっけ。



 「サクラ、朝食出来たよ。サクラ…」

 「うん…リコ…もうすこし寝かせて…」

 「もう…私より早く寝てたじゃない」

 「私朝苦手なの…」

 「講義遅れちゃうよ。寝ぐせもなおさなきゃいけないのに」

 「リコってお母さんみたいだね…」

 「サクラのお母さんはこんな感じだったの?」

 「ううん、お母さんは…私がアンダースクールのときに病気になっちゃって…」

 「…そうだったの…ごめん」

 「いいの、もう過ぎたことだから」

 「サクラのお母さんならきっと素敵な人だったんだろうね…」

 「うん、とってもやさしかった。だから私お母さんが憧れなんだ。いつかああいう人になりたくて…」

 よいしょ、とサクラがベッドから起き上がりなんとか覚醒しようとしていた。

 「朝からしんみりさせちゃってごめんね。ご飯食べてもいい?」

 「うん、もちろん。コーヒーでよかった?」

 「うん。ありがとう、リコ」

 サクラの朝食はいつもスクランブルエッグとシリアルだ。簡単でバランスが良いとサクラは言っていたが、さほど食べるわけではない。小食というほどではないが、この程度の量であれだけ脳を活動させているのだから、スイーツが好きなのも納得がいく。

 あまり家庭事情を聞くのも野暮なので深く聞いたことはないが、割と放任主義な家庭らしい。父親は外資系企業勤務で年中海外出張で家にいないことがほとんどなのだそうだ。そんな家庭だからこそ、母親の存在は大きかったに違いない。それでも気丈にふるまうサクラ。ときおり見せる寂しげな表情の裏にはそんな背景もあるのだろう。今ならそんな風に思える。母親の代わりにはなれないが、そんなサクラを支えられるようになりたいと考え出したのは、サクラと付き合うようになってからだった。


 

 「サクラ、私友達が出来たんだよ。イチカっていうの。今度紹介するね。きっとサクラなら仲良くなれると思うな」

 規則正しく呼吸を繰り返すサクラに話しかける。

 「すごく頭の切れる子でね、私よりずっと知識もあって…」

 サクラとふたりだけの時間。不規則に揺れるカーテンとサクラの呼吸のコントラストが、私の気持ち落ち着かなくさせた。



 夏がどうしても好きになれない理由はこの日差しのせいだろう。温暖化が進んでいるとはいえ、それにしても異常な暑さだ。たった百メートル進むにしても汗がつぎつぎとあふれてくる。この程度で音を上げている私は、マラソンランナーには向いてないと思う。それはもとより、本日も頭脳労働、である。

 夏休みに図書館に通うような強者はだいたい見慣れた顔だ。お互いに顔は知っていても挨拶はしない。そんな野暮ったいことはしなくていい。他人と仲良くなろうと思っている人間は夏休みに図書館なんてクローズドな空間には来ない。まあもちろん例外はいる。右端の特等席。イチカだ。

 今日はずいぶんと難しい顔をしている。それでも端正な顔面の造形は崩れることなく、あいかわらずひと際目立っている。

 声をかけるのもはばかられるので、とりあえず私は私の目的の本を探す。

 204…255…261、ひと通り資料をそろえた後、フロアへ向かう。夏休みは講義がないので自由に研究することができるのが利点だ。講義が興味深いものであればそこまで苦行にはならないが、単位を取るために得る知識と、単位を度外視して得られる知識にはちょっとした違いがある。純粋な好奇心で習得していく知識は実学とは程遠いが、私はそういう役に立たない知識こそ教養だと信じている。といっても私は教養主義者ではない。ただ気になったことは徹底して調べないと気が済まない質なのだ。我ながら自分自身が面倒な人間であることを痛感する。もっと気楽に生きてみたいとは思うが、他にどう生きたら良いのかどうもピンとこない。

 もしかしたらイチカも同類なのかもしれない。専門外のレポートを夏休みのうちに完成させようというのだから、ある種異質だ。博識なだけではなく、イチカ独特の感性に従っているのだろう。それは良くも悪くもイチカという人間の情念であり、また、それが後世評価されることだろう。イチカの完成させようとしているレポートにはとても興味があった。出来れば私にもデータでいいので送ってほしい。

 

