桜のはなびらにくちづけを

佐々木慧太

第1話

 風。

 風が吹いてる。


 この世界は真っ白だ。といっても物理的に白いわけではなくて、そんなイメージがする。少なくとも私はそう思っている。なぜか白いというほかにイメージがわかないのは、多分徹底的に除菌された社会に私が生きているからだろう。この社会では「見たいものしか見ない」ではなく「見えるものしかない」のだ。だからむやみやたらに激しい論争や諍いが起こらない。他人と関わることが得意ではない私にはとても助かるし、楽ちんだ。入学した頃は漠然とそう考えていた。あの人に会うまでは。御篝サクラ。私の特別な人。今日はサクラに会える日だというのに何だか気乗りがしない。あまり考えたことはないけど、フクザツな乙女ゴコロってやつかもしれない。

 ピピッと簡素なアラームが鳴り、ちらりと左上を見るとMIND-Glassにもうすぐ三限が始まる時間が表示される。三限は現代経済論だ。興味本位で取ってはみたものの、いまでは週で一番つまらない講義になってしまった。いくら自主性を重んじる方針とはいえ、選択肢が多いというのも問題だと思う。

 「さて…」

 本をしまって立ち上がり、少し伸びをする。多少の不満はあれど、この広場から見える桜はきれいだな、と思う。散り際が一番美しいと感じるなんて、これはちょっとしたフェチズムだなと思った。


 講義はいつもの通り教授のブツブツとしたつぶやきのような音しか聞こえない。デジタルボードに表示される統計的なデータは興味深いが当の教授が発する情報は何ひとつ耳に入ってこないため、仕方なしに二回まばたきをしてエアディスプレイを表示する。デジタルボードと私のデバイスを同期して表示されているデータをダウンロードする。今日の講義は珍しく当たりだ。講義が終わったら図書館でレポートの資料になる論文を漁ってみよう。今日はこの後の講義も無いし、夜までは時間がある。夕食のことはそのあと考えればいい。ふう、とため息をついてエアディスプレイを閉じる。もうすぐ講義が終わる。それにしても今日は嫌味なほどの晴天だ。痛いほどの日差しが初夏に向かっていることを告げていた。


 図書館は地下一階にある。アッパースクールの頃は本なんてデッドメディアだと思っていたけど、いざ大学に入ってみると蔵書量と情報量に圧倒された。といっても入学当初はネット上にある情報で事足りていたんだけど、サクラの影響で私も本を読むようになった。「手で触れると愛おしくならない?」とサクラは言っていた。正直今だに物理的接触は好きになれないが、サクラの感覚を理解してみたくて、こうして図書館通いを続けている。サクラの感性はいつも不思議だ。

 シュッと音がして、図書館のゲートにあるカーテンセンサーが私を本校に在籍している学生だと判定した。いちいちセンサーを通らなければならないのは煩わしいが、現代における本の希少価値を考えれば当然のことだ。デジタルデータは改ざん可能だが、出版物はそうはいかない。一次情報としての信頼度が段違いだ。それに本はデータと違い物理媒体だから摩耗する。絶版書籍などは特に貴重な資産だ。それをなんのプロテクトもせず置いておくなんて、自分のデバイスに防壁マスクをつけないのと同じだ。

 入口にある検索用デバイスと私のデバイスを同期して書架の番号を調べる。「…114…116…148…」いくつかの候補をもとに、エアディスプレイに表示された書架へ向かう。目的の本は明確じゃない。タイトルだけで内容が把握できないからだ。特に本は重要な情報が作者によって異なる。思想や時代背景もあるだろうが、現代における一次情報はAIによって偏りがないように開示されているため、旧時代のネットと比べて現在のネットは治安が良いと言われている。その点本は作者の偏見や独自性(個性と呼ぶべきだろうか)が色濃く反映されているので、同じテーマを扱っているにも関わらず全く違う結論が導かれることがある。「本棚って奇麗だよね。まるでバロック絵画みたい」サクラはそんな風に表現していた。私には正直よくわからないが、言われてみるとたしかに…という気持ちになってくるから、サクラの言葉は不思議で面白い。

