第25話
次の夜のことだ。アインリッヒは目を覚ました。そして自分が生きていることに気がつく。近づいた水面という部分からすっかり記憶がない。どうやら、水面に叩きつけられたショックで、気を失ってしまったようである。
どこかの宿屋であるには違いないが、明確な場所は解らない。一つだけ解るのは、安宿と言ったくらいのことだ。
「そうだ!ユリカ!」
アインリッヒは、ベッドから身体を起こす。身体中を打ち付けているようで、あまり上手に動けない。だが、彼の様子が気になる。身体をふらつかせながら、パジャマ姿のまま部屋を出て、壁伝いに歩き始める。一つの扉の前を通りがかった時だった。
「人間、あんな風になったら終わりだな」
ロンの声だった。
「ええ、哀れな末路でしたね……」
ロカの声だ。
「二人とも、割り切って考える事じゃ……」
こんな会話を聞くと、アインリッヒの脳裏には、一つの答えだけしか聞こえなくなる。力無く床に座り込み、寒気に身体を振るわせる。
気配に気づいたロンが、戸を引き開けると、アインリッヒが座り込んでいる。
「何してるんだ?まぁ、目が覚めたんだ。良かったよ」
ロンは何事もなかったように、扉を開けたまま、部屋の中に戻って行く。
「ユリカ!ユリカはどうした!!」
立ち上がり様に、ロンを振り向かせ、彼の胸倉を掴んだアインリッヒに、ロンは、少し答えにくそうに顔をそらせる。
「まさか!!」
「安心しろ!死んじゃいない!!しかし……」
「しかし、どうした?!」
アインリッヒはまるでロンを責め立てるかのようだった。声を荒立て、乱暴にロンを前後に揺さぶる。だが一番責任を痛感しているのはアインリッヒ自身だ。それはロンにも良く解っていた。胸倉を掴んでいるアインリッヒの手を引き離し、手首を強く握る。
「落ち着くんだ!命にも別状はない!だが……」
「ユリカは何処だ?!」
アインリッヒには、ザインの居場所以外を聞くゆとりなどなかった。催促とともに、捕まれた両腕を何度も揺さぶる。
「この部屋の……左隣だ」
渋るようなロンの声が、アインリッヒにザインの居場所を告げる。それと同時に、彼女の手首を強く握っていた両腕は、緩く解かれていた。アインリッヒは何の躊躇いもなくロンに背を向け、ザインの部屋へと駆ける。
「ユリカ!!」
勢い良くザインの部屋に駆け込んだアインリッヒだったが、そこにはザインは居なかった。
毛布が適当にベッドの上に置かれていることから、寝ていたのは事実のようだ。しかし、ベッドに振れてみると、冷たくなっている。もう、此処には居ないようだ。部屋中を見ると、彼の剣がある。どこかへ姿を眩ましてしまったというわけでも無さそうだ。
心配になったロンが、コッソリとアインリッヒの後ろから覗くが、彼もザインの姿がないことに気がつく。
「あ!ザインの奴が居ない!一時間前は確かに!!御老体!ロカ!……」
その後、アインリッヒは、再度部屋に隠り、俯せになり、枕に顔を伏せる。
「コレで、三度目だ」
しかしすぐに顔を上げ、己の荷物を纏めようとする。だが、そこにあるのは、彼女のグレートソードだけである。他の者に鎧の在処を聞く気にもなれず、まして、状況から考え、戦いは終わったのだ。剣を持つ必要もない。特注ではあるが、銘刀というわけでもない。屋敷に戻れば、爪弾き者とは言え、生活ぐらいどうにでもなる。
アインリッヒは、持ち合わせのシャツとズボンという、惰性っぽいカジュアルな服装に着替え、何も持たず宿屋を後にする。街に出ると、それなりの賑わいがある。街行く男に、一言尋ねた。
「済まぬ。此処から北の集落に向かいたいのだが、駅馬車は何処だ?」
「ああ?ねぇちゃん。こんな時間に馬車なんか出てるわけねぇべ!」
男はへべれけに酔っている。だが、彼の言っていることは尤もだ。こんな夜間に着く馬車はあっても、出る馬車など無い。
「王城が吹き飛んだときはどうなるかと思ったよ」
「だが、姫君も后様も無事らしい……」
時間の潰し方は色々ある。この時間帯で無意味に賑やかなのは、はやり酒場だろう。アインリッヒは愚世のこの空間には、一人で足を踏み入れたことはない。だが、何だか足を踏み入れる気になった。
「ユリカなら、こういう場所でも楽しく飲むのだろうな……」
ふと、口から漏れたのは、そんな言葉だった。店内に入ると、酒気帯びた空気と、無秩序になっている人格が、そこら中に転がっている。カウンターには、空席がある。テーブルよりは、こちらで飲みたい気分だ。すぐさま、適当に開いている席に腰を掛ける。
「何でも良い。酔えるものを……」
席に着くなり、アインリッヒは、冴えないバーテンにこういう。そして出てきたのは、小さなグラスに、なみなみと注がれた、透明で甘い香りのない本物の酒だ。見た目はまるで水のようだ。
アインリッヒは、軽々とグラスを持ち上げ、一気に喉に流し込む。が?