 午後五時。

 「リコちゃん…」

 疲れ果てた顔をしたイチカが立っていた。

 「お疲れ様、イチカ。大丈夫?」

 「…糖分が足りない」

 「ぐったりだね。帰りなにか食べてく?」

 「うん…」

 こんなに消耗しているイチカは初めて見た。レポートの内容が濃いのだろう。資料の数はあんまり想像したくない。

 「それじゃ近場のお店で夕食にしようか…」

 「そうしよ…あんまり動きたくない…」

 ちょっと苦笑いしてしまうほどイチカは疲れているようだった。私が感じていた心配は杞憂だったと、少し安心した自分がいた。


 大学の近辺にはちょっとしたレストランやカフェが点在する。スーパーマーケットなどもあり、帰りがけの学生にはやさしい作りになっていた。裏通りには居酒屋やバーなどもあり、教授たちも時間があるときは利用しているらしい。

 「イチカ、大丈夫?」

 「うん…着いた?」

 「着いたよ。とりあえず入ろ」

 「うん…ああ、ここ来たことないや…」

 「そうなの? 大学からいちばん近いレストランなのに?」

 「うるさそうだったから…でもそうでもないね」

 「夏休みだからね、さすがに学生はいないよ」

 「それもそうか…」

 ふむ、と合点してイチカはうなずく。どうやら細かい思考能力がすっ飛んでいるらしい。とりあえず席について食事を注文する。私はペスカトーレを、イチカはアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノだ。

 「やっぱり食事はシンプルに限るね」

 回復してきたイチカが持論を展開する。

 「シンプル…たしかにオイルパスタはシンプルなものが多いけど…」

 「食事は楽しみたいけど、ひらめきを得るためには自分に合った食事が必要だと思うの。」

 「イチカらしいね。私はあんまり考えたことないな」

 「人間を形作るのは食事だからね。豊かな食生活はとても大事」

 「でもシンプルなものが好きなんだね…」

 「おいしいものはいつだってシンプル。美しい論理もいつだってシンプル」

 妙に納得してしまう言葉の強さだ。イチカの言葉にはたしかにそうだと思わせるなにかがある。

 「最も美しい数式、オイラーの式もとってもシンプル。優れた芸術家も後期作品はシンプルになっていく傾向がある。私たちはそれに憧れて、混沌の中へ足を踏み入れる。まるで冒険者のようにね」

 「イチカは本当に勉強熱心だね」

 「最後のは修辞的すぎるかもしれないけど、でも論理がシンプルであればあるほど、その奥には深い沼があるみたいな感じなの」

 「深い沼…」

 「そう、簡単に私たちを惑わせることができる沼。気を付けて進まないと、早とちりして間違った結論に到達してしまう」

 「たしかにそうだね。沼と気づかずに進んでしまうことって、あるからね」

 「やっぱりリコちゃんは賢い人だね。冷静で、自分を見失わない」

 「私はそんなに賢くなんかないよ。サクラやイチカに比べれば…」

 「比較には意味がないよ。リコちゃんにしか到達できない答えが必ずある。ひとりだと難しいかもしれないけど、リコちゃんはそこにたどり着こうとする意志がある」

 「そう…なのかな…」

 「大丈夫だよ。リコちゃんの意志はそこに向いている。向いている限り可能性はゼロじゃない」

 「イチカ…」

 すっかり空になった皿を眺めてイチカは言った。

 「ジェラートも頼んでいいかな…」

 拍子の抜けたイチカのセリフに、思わず私は笑っていた。



 天気予報では曇りのはずだったが、あいにく今日は大学に着いた途端雨が降り出していた。ちょうど正門に着いたところだったから濡れなかったのは不幸中の幸いだけど、傘を持ってきていないので、帰りはどうしようかとすこし心配になる。とりあえずいったんカフェテリアで落ち着こう。室内は冷房が効いていて冷えるので、たまにはホットのカフェラテにする。カフェテリアの設備は全自動で味も文句はないのだが、はやくロイヤルミルクティーを実装してほしい。私としては死活問題だ。