 書架をまわって本を手に取る。興味をひかれたのは三冊ほど。エアディスプレイをキーボードタイプに変えて、今日の講義データと本の内容を照らし合わせて比較してみる。やはり今日の講義内容はこのあたりの書籍から引用したものか…それなら話は早い。レポートの提出までは今月丸々使っても間に合うほど時間がある。あと三時間は内容精査に使えるな。テキストアプリをタップして、雛形の作成を始める。ふとサクラの気配がして振り向いた。白髪の女の子が書架に向かっていた。見覚えがあった気がしたけど、すぐに忘れた。


 

 バス停のスピーカーからからブーッと音がして意識が現実に引き戻される。音が鳴るまでどうやら心ここにあらずだったらしい。我に返るとすぐにリニアバスが到着する。環状線沿いに走る循環バスで、都市開発の一環で最近になって導入されたものだ。正直駅から離れている病院に通うのに地下鉄は面倒だったので非常に助かっている。大学と役所、それから総合病院の三つを軸に、環状線に新設されたショッピングモールまで路線内に入っている優れものだ。おかげで買い物にしても何にしても電車と半々で使うようになった。生活圏内にこういう設備があるのは嬉しい。時刻は19時16分。病院までは10分ほど。さすがに日は暮れたな、と思う。軽い夕食を先に済ませてしまおうと思ったので少し遅くなってしまった。

 ポーンと音がして座席正面の簡易エアディスプレイに総合病院前の文字が表示される。席を立ち乗降口に向かう。扉が開くとあたり一面に緑が広がっている。ここの病院は景観を大事にしている。それにしても、やっぱりちょっと気が重い。

 正面入り口に入り面会受付を済ませ、入院病棟に向かう。

 「あ、リコちゃん。こんばんは。今日もお見舞い?」

 「こんばんは。はい。サクラはどうですか?」

 声をかけてきたのは看護師の山路さんだ。サクラのことをなにかと気にかけてくれている。

 「大きな変化はないよ。バイタルは安定」

 「そうですか…いつもありがとうございます」

 「いいのいいの、心配だよね、やっぱり…」

 私は頷く。声がうまく出せない。

 「とりあえず顔見に行ってあげて。じゃあね」

 山路さんはすっと踵を返し仕事に戻っていった。こういう気づかいが出来るところはさすがの観察眼というか、少し気が楽になる。今の私にはとてもありがたい。

 サクラの個室の前。私はいつもここで深呼吸をする。サクラ、私に出来ることは何?と問いたくなるからだ。ノックして扉を引く。しんと静まり返った室内にほのかに香る消毒液のにおい。ああ、いつもの時間だ。もしかしたら扉が開いた瞬間にあの金糸雀みたいなかわいい声で「いらっしゃい、リコ」って聞こえてこないかといつも期待してしまう。

 目を閉じて静かに呼吸をするサクラが、そこにいた。



 サクラと出会ったのは大学に入学してから半年ほど経ってからのことだった。

 「浦賀井さん…だよね?」

 「あなたは…御篝さん…だっけ? なにか用?」

 倫理学の講義が終わった後、サクラが声をかけてきた。正直私とサクラの間には何の接点もなかった。アッパースクールの学区も違ったし、何よりサクラは所謂人気者で私とは真逆のポジションにいたからだ。サクラはアッパースクールの中でも上流階級出身で家柄も相当良い。それゆえに取り巻きもそれなりにいて、気苦労があったのだと後からわかった。サクラは他人のことで愚痴をこぼしたりするような人ではないので私の主観ではあるのだけど。

 「この後用事ある? 良かったら一緒にランチに行かない?」

 意外だった。私はてっきりサクラはいつも取り巻きと学食に行っているものだと思っていたが、そうではなかったらしい。後になってサクラが「気をつかわれるのはあんまり好きじゃないの…」と照れながら話していた。なぜ私を誘ったのかについては、あんなに真剣に講義を受けている人の話を聞いてみたかった、という至極単純な知的好奇心からだったという。

