第2話
やわらかいピアノの音が鳴る。ショパン 『Prelude Op.28 No.15』。私の目覚まし。デバイスのプリセットは味気ないのでサクラに選んでもらった。サクラはピアノが弾けるから、お気に入りの曲にしてくれとお願いした。私は音楽にそれほど明るくないが、サクラのおかげで以前よりは聴くようになった。
ベッドから身を起こしてミルクティーを淹れる。朝食はとらないので砂糖はたっぷりだ。糖分が不足すると頭が回らない。つくづく人間は不便だと思う。いちいち食物を経口摂取しなければならないからだ。しかも健康を保つためにはバランス良く栄養摂取する必要がある。そんなことを考えながら生きていたら食事を楽しめなくなりそうで恐ろしい。まあそれでも工夫しながら健康を保つ人もいるのだろう。そういう人たちには頭が上がらないな、と思った。私も相当雑に生きているなと、多少自省はしている。多少、ね。
昨夜も調べもので遅くなってしまったせいかちょっと寝不足気味だ。お肌に悪いだのなんだの言われそうだが、そんなことよりも大事なことがある。以前から何度か試しているサクラのMIND-Glassへのアクセス。デバイスそのものが生体認証式なので現状サクラのデバイスはスタンドアローンになっている。というのも、デバイス側はサクラが眠っていると判断しているため、長時間操作がなされていないとみなしセーフティが作動しているのだ。セーフティを解除する方法はいくつかあるが、無理矢理解除するとなるとサクラの脳に相当の負荷がかかる。脳の状態によってデバイスが動作するというのがメーカーから公表されている仕様だからだ。
アクセスの際セーフティモードの通知が返ってくることから、デバイスの電源が落ちていないことはわかっていた。本来長時間放置していればデバイスの電源は落ちる。電源が落ちていないということはサクラの生体反応をデバイスが検知して都度充電しているからだ。MIND-Glassは視神経と接続し、神経を伝って基礎代謝の一部エネルギーを電源として扱う生体素子を使っている。つまりMIND-Glassにアクセスできないということはそのデバイス保持者の脳死を意味する。こういった事象もあり得るので、サクラのデバイスに無理矢理侵入するのは危険なのだ。
サクラは今きっと夢を見ているんじゃないか、なんていうのはロマンチックが過ぎるな。出来るなら私はブラックボックスに触れたくない。それと、最近サクラの夢を見なくなった。それは良いことなのか悪いことなのか。
「全能者は自分でも持上げられない重い石を創造できるか?有名な論理的矛盾だな。全能者のパラドクスってやつだ」
日向教授の良く通る声が響く。今日は哲学概論からスタートだ。
「石が作れても、あるいは作れなかったとしても、どちらにしても矛盾が生じてしまう。こういう論理的な視点は哲学を学ぶ上でとても大事になってくる」
論理的思考、ってやつだろうか。
「例えばライプニッツなんかは数学者でもあり哲学者でもあった。数学は矛盾を許してくれないから俺は苦手なんだが、ライプニッツの定理は…今ならおそらくミドルスクールあたりで触れているはずだ。まあちょっと話は逸れたが、俺の講義はゆるいからってことで許してくれ」
私は日向教授のこういう話があっちこっちに飛んでいくところが好きだ。どの話にも含蓄がある。彼の元々の知的好奇心なのか、それとも哲学という学問がそうさせてしまうのか。どっちにしても講義内容は面白い。
「あー…実存の話だったな。そう、実存とはざっくり言うと人によって異なる意味を持つ。ハイデガーとサルトルが言う実存が違うように…まあ難しく考えなくていい。要は主体をどこに規定するか、程度の話だ」
充分に難しい内容だと思うのだが、哲学者の思考回路はいったいどうなっているんだ。どういう思考過程を経て言語化しているのだろう。
「”実存主義”まで行っちゃうと政治思想なんかにも接近してしまう可能性があるから扱いには気をつけろよ。こんな世の中だ、そんな考え方をしてしまっちゃさぞかし生きにくいだろう…さて、今日はここまでかな。来週は映画でも観るか」
学生がどよめく。私も面食らった。哲学者の考えることはよくわからない。
カーテンセンサーを抜けて図書館のフロアへ向かう。フロアの一角、右端の席に彼女はいた。けだるそうに本を読んでいるが、相変わらず外見は一流の職人が作った人形のようだ。パッとこちらに気づき近づいてくる。
「こんにちは、浦賀井さん」
「伍條さん、こんにちは…」
「講義は終わった?」
