第3話 実母
Aさんは、両親が仕事に行っている間に、家から実母のBさんに電話をかけることにした。
Aさんは卒業式が終わって、その時はもう春休みだった。Aさんは第一志望の大学に受かって意気揚々としていたしが、もうすぐ息子が旅立つという両親の嬉しさと安堵、寂しさが家の中には漂っていた。
Aさんはその前の週末に、養父母と一緒に買い物に出かけて、書籍や洋服など必要な物を買ってもらい、一緒にレストランで外食をした。普段、質素に生活していたから、外食は滅多にしなかったが、その時はお祝いを兼ねていたようだ。どうやら実の子ではないみたいなのに、すごく愛情をかけて育ててくれたことを思って、Aさんはご飯を食べながら泣いてしまった。学歴はないけど立派な両親だった。
Aさんは、寮に送る荷物を箱詰めしたり、いらない物を捨てたりして、片づけをしながら、いつお母さんに電話しようかと迷っていた。そうしていると、また涙が込み上げて来た。
お母さんに会ったら、何て話そうか・・・。
どうして、公園に置き去りにしたのか・・・。
お母さんと、お父さんはどんな人か。
兄弟はいるのか。
Aさんは、養母が作ってくれたお昼を食べた後に、電話を掛けることにした。
黒電話は玄関にあった。
Aさんの生家は狭かったが、ちょっとした廊下があって、電話はそこの小さな棚に乗せられていた。立ちっぱなしだと疲れるから、電話の隣には籐製の小さなスツールが置いてあった。
Aさんはスツールに座って、もう一度手紙を読み返した。筆圧の濃い癖字だった。Aさんの養母は字がとてもうまかったから、ちょっと見劣りがした。
Aさんは、なかなか電話をかける勇気がなかった。まだ高校生だし、知らない人に電話したことがなかったからだ。しかも、それが生き別れた実の母親なのだから、なおさらだった。いつも見慣れた黒電話が違って見えた。実の母親とつながっているへその緒のようだった。
10分くらい椅子に座って逡巡しながら、意を決してダイヤルを回した。
「はい」
電話口に出たのは、なんだかキツそうな女の人だった。40くらいだろうか。人間の気性はたった一言に出てしまうものなのだ。Aさんは失望していた。
「瑞樹です」
「あ、瑞樹?今お母さんいないから、10分後にかけ直して」
その人は命令口調で言った。Aさんは、自分が知らないところで呼び捨てにされているのが不快だった。しかも、その女は子供を公園に置き去りにしたくせに、自分のことをまだ『お母さん』だと思っているのだ。
A君は言われた通り、10分後に電話にした。
誰かと同居してるんだろうか?
さっきのは、おばさんとかそういう関係の人なんだろう・・・。
「もしもし」
次に電話口に出たのは別の女の人だった。暗くて、抑揚のない声だった。
「瑞樹です」
「あ、瑞樹?お母さんだけど」
当然のようにその人は呼び捨てだった。
感動なんかはなかった。
感じの悪い人だった。
Aさんは現実を思い知った。こんなものか・・・と。
実母と再会する時は、もっと感動的な場面を想像していたのに、期待は大きく裏切られた。
当時は、ゴールデンの時間帯に、桂小金治の『それは秘密です』という番組があった。その中に、視聴者が生き別れた家族を探すというコーナーがあった。今も似たようなのがあるかもしれないけど、視聴者が番組に人探しを依頼する手紙を出すと、番組が探してくれる。めでたく探している人が見つかった時は、番組内で何十年ぶりかの再会を果たし、感激の涙で終わる・・・というのが定番だった。
Aさんは自分が実子でないこともあり、その番組に自分の人生を重ね合わせていたのだ・・・。Aさんは自分も実の親に会ったら、感激して泣くだろうと思っていた。
きっと、実のお母さんは優しい人で、自分のことを毎日考えてくれているに違いないと思い込んでいた。育ての母は、すごくいい人で感謝はしているが、心のどこかで他人だと感じていた。だから、どこかに自分を無条件に愛してくれている実の母親がいるんだ、という思いがAさんを支え続けていた。それが、その「あ、瑞樹?お母さんだけど」という言葉で、吹き飛んでしまったのだ・・・。Aさんは身構えた。
「手紙受け取りました」
「あ、そう。元気?」
その人はそっけなく言った。
「はい」
「高校卒業した?」
「はい」
Aさんは「頑張ったね」とか「おめでとう」と言うのが普通だと思っていたが、意外な答えが返って来た。
「この後、どうするの?」
「大学で九州に」
有無を言わさない感じだったので、聞かれるままに答えていた。
「え、そうなの?早く就職すればいいのに」
「でも、高卒だと給料安いから」
「大学なんて行かなくていいのに。お父さんだって、中卒だけど立派に働いてるんだよ。早く働いて社会に出た方がいいんだよ」
「はい」
Aさんは大学に行くのが悪いことのように感じたそうだ。
「いつ来れる?」
「じゃあ、明日」
Aさんは約束した。
もうそろそろ引越すので、早い方がいいと思ったからだ。
この件が解決しなかったら、大学には行けないだろう。
次の日、Aさんは実母の家に行くことにした。
昔はGoogle マップなんかないし、自宅にあった住宅地図を見て行ったんだ。
コピーも取れないから手書きで写して持って行った。
市内だから、自転車で向かった。でも、道に迷ってしまって、着いたのは約束の1時間も後だった。
着いてみたら、そこは小さな平屋だった。壁はサビの浮いたトタン屋根でお金がなさそうな感じがした。庭にはいろんな鉄屑みたいなガラクタが積んであって、錆びた自転車が何台もあった。その横に物干しがあって、辛うじて洗濯物が干せそうだった。
でも、庭といっても車一台停めるくらいしかない。
そこには、車はなかった。
養父は車で通勤していたから、自家用車があったし、家も綺麗に片付いていた。
家だって持ち家だから、外壁はちゃんとした白い壁で、トタンなんかではない。
玄関の横に、苔の生えた金魚の水槽が放置されていた。水は緑色でヘドロのようになっていた。少しだけ店で買ったままの植木鉢があって、パンジーなどが植えてあった。唯一そこだけが手入れされている感じがした。
しかも、家は隣と一つになった長屋。
表札に「〇〇」と名字が書いてあった。
玄関には呼び鈴もなかった。
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