「ゴホ!がっは!ゴホゴホ!!」
思いっきり噎せてしまう。グラスの置き場所を確認して、両手があくと、喉のあたりをしきりに撫でる。
「な、何だ?コレは!」
苦々しい顔をしながら、素っ頓狂な声を出す。
「ウォッカだよ。あんた言ったろ?酔えるものって……、比奴はトビキリさ」
やはり、しゃがれたさえない声がそういう。人生のしがらみから解放されないその声は、わずかな哀愁がある。
考えれば、ウォッカほどの強い酒を飲んだことはない。酒自体興味もなかったことだ。喉のほうがまだひりひりと傷む。その時こう思った。ザインならば、きっと簡単に飲み干してしまうだろう、と。
〈ユリカ……〉
アインリッヒの胸が鈍い痛みに襲われる。怪我をしたわけでも何でもない。出てくる前に彼に会えなかった、そして、皆を避けるように宿屋を後にした事への後悔が、彼女の胸を襲ったのだ。以前の彼女には、このような感情は全くなかった。
見たこともない筈なのに、中央のテーブルを陣取り、仲間を巻き込み、豪快に笑い飛ばしながら、ボトルごと酒を飲んでいるザインの姿を想像する。そんな彼はさぞ楽しそうだろう。
此処にいると、余計に辛くなる。勘定を置いて、そこを後にする。
〈なに、今までの生活に戻るだけだ。そう、全てが元の戻るだけだ〉
アインリッヒは、今の己に都合の良い答えを出す。しかしそれが偽りの自分であることは、もう既に解っている。すぐに俯き、強がれない自分に愕然とする。その時、真正面に誰かとぶつかってしまう。
「済まない!その……」
「わりぃ、考え事……」
なんとぶつかったのはザインだった。彼も街に繰り出していたのだ。怪我をした右腕を三角巾で肩から吊っている。しかし、それ以上にアインリッヒを驚かせたのは、彼の頭髪の色だった。
「嗚呼……」
目に飛び込んだザインの髪色は、以前のようにチャパツ混じりの黒髪のの頭髪ではない。全ての精力を使い切ってしまったように、真っ白に脱色されてしまっている。アインリッヒは、知らず知らずのうちに数歩退き、挙げ句の果てには、背を向け、逃げ出す体勢を取っている。しかしすぐにザインに掴まる。
「なんだよ!俺だよ!ザインバームだよ!!」
それはザインの大きな勘違いだったが、アインリッヒにとっては、自分を捕まえてくれた彼を、とても嬉しく思う。しかし、それだけであれば、逃げ出すことなどしない。捕まえた彼の手を振り払うため、幾度も大きく腕を振るが、ザインも簡単に腕を離さない。しかし、彼女が自分がザインバームであることを知りつつ、拒んでいることが解ると、手が緩みそうになる。
「俺のことが……嫌いになったなのか?