「うん、さっき終わったところ」
「大丈夫? 疲れてない?」
「平気。ちょっと寝不足だけど」
「夜更かしはお肌に悪いよ?」
ここでそれを言われたか…
「それじゃ行こっか!」
グッと私の手を引っ張って、彼女が先導する。これってデートに入るのかな…後でサクラに謝ろう。多分許してくれるだろうけど、おっとりしてるようで意外とヤキモチ焼くから。
繁華街を抜けたところ、閑静な住宅街との境界線にカフェ・クレールヒェンはあった。ひっそりと人目を避けるようにわざわざ駅から離れた位置にあり、とても立地が良いとは思えないが、それでも常連らしい客は何人かいた。伍條さんは繁華街のチェーン店よりもこういう趣のある店が好きらしい。店に向かう道すがら「チェーン店も行くんだけど、客層の問題。読書に集中したいときはこういうお店のほうが向いてるんだよね。」と言っていた。私はコーヒー党ではないので味の違いはわからないが、ここのコーヒーは美味しいらしい。
「ごめんね、歩かせちゃって」
「平気。繁華街は苦手だから助かるよ」
「ならよかった!」
伍條さんはブレンドを、私はブレンドティーをそれぞれ注文する。
「ねえ、浦賀井さん…」
「リコでいいよ。あとこれ、アクセスキー」
私はバーコードタグを手渡す。デバイス経由でアクセスキーを教えることも可能なのだが、一応屋外では防犯上バーコードタグでアクセスキーを手渡すのが不文律になっている。もちろん気にしない人も一定数いると思うけど。
「ありがとうリコちゃん! それじゃ今夜メッセージ送るね!」
これも配慮のひとつだ。デバイスでバーコードを読み取っているところの後ろからアクセスキーを盗み見されないように、という不文律。実際にそういう場面はほとんどないのだが、一種のマナーというやつだ。
「それで伍條さん、私と友達になりたいっていうのは…」
「私のこともイチカって呼んで?」
「…わかった。イチカ…」
「よし! これで今日の私の目的はほぼ達成」
イチカ…この子も哲学者に負けず劣らず変わってるな…理系の思考はまた性質が違うだろうけど。
「…それで、話っていうのはそれだけ?」
「まさか! リコちゃんに聞きたかったのはあの研究内容。ほら、例の」
「ああ、サクラとの…」
「そう、最新の翻訳ではあの箇所が訂正されてたよね?どうやって問題を見つけたの?」
なんと言っていいかわからなかった。サクラの感覚を話しても伝わるとは考えにくいし、なにより表現が淡いなんて抽象的な言葉をどう説明すればいいのかさっぱりだ。
「もしかして御篝さんがピンポイントで指摘したの?」
私の期待は確信に変わりつつあった。
「そう、サクラが。サクラは言葉には濃淡、つまり色彩があるって言ってた」
「なるほど…色彩…抽象的だけど面白い着眼点だね」
「私にはちょっとわからない感覚だけど」
「リコちゃんは共感覚って知ってる?」
「共感覚…」
「脳との関連性があるといわれてるんだけど、はっきりとした理論体系があるわけじゃない。例えばそのティーカップに触れたとき、色彩が感じられるって感じ。本来は成長過程で失われていくものなんだけど、稀に脳がその結合部分を保持したまま成長してしまうことがあるの」
なるほど。もしそうだとしたらサクラのあの不思議な表現にも納得がいく。
「イチカはそういう感覚ある…?」
「うーん、あくまで主観的なものだと言われてるからね。もし仮に私がクオリアとして感じていてもそれを言葉で表現するのは難しいかも」
主観か。それにしてもずいぶん脳科学的な話だ。
「イチカは理学部…だよね?」
「そう。数学科だけどね」
「理学部ではそういう講義もあるの?」
「私は本で読んだだけ。院まで進むつもりだから、ほとんど専門教科しか取ってないかな」
「将来を見てるんだね」
「といっても数学者になりたいわけじゃなくて、数学から発生した学問に興味があるの」
「統計とか経済?」
「それも面白そうだけど、本命は工学関係。特に遺伝子工学に興味があって、院はそっち方面に行くつもり」
「私には遠い世界…」
「そんなことないよ、理論さえわかれば研究なんて方法は同じだから」
この子も相当頭が切れるな。このタイミングなら切り出してもいいだろう。
「イチカ、私から質問があるんだけど。」
「なに? 私でわかる範囲だと助かるんだけどね…」
おそらくこの子ならわかる。間違いない。
「マインドハックって知ってる…?」
「ああ、ネットでうわさになってるあれ?」
「そう。どう思う?」
せめてヒントだけでも知りたかった。藁にもすがる思いだが、もちろんこの子は藁なんてシロモノじゃない。