 夏休み中なのでデザート含む食事類は提供されないのだが、何人かは読書をしたりデバイスで作業をしている学生もいた。おそらく作業をしているのは卒業を控えた人たちだろう。卒論は準備に時間がかかると聞いている。進学を目指す学生にとっては絶好のアピールチャンスにもなるだろうし、評価は就職活動にも有利に働く。もちろん卒論がない学科もあるのだが、うちの大学では稀だ。いまだにそういう学科が人気なのは理解するが、シグナリング理論の観点から言って、課外活動が多いほうが大変なんじゃないかと思うのは私だけだろうか。

 

 今日は図書館にイチカはいないようだった。そういえば以前「低気圧は私の天敵…」とか言っていたっけ。雨そのものは好きらしいがどうも調子が出ないらしい。あの才媛にも意外な弱点があるものだ。とはいえ、私も遊んでいるわけにはいかない。憶測にすぎないとしても、はやいところサクラをハックした人間がいるという可能性にたどり着きたい。そのためにはまずMIND-Glassの脆弱性を突き止める必要があった。

 私はある仮説を立てていた。常に防壁マスクによって守られているデバイスが、そのガードを瞬間的にでもゆるめてしまう危険性。アクセスキーを読み取っている瞬間や、外部サーバーへのアクセスの瞬間。あくまで仮説だが、もしそのタイミングでのデバイス干渉が可能なら、ハッカーはその一瞬を知っていたことになる。疑いたくはないが、サクラに近しい人物ならあるいはそれが可能なのではないかと私は考えていた。サクラには取り巻きがそれなりにいた。その中のだれか…そう考えたとき、もっともサクラに近かったのは私なのだということも並立する。

 ここで毎回つまづく。サクラが学内サーバーにアクセスしてモグリで講義を受けていたことを知っているのも、メッセージのアクセスキーを持っているのも、一番近い位置でデバイスを起動させていたのも私なのだ。私にはこの事実関係がなにを意味しているのかわからなかった。念のため関連書籍には目を通してはいるが、デバイスのログは一番ガードが堅い情報だ。サクラとのやりとりが閲覧される可能性は極めて低い。…極めて低い? もし可能性がゼロじゃないとすれば…

 その瞬間学内の電源が落ちた。すぐに非常用電源に切り替わったが、設備確認のため学生はいったん外に出るようにとアナウンスがされた。カーテンセンサーが動いていないのは初めて見る。なにか不吉な予感がして、いつの間にか早足になっていた。


 地下一階から上がると、そこには学内ナレッジセンターがある。モニターディスプレイがずらりと並んでいて、デバイスを同期することでネットの各種情報に触れることができる。主に使用するのは学生で、教授たちは研究室にある専用ディスプレイを使うのが原則となっていた。

 学生たちが順次屋外に出ていくなか、ひとり自販機で缶コーヒーを買っている人がいた。なんて優雅な…と思ったが、私はその顔に見覚えがあった。日向教授だ。

 「日向教授、こんなところでなにを…はやく外へ…」

 「おお…あ、浦賀井さん…だったな。とりあえず少し休ませてくれ。徹夜明けなんだ」

 「そんな呑気な…」

 「まあ堅いこと言うなって…ほれ。まあ立ち話もなんだ、座ろうぜ」

 そう言って教授は缶コーヒーを私に手渡した。私たちはフロアのベンチに腰掛ける。

 「教授、あの…」

 「教授はよしてくれ。俺は非常勤なんだ」

 「…では先生、こんなところでなにを…」

 「まああれだ、俺はここにラボを持ってないんでな。たまにこのセンターを使わせてもらってるんだ。MIND-Glassも便利なんだが、込み入った作業のときは昔ながらのディスプレイのほうが落ち着くんでね。あー、といってもディスプレイもかなり近代化しちまって使い方を覚えるのに苦労したよ」

 「先生の専門は哲学では? なんの用でこんなモニターディスプレイを?」

 「君はいつも良い質問をするな。人に言葉を選ばせる」

 「そんな…失礼しました。」

 「いや、いいんだ…ふむ、学者に向いてるかもしれんな。成績も良いし、進学を勧めるよ。まあ学者なんてろくなもんじゃないがね」

 先生は笑いながら言って、煙草に火をつけた。

 「先生…屋内禁煙です」

 「まあそう堅いこと言うなって…真面目だな、君は。携帯灰皿なら持ってる。それにこの状況だ、野暮なことは言いっこなしにしてくれ。だが規律を重んじるのは良いことだ。反面融通が利かないという言われ方もするがね」