 サクラはとても頭が良い。勉強ができるという明確に数値化できる頭の良さではなくて、もっと深いところにサクラの視点はある。あるいは世界を俯瞰で見ているような…ものすごく小さなところから規則性を見つけ出し、ものすごく大きなところから本質を見つけ出す。サクラはそういう人なのだ。だからいつも不思議な言葉でものごとを表現する。

 試しに二人である論文について共同研究のまねごとをしていたとき、「この表現はなんか淡いよね…もしかしたら引用元が誤訳してるんじゃないかなあ…」と言って引用元の論文の原著を訳し直して論文の構造欠陥を指摘した。後にこのまねごとは清書してレポートにまとめ提出することになるのだが、連名とはいえサクラと私の評価は学内でも屈指になるほどの出来栄えになってしまった。

 またある時は「ねえ、リコはユートピアってあると思う?」と私の想像力をはるかに超えた質問をしてきた。

 「ユートピア…? って、理想的な国や社会ってこと?」

 「そう。でもさ、理想って主観だよね。もし存在できるとしたら誰にとっての理想が最良の”理想”なんだろうね…」

 私は何も言えなかった。サクラにはどうもサクラにしか見えない世界があるらしい。そこに惹かれていったのも事実なんだけど、そういう話をするときのサクラの顔はいつも寂しそうで、いつの間にか私はどうしたらサクラの言っていることを理解できるようになれるのかを必死に考えていた。サクラの寂しそうな顔が好きじゃなかった。サクラには笑っていてほしい。そう思うようになった。


 サクラと出会ってから最初のクリスマス、私はサクラに誘われて廉価なイタリアンでディナーを共にしていた。所謂ぼっちの私には友達と呼べる人がサクラしかいないので予定はもちろん空いていた。あるいは心のどこかでサクラに声をかけてもらえないかと期待していたのかもしれない。

 「サクラ、ユートピアの話覚えてる?」

 「うん、もちろん」

 「あれからずっと考えてみたんだけど、私にはやっぱり答えが出せなかった…」

 「リコ、大丈夫。ユートピアっていうのは”どこにも無い”って意味の造語。私があんなこと言っちゃったから…悩ませてごめんね」

 「ちがうの、私は…サクラの言ってる言葉とか見てるものが知りたくて…」

 「リコ…ありがとう…」

 「私、サクラのこともっと知りたい。そうしたらサクラの寂しそうな顔、見なくて済むかな…?」

 「リコ…私ね…」

 「サクラ、ずっとそばにいて。私とずっと一緒にいてほしい。…それが私のユートピアかもしれない…」

 「リコ…うん! うれしい…ほんとはね、私ずっとリコのことが…」

 サクラは顔を真っ赤にして俯く。その瞬間二人で笑った。私は産まれて初めてちゃんと笑った気がした。


 その日から私たちは特別な関係になった。


 待ち合わせはいつも図書館だった。サクラはいつも決まって哲学書や思想書を読んでいた。試しに聞いてみたことがある。

 「その本面白いの?」

 「うーん…面白いかと言われれば疑問かな。扉を開けていく感じなんだ」

 「扉?」

 「うん、変な表現かな? でも私には扉って言葉がしっくりくるかな」

 「扉か…サクラっていつもそういう言葉を使うよね。比喩っていうか」

 「比喩…ごめんね、あんまり説明が上手じゃなくて…」

 「ううん、全然大丈夫。今度私も読んでみるよ、その本」

 「あ、それだったらこの講義取ってみたらいいかも。なんならモグリでお試しに講義のぞいてみない?」

 「え…? それってまずいんじゃ…」

 「平気平気、MIND-Glassにちょっと細工すれば…」

 「サクラ…あんたってほんとに…」

 「いいじゃない、たまには火遊びもしてみたいでしょ?」

 サクラは本当に楽しそうだった。私だけに見せてくれる特別な顔。特別な言葉。とっても美しくて、かわいくて、愛おしくて。


 だが、ある日それは唐突に訪れた。

 待ち合わせ場所の図書館でサクラが意識を失ったのだ。私はとりあえず医務室に駆け込んでみたが無論学内の設備では精密検査や適切な処置などできるはずもなく、そのまま病院へ緊急搬送されることとなった。精密検査の結果、身体機能は特に異常が無く、脳機能に関しては若干の異常がみられるものの一時的なものだろうと診断された。