「そうだね…」
イチカはすこし考えこんでいるようだった。
「ネットに落ちてる情報は間違いなくガセ。ただし…」
すこし緊張している自分がいた。
「ただし、そういう臨床実験はMIND-Glass開発の際に行っているはず。確証は持てないけど。問題はメーカーが絶対にそんなデータを開示するはずがないところかな」
「そう…」
「”不安は或る共感的な反感であり、そうして、或る反感的な共感である”」
「それは…?」
「キェルケゴール。不安にはたくさんの種類があるの。今のリコちゃんが抱えているのはどんな不安?」
不安。そう言われて私は自分が不安になっていたことに気づく。いや、むしろ焦燥感に近い。そうか、私は焦っていたのだ。事態が動かないこの状況に。
「”深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ”」
「…ニーチェ…」
「そう、ネットミームにもなった有名な言葉だね。この言葉の前には怪物と戦うときって前置きがあるの」
「怪物…」
「リコちゃんは怪物になっちゃだめだよ。のめりこみすぎないようにね」
「ありがとう。あなたはやさしい人なんだね」
「どうかな。自分ではそう思ったことはないけど」
友達、か。なるほど。こういうのも悪くないかもしれない。卓上のブレンドティーの香りと、目の前にはお人形さんのような女の子。出来すぎた構図だ。まるでメルヘンの国にでも来たみたいだった。
自室で天井を見上げる。正直お手上げだった。まずもって情報が足りない。マインドハックの可能性は残っているが、それを証明するに値する根拠がない。イチカが言っていたことが本当なら実験データはメーカーのサーバー内にあるはずだが、確たる証拠はない。それに仮にデータがあったとしても、それをクラックできるほどの技術を私は持っていない。怪物にならないで、とイチカは言っていた。気持ちが揺らぐ。サクラのためなら何でもすると誓った意志が揺らいでいる。そう、企業のデータサーバーにクラックを仕掛けるなんて本来なら犯罪だ。私は怪物になろうとしている。人間は合理では動かないというのを今実感している。
人間を突き動かすのは、情念だ。
菖蒲が咲き始めるころになっても、私はいまだ答えを見つけられずにいた。
サクラを助ける。いや、そもそもサクラは助けてなんて言ってない。これは私のエゴだ。イチカの言う通り、私は怪物になろうとしている。それはきっと人の道を踏み外す行為だ。そんなことが果たして許されるのだろうか。
出口のない自問自答を繰り返す毎日。曇天模様。季節は梅雨だ。私の気持ちも晴れることなく、時間だけが過ぎていく。
その後、イチカとはメッセージをやりとりしたり、時間が合えばクレールヒェンでティータイムを過ごしている。イチカは数学と哲学は本質的に同じものなんじゃないか、という話をしていた。アプローチが違うだけでどちらも真理に到達しようとするベクトルは同じだと。そしてそれは芸術という形で表現されるのだとも。
「リコちゃんは美術館とか行ったりする?」
「いや、私はあんまり…というかほとんど行ったことない」
「そうかあ。それじゃ今度一緒に行こうよ!」
「どうしたの急に…」
「芸術はね、時代や民族性、あるいはプロパガンダだったり、その作品に込められた思想があるの。ときにそれは大衆を扇動し、人々を啓蒙し、行動を起こさせることがある。そうやって民衆は芸術表現に魅了されてきた」
「学内のアーカイブで閲覧可能でしょ? どうしてわざわざ?」
「たしかにデータは膨大にある。でも本と同じ…いや、それ以上にワンオフの芸術作品には価値がある。肉眼で観ることに意味があるの。その当時の芸術家がなにを思い創作したのか、そして人々はそれを観てなにを感じたのか」
なるほど。一理ある。たしかにそういう性質を持った書籍もあるし、作者によっては啓蒙それ自体を目的として書いたものもあるだろう。
「美しい旋律や和音が記された楽譜は美しいだけじゃなく、グロテスクな思想や混沌とした思念が含まれているの。もちろん美しいままのものもあるけど、絵画は特に作者の情念が観えると美しさの質が変わる。全く違って観えるの」
雄弁に語るイチカ。その姿そのものが私には芸術作品に見えた。「気が向いたらね」と空返事をしてしまったのは、イチカと近づきすぎないようにするためだ。この子はサクラに似すぎている。