 「融通が利かない…」

 「あんまり気にしないでくれ。そういうことを言うやつもいるってだけだ。俺は規律は守られるべきだと思っている。ただ時と場合によっては規律以上に大事なこともあるって話だ」

 「なんだか講義で聴いたような…」

 「そうだったかもな、あんまり覚えてねえや」

 先生は笑いながら紫煙を吐き出す。

 「君のレポート、非常に出来が良かった。なんというか、視点が他の学生とはすこし違う」

 「ありがとうございます…ですが、視点が違う、とは?」

 「そうだな…哲学は基本的に抽象的に見えるものだ。形而上の存在に思いをはせた哲学者もいれば、屁理屈みたいなことばっかり並べる哲学者もいる。けど君のレポートはなんというか、一本筋が通っていた。なにか信念のようなもの、あるいは情念でもいいが、とにかくそういうものを感じる」

 私の、情念。

 「俺は今友人が設立したシンクタンクの手伝いをしてるんだが、そう、それでこのセンターを使って作業をしていたんだ。俺の研究対象はMIND-Glassの将来的な理想の運用形態についてだ。俺のチームには数学者や社会工学の連中もいてな。俺はどちらかというと倫理的な問題がないかを指摘する側なんだが…どうにも人間が進化する過程で倫理観がどうなるか予想できん」

 「先生でさえ悩むんですね…」

 「悩むか…それはいいな。俺も人間なんだってことを実感するよ。こんなのは神様にでも聞いてくれって気持ちにはなる。もちろん神様なんているかどうか観測できないものにすがるのはダメだってのが、まあ学者の意地ってやつかもな」

 「そうですね。行動しなければ人間は前に進めないですものね」

 「ははは、君はきっといい学者になれる。”実存は本質に先立つ”あるいは”主体性から出発せねばならぬ”。サルトルからの引用だ」

 「実存、でしたか」

 「そうだ。もっとも、サルトルは無神論だったからこそこの言葉があるんだが、それゆえに有神論者のいう実存とは根底が違う。神様が人間を作って、そこから発生する実存の場合は本質が実存に先立つ。用途があって人間は存在しているって考え方だな。これが有神論。翻って無神論は”人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるもの”。これが実存が本質に先立つ場合だ。神様なんていないって言いたいわけだ」

 「ずいぶんと宗教的ですね」

 「そうだな。実存は西洋哲学だが、東洋哲学でも神様の存在は大きく扱われることがある。どうしても哲学と神学は切り離せないんだろうな」

 「神様の存在は概念的なのに、人間はどうして信じるんでしょう?」

 「”われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか”」

 「それは…?」

 「リラダンの『未来のイブ』からの引用だ。興味があったら今度読んでみるといい。古いSFだが、内容は濃い」

 「わかりました、読んでみます」

 「そういう素直なところも良いが、影響を受けやすいとも言える。自分の精神状態はちゃんと管理したほうが良い。さもないと…」

 「怪物になってしまいますか?」

 先生はすこし目線を下げてからつぶやいた。

 「…そうだな。沼には気をつけろ。さて、雨も上がったみたいだし今日はとりあえず帰ったほうが良い。停電もこの感じだと局所的なものだろう。じゃあまたな。」

 「先生、お話楽しかったです。また是非」

 「今度は徹夜明けじゃないときにしてくれ」

 先生は笑って職員棟のほうへ歩いて行った。沼、か。イチカも同じことを言っていたな。例えばイチカは、沼と折り合いがつけられているのだろうか。


 

 自分の部屋だというのにどこか居心地が悪いような気がする。沼が迫ってきているのだろうか。それともすでに片足を突っ込んでいるのか。いずれにせよ、いまの私に出来ることがそんなにあるわけじゃないことはたしかだ。問題は近づいている真相に対してどう対処するか。仮説をもとにサクラの交友関係をしらみつぶしにあたるか? いや、それは現実的じゃない。調べていくうちに恣意的なものを強く感じるようになった。そもそも狙いがサクラなのだとしたら、もっとはやい段階で尻尾がつかめているはずだ。なぜならその場合サクラの病室に必ず手掛かりがあるからだ。