 とはいえサクラはそれきり一度も目を覚まさない。当然いま私の目の前にいるサクラも生きてはいる。生きてはいるが、これにはさすがのチャイコフスキーもさぞや驚くことだろう。本当に美しい人が眠っているだけなのだから。



 ジジッと自室の前のセンサーが鳴り、二秒ほど待つとカチッとドアが開錠される。サクラに会いに行った後はいつも気が沈む。好きな気持ちは変わらないが、それでも神に祈るような気持ちにはなれない。私はサクラの意識を取り戻す方法を探しているのだ。サクラは持病や先天的な疾患を患ってはいない。つまり、精密検査の結果を信じるのであれば一時的な意識障害のようなものだろう。それにしてもサクラが眠りについてから半年以上だ。一時的、と呼ぶには長すぎる。そこで私はある仮説を立てていた。

 マインドハック。

 あくまでネット上でのうわさでしかないが、マインドハックと呼ばれるデバイスを直接ハッキングする方法が存在するらしい。MIND-Glassはその性質上生体認証を必要とする。だからデバイス起動時には必ず防壁マスク、つまりウイルスや細菌から自分のデバイスを守るソフトが自動的に起動する。もちろんデバイスをスタンドアローンにして防護する方法もあるが、今日日デバイスをネットに常時接続していないというのは考えられないし、仮に意識障害を引き起こすウイルスがあったとしてもゾーニングAIの検閲に引っかかってデリートされるはずだ。つまりもしもサクラがマインドハックされたと仮定するなら、ハッカーがいるはずだ。それもかなりの手練れだろう。しかしひとつ疑問が残る。実験的あるいは自己顕示欲や愉快犯の場合なら街中で不特定多数もしくは適当な誰かを選んでハッキングすれば、それこそニュースになったりしてハッカーの目的は達成されるはずだ。もしも私がハッカーなら、多分そうする。

 「なぜサクラを狙ったの…」

 エアディスプレイに表示される文字情報を眺めながら独り言ちる。サクラが狙われた理由。ハッキングの動機と考えてもいい。それが私にはわからなかった。だけどマインドハックは私個人の仮説に過ぎない。そう考えるとつじつまが合うという程度のものだし、つじつまが合っていたとしても核心の部分には手が届いてない。こういうときサクラだったらどう考えるんだろう。私はサクラにも追いつけてない。サクラ、独りぼっちにさせてごめんね。

 突然無性にサクラの声が聞きたくなった。



 カーテンセンサーはいつも通り私を迎え入れてくれた。今日は午前中の講義が無いので、とりあえず図書館に行くことにした。本当はもう少し惰眠を貪りたかったところだけど、サクラの顔を見た後ではそんな気分にもなれず、ほとんど無意識的に図書館に来ていた。何もしないよりは気持ちが幾分か楽になる。こういう日は検索デバイスは使わず、書架を適当に眺めて気になる本を読むことにしていた。サクラから教えてもらった暇つぶしだ。サクラ曰く「歩くことでカロリーを消費して、頭を使うことで糖分の摂取が許される」らしい。つまり如何にしてスイーツを食べる合法的な理由をつけるかという、とってもサクラらしい時間の使い方だ。といっても私はサクラほど甘党ではないので本当に暇つぶし感覚ではある。サクラと一緒じゃないとスイーツも食べないし。