ピューリタン的教育、というのがアッパースクールまでの基本方針だったように思う。厳格で潔癖。異質と見なされれば即排斥が可能。MIND-Glassはそんな教育方針と相性が良い。要はクラスごとにゾーニングされるのだ。必然、そうなればクラスごとに主体性が形成されていくはずだった。
しかし、現実に起こった現象は大人たちの想像とは違っていた。
個立や自己存在証明を追求して各自の差異に価値を求めれば求めるほど、違う思想を持つ個体または集団を排斥するようになる。つまり、クラスごとの対立構造が出来上がってしまったのだ。
ゾーニングされた各クラスは、主体性があるようでない集団、個を求めるあまり没個性に陥っていく。
私は、それがとても息苦しかった。
サクラにこの話をしたことがある。
「もしも、本当に個別であろうとするために各クラスが差異のない集団になろうとしているのだとしたら?」
「どういうこと…?」
「誰かが指示を出しているわけでもないのに、全員が同じ方向を向き始める。不思議だね」
「”空気”、みたいなものはあったよ。私には気持ちが悪かったけど」
「リコは自分を持ってるからね」
やわらかく笑ってサクラは続けた。
「もしかしたら個人や集団以外に、第三の意思決定の主体が人間にはあるのかもしれないね」
「どういうこと…?」
「それこそリコが言ったみたいな”空気”とか、あるいは信心深い人なら神様っていう風に表現するかも」
「私は人間てもっと合理的なものだと思ってた」
「そうだね、論理と知性で意思が共有出来たら人間は争わなくてよくなるのかもね…人間はすごーく内側にあるものとすごーく遠くにあるものについて考えることができる。それが行動決定の因子だとしたら…」
「サクラ…?」
「ごめん、ちょっと飛躍しすぎだね」
「ううん、サクラはなにか思うところがあるの?」
「そうだね…例えば、私たち人間が存在する以前には存在していなかったものってなんだろうね」
「デバイスもそうだし、日用品も含めたら相当あるかな」
「そうだね。でもいちばん大きいのはきっとネットの存在」
「ネットが人間の行動決定に大きな影響を及ぼしているってこと?」
「確実にそうとは言い切れないけど、例えばAIやクラス分けによるゾーニングが、あるいは人間の意思とは乖離した無意識を全体の総意としてゆるやかに形成しているとしたら…」
「それは…肉体と精神は不可分じゃないってこと?」
「わからない。でも人間の行動決定の際に第三の主体が関わっている可能性は今のところ否定できないかな」
「すごく内側かすごく遠くにあるもの…」
「リコが言うように”空気”かもしれないし、あるいは遺伝子レベルの話かもしれないね。でもね、リコ?これ以上はのめりこんじゃだめだよ。”深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ”って言葉は忘れないでね」
「誰の言葉…?」
「ニーチェ。私は思うの。もしも誰かとおなじ感覚や感情を持ったとしても、きっとその人にはなれないって。だからリコはそのままのリコでいてね…」
サクラの言葉は誰の言葉よりもやさしかった。
「リコ、忘れないでね? 私はいつもリコのそばにいるから…」
すこし寂しそうなサクラの横顔が、目に焼き付いて離れなかった。
ピコンと音がして、イチカからメッセージが届く。時刻はちょうど深夜一時になったところだ。夜更かしはお肌に悪いと言っていたのは誰だったか…
『明日時間ある? よかったらお茶しない?』
明日は休みだから特に予定はない。最近ちょっと調べものに根を詰めすぎていたし、気晴らしにちょうど良いかもしれない。『午後二時にクレールヒェンで』と返事をして、メッセージアプリを閉じる。友達ってこういう感じなのか。まだ距離感になじめない自分がいる。
「ねえ、数学って楽しい?」
我ながらなんてつたない質問だろうと思う。イチカの思考速度は私のそれよりも遥かに速い。当然、こんな質問を投げかけては失礼だろう。でもイチカはクスっと笑いながら答えてくれる。
「楽しいって感覚はないかなあ。行くところまで行っちゃうと、わからないってことがわかるって感じなの」
わからないことがわかる、というのは私の中にはない表現だ。イチカは続ける。
「証明の研究なんかではよくあるんだけど、現時点でなぜその解が導き出せるのかわからない場合があるの。もし例えるならば…”悪魔の証明”なんていうのは良い例かもね」
「”悪魔の証明”…」