 「まさか、狙われているのは私…?」

 嫌な考えが頭をよぎった。もしも次にサクラに会いに行ったとき、ハッカーが病室になにかを残していくとしたら。狙いが私なら私に気づかれるようななにかを残すはずだ。もしも仮に私にハッキングを仕掛けようとしているのなら、なにか特定の条件下で仕掛けてくるはず。もちろん確証はない。だが、サクラがハッキングされたであろうタイミングはサクラの防壁マスクに隙が出来た瞬間のはずだ。だけどそんなことを狙って出来るものなのか? そんなコンマ以下のタイミングでデバイスにアクセス出来るとしたら人間業じゃない。原理さえわかれば…私は自分の無能さを呪った。サクラやイチカならこの原理を見抜けるかもしれないけど、私にはとてもじゃないけど歯が立たない。最後のピースはきっと沼の底にある。私は怪物になってはいけない。でも怪物にならなきゃサクラを取り戻せない。私は…



 「リコはやさしいから、自分のことを忘れちゃうんだね」

 「どうしたの、急に…」

 「ううん、リコはね、もうすこし自分を大事にしてあげたほうがいいよ」

 「そういわれても…自分じゃあんまりわかんないな…」

 ふふっとサクラは笑う。

 「リコのそういうところとっても好き。不器用で、真面目で、でも頼りないわけじゃなくて、ちゃんと自分があって。だからこそ自分の気持ちをもっと相手に伝えてもいいと思うの」

 「伝わってないかな…」

 「私だけに伝えてくれるのはうれしいけど、世界は広いんだからこれから色々な人と出会っていったとき、ちゃんと自分のことを伝えられるようにしておかなくちゃね」

 「…そう、だね。社会に出なきゃいけないんだもんね」

 「そう。リコは優秀なんだから、就職したらきっとすぐ昇進しちゃうよ。そのとき困らないように練習しなきゃ」

 「サクラのほうが成績良いじゃない」

 「学校の成績なんかで人の価値は決められないよ。リコはとっても優秀。私が保証する」

 「サクラ…」

 「大丈夫。リコならなんだって出来るよ。だから心配しないで…」



 ガクッと頭が揺れて目が覚めた。どうやらうたた寝をしていたらしい。ちょっと疲れていたみたいだ。それにしても久しぶりにサクラの夢を見た気がする。デバイスの時計は深夜、午前二時を表示していた。明日は午後までゆっくりしよう。すっかり冷めたミルクティーを飲み干して、シャワールームに向かった。



 イチカからメッセージが届いたのはちょうど正午になろうかというときだった。例のレポートの概要を送ってくれた。まだ書きかけとのことだが、製作途中にしてはクオリティが高すぎる。専門用語に関しては検索して調べる必要があるが、それにしてもさすがのひと言だ。学部を飛び級して院試を受けても良いんじゃないだろうか。興味深い内容だった。AIの学習がMIND-Glassにある指向性を与えるのではないかという考察だ。MIND-Glassが人間の神経組織とつながっているからこそ起こり得るデバイスそのものの自立可能性。デバイスが意識を持つとしたら、もはや人間の意識はどこにあるのかわからなくなってくる。おそろしい問題提起だ。もちろん学生の一考察に過ぎないのだが、だとしてもこの論理の整然さには驚かされる。イチカにはかなわないなと改めて思った。


 午後二時。私はナレッジセンターにいた。閲覧規制がかかっているとはいえ、アクセスできる情報の範囲が広がるのは助かる。ナレッジセンター内のディスプレイと同期すれば自分のデバイスの処理速度も上がってくれるので一石二鳥だ。今日は海外の科学誌に載っている研究記事をあさるつもりだった。ハッキングを検索ワードに設定して、片っ端から記事を探していくという地味な作業だ。やはりどれも似たような内容だが、いくつかそれらしき記事があった。

 意識が生まれる原理…ハッキングとなにか関係があるのだろうか。これはいったんデバイスにダウンロードしよう。後でじっくり読んでみたい。他は目立って気になる記事がないな。日向先生は…いないらしい。私も目的のものは見つけたし、今日のところは帰るとしよう。

 正門に向かう途中、ひんやりとした風がふいた。その風にはほのかにブルガリの香りが混じっていた。

 


 

 

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