 書架を眺めていると不思議と気分が落ち着く。サクラもこうやって歩いていたのだろうか。なんだかサクラが隣にいる気がしてうれしくなる。

 ふとフロアに目をやると白髪の女の子が座っていた。ずいぶんだるそうに本を読んでいるが、おそらくあれは物理学の本だ。理学部なのだろうか。そういえばこの間もあの͡子を見た気がする。ずいぶん熱心に本を探していた様子だった。たしかにここは他都市の大学と比べて理系に力を入れているとは聞く。それにしてもお人形さんみたいな顔立ちだ。とても同じ人間とは思えない。あの子もスイーツのために本を読んでいるのだろうか。

 

 

 エアディスプレイを開いて講義のメモを取る。今日の講義は感情哲学。感情の源泉はどこか? というテーマの講義だが、引用が古典からなので教授の表現が堅苦しい。もうすこし砕けた表現をしてくれると楽なのだが、哲学とついているからにはそういうものだと諦めるしかない。でも感情という曖昧なものを論理だてて研究するということには意義がある、と私は思う。感情。人間なら誰しもが持っているもの。そこに疑問を持った人が研究を始めたことで今日の学問としての感情論が存在する。

 「人間は合理では動かない。行動経済学の観点からみても同様の結論が導かれる。」とは教授の言葉だが、なるほどたしかに経済哲学という学問が存在するのも納得だ。合理では動かない。なら人間は感情だけで動いているのだろうか。私は何を基準にして動いているのだろう。今はサクラが基準になっている。なら、サクラと出会う前は?サクラと出会う前の私は、何を基準に動いていたのだろう。いけない、哲学の講義を受けているからだろうか、つい思考実験を始めてしまう。エアディスプレイに向き直り傾聴を続ける。今日の講義が終わったら行動経済学の本でも読んでみようかな。


 仮に神様がいるとして、なぜ私とサクラを引き合わせたのだろう。哲学の講義内容についてすこし考えていた。私はサクラの感情について考えたことがあっただろうか。例えば今のサクラに感情があると仮定して、いったいなにを思っているのだろう。あるいは無意識の中でなにか思考しているのだろうか。サクラの脳は今もなお活動している、はずだ。サクラの感情。向いているのは私に対して? それとも別などこか、もっとマクロな世界? サクラの思考がトレースできれば…でもそれはおそらく間違ってる。私はサクラにはなれない。サクラが私になれないように。だからお互いに惹かれあった。私はそう思いたい。感情がもし見えてしまったら…それはきっと、とても苦しい。人はそんなに便利になれない、と思う。昔、人と人がわかりあえる可能性を示唆したアニメがあった。人の脳には未知の領域があるというが、もしかしてそこは本来人が踏み入れてはいけないブラックボックスなんじゃないかと私は思う。例えばMIND-Glassを介してサクラと同期したら、それは私なのだろうか?それともサクラなのだろうか?

 そういった研究が進んでいることはうわさ話程度だが聞きかじったことがある。そういう情報は本来ゾーニングAIが検閲して「見えない」ようになっているのだが、世界は広いもので、ネットのあちこちでクラックされたソースのわからない情報が出回っている。とはいえそんなものは絶対にメディアには露出しない。私は黒いものと表現しているが、現代社会ではグレーすら許されない。すべての情報は徹底して漂白される。どこかの社会学者が言っていた漂白社会とは言い得て妙だなと得心した。おそらくそういう思想を持ったシンパが今日のフェイクニュースやデマ情報をネットに流布しているのだろう。ある意味エンタメになってしまってはいるが、彼ら彼女らにとってはそういうガス抜きも必要なのだ。きっと人それぞれ、息苦しさを感じているに違いない。


 学内には庭園を一望できる学食を兼ねたカフェテラスがあり、そこから見える例の桜の木はひと際目立っていた。サクラはテラスの左端の席がお気に入りで、私たちはいつもそこでランチをとっていた。


 「ねえリコ、”動物は、健康で、食べる物が十分にあるかぎり幸福である”って言葉、知ってる?」

 「知らないな…誰の言葉?」

 「ラッセル。でもね、人間はそうじゃないんだって。不思議だよね…人間も広義の意味では動物なのに、どうして自分は不幸だって思っちゃうんだろう…」

 「サクラは今自分を不幸だって思ってるの?」

 「まさか…私は幸せだよ、リコが隣にいるしね。…なんて言ったらいいのかな…ちょっと不思議に思ったの。人間には自意識とか自我があるから自分と他人を比較して相対的に自分を不幸だと思い込んでいるんじゃないかなって」