「そう、法律とかでも使われることがあるんだけど…ある結果が生じたとき、変えようのない事象Aを証明するために想像に過ぎない事象Bが併存している場合、事象Aを証明するためには当然事象Bを証明する必要があるのだけれど、事象Bが想像である以上根拠に乏しい。ゆえに事象Aを証明しようとすると事象Bが、事象Bを証明しようとすると事象Aが証明できなくなってしまい、矛盾が生じる。数学は正か偽かしかないから、反証がひとつでも存在した場合それは証明できないことになる。もちろん現時点では、ってエクスキューズが付くんだけど、想像の事象Bが証明できれば…」
「解を導き出せる…」
「そうだね、数式で証明できれば数学としては証明完了。でも例えばミステリー小説なんかで出てくるトリックを現実世界で証明しようとすると、結構な難問かもね」
「論理のほうが抽象的だから?」
「それもあるけど、もし思想犯が個人の意思より集団の意思を優先していた場合、人間の行動原理、つまり動機が個人の情念から遠いところにある場合は、犯人像を突き止めることが困難だろうね」
なるほど、と納得した。サクラの意識が仮に誰かによって「持っていかれた」のだとしたらつじつまが合うけれど、それは私の想像上の事象に過ぎない。だから私はハッカーの思考がトレースできないのだ。
「リコちゃん、だめだよ。それ以上は深入り。思考する際、沼にもぐることはよくあることだけど、命綱なしに深くもぐっちゃいけない」
「でもイチカはそこまでもぐっているじゃない…」
「私はある程度慣れてるから…でも私にも感情はあるし、いつ沼でおぼれるとも限らない。気持ちはわかるけど、今のリコちゃんはなにかに追い詰められているような感じがする。そういうときは危険なの」
図星だった。イチカの頭が切れることはわかっていたけど、ここまで見透かされていようとは。
「…たしかに、焦っているかもしれない」
「御篝さんとリコちゃんがどういう関係なのかはリコちゃんを見てればわかるよ。すごく羨ましい。でもね、リコちゃんが壊れていく様を御篝さんが見たいと思っているとは考えにくいな」
「イチカ…」
「ちょっとスイーツでも頼もうか! ここのトルテはなかなかだよ」
「そう…じゃあ私も同じの頼もうかな」
「リコちゃん、どうして笑ってるの? なにかおかしかった?」
「えっ…」
どうやら無意識的に笑っていたらしい。そういえばサクラはミンスパイが好きだったな。
「なんだか妬けちゃうな…」
イチカはすこしうれしそうだった。
私の想像に過ぎないもの、それはマインドハックとハッカーの存在。逆に変えようのない事象、サクラが意識不明であること。このふたつの事象は今のところ結びつかない。私の手に負えないんじゃないか、という考えが頭をよぎる。例えばデバイスのバグで意識がなくなっているのだとしたら…いや、そうなればメーカーにとっては大問題のはずだ。もうMIND-Glassは私たちの生活になくてはならないものになっている。
私の能力がいたらないばかりに、なにか重要な部分を見落としている気がする。イチカの話を聞いてから違和感が大きくなっていた。いや、これは考えすぎなのかもしれない。サクラが入院したときに警察もメーカーも動いていたのだ。事件性が低いということで調査は打ち切られてしまったが、メーカーと病院の共通見解はデバイスの一時的誤作動として処理された。
しかし私はやはり腑に落ちていない。半年以上意識が戻らないのに一時的誤作動というのはやはり無理があるのではないか。とはいえ前例がないのも事実であり、一時的の範囲がどこまでを指すのかは不明だ。それは私も理解している。
それでも感情は別だ。やはり理屈はわかっても、どうしても私はもう一度サクラと他愛ない話をして、食事をして…ただ一緒にいたいのだ。それだけで充分だ。
朝、私にコーヒーをねだるサクラ。昼食をおいしそうにほおばるサクラ。帰り道、手をつなぐのを恥ずかしがるサクラ。もう一度そんなサクラが見たいだけ。私にとってサクラがいない生活は…なににも代えがたい。私にとってサクラはもう私の一部なのだと再認識する。いつまで、いつまでこうしてサクラを待たなくてはいけないのだろう。そのつらさから逃げるために私は行動しているのではないか。サクラのためと言いながら、内心では自分のためではないだろうか。
「私ってこんなにイヤな奴だったのかな…」
どこにでもなくつぶやく。すこしの自己嫌悪。夜更かしはお肌に悪いんだった。頭を冷やすためにひと休みしよう。アラームをセットして、ベッドにもぐりこむ。相変わらず圧迫感のある天井が今日はやけに気なった。
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