 「サクラでもそういう風に他人を見ることがあるの?」

 「そうね…リコみたいにキリッとした人に産まれたかったかな」

 「なにそれ…」

 「ふふ…」

 サクラはいつもそんな感じだった。私はサクラの目にどういう風に映っていたのだろう。私からすればサクラみたいにかわいい人はそうそういないと思うんだけど。いつもサクラが考えていることはわからなかった。


 今日の講義が終わり、帰りしなに図書館に寄って帰ろうとカーテンセンサーをくぐる。そろそろ各講義のレポートの準備も兼ねて参考文献を集める目的もあった。

 フロアにはまばらに学生の姿が見える。ある程度評価を気にしているか、酔狂な知的好奇心を持った連中だ。こういう学生を見ると不思議と仲間意識というか、同じ人種だなと感じることがある。特に示し合わせたわけでもないのに同じ講義をとっていたりする。そういうところも含めて図書館には妙な安心感があった。レポート提出期限前はどうしてもフロアが混雑するので、今のうちに済ませてしまおうという考えもあるのだが。

 その一角に例の白髪の女の子もいた。彼女はいったい何を読んでいるのだろう。今日はやけに真剣に本を読んでいる。なにか重要な資料なのだろうか。

 私はいつも通り検索デバイスに書架を探してもらいエアディスプレイに表示された場所に向かっていた。四冊ほど手に取ってフロアへ向かう。キーボードアプリを立ち上げてタイピングを始める。いつも思うのが資料の質は高いけど研究者って人種はどうにも文体が堅い。論文という性質上仕方のないことだとわかっていても、やっぱり小説やエッセイに比べると読むのに時間がかかる。索引がついているのはありがたいが、箇所が多すぎて困るなんてことはしょっちゅうだ。

 「…”つまり、生きものは種の利益のために、集団の利益のために物事をするよう進化する…”」

 「…”という誤解である”」

 ハッと振り返るとそこに例の白髪の女の子がいた。

 「自然界における利他的自己犠牲…尊い考え方だと思うんだけどな」

 呆然としている私をよそに彼女は話を続ける。

 「初めまして、浦賀井さん。でもあなたはたしか文学部だったよね? どうしてこんな本読んでるの?」

 「その前に、どうして私を知っているの?」

 「それはもちろん有名だからだよ。御篝さんとの論文はとっても素敵だったよ。ダウンロードして保存してあるの。とても興味深かったから」

 「…それはどうも。それで、なにか用でも?」

 「ふふ、うわさ通りつっけんどんな人なんだね」

 誰だ…そんなうわさを流してるやつは。

 「私は伍條イチカ。よろしくね」

 「…それで伍條さん、私に用があるの?」

 「用がなくちゃ話しかけてはいけないの?」

 「…そういうわけじゃないけど…」

 「ふふ…もしよかったらこの後お茶でもどう? いい店知ってるの」

 「悪いけど見ての通り課題の真っ最中なの。遠慮しておく」

 「そう…じゃあ明日は? 空いてない?」

 断ろうと思ったがおそらくこの子は理学部だ。もしかしたらマインドハックについてなにかわかるかもしれない。サクラが目を覚ます方法があるなら、可能性があるなら、私はどんな手段も使うと決めていた。

 「わかった。じゃあ明日。待ち合わせは…」

 「もちろんここでいいよ。よかったらそのときにメッセージのアクセスキーも教えてね。お友達になりたいの」

 「わかった。私もあなたにすこし興味があるから」

 「ありがと。うれしいな。それじゃ明日。待ってるからね」

 伍條さんは白髪を揺らし、颯爽と歩いて行った。ブルガリの残り香が鼻腔をくすぐる。お友達か…考えたこともなかったな。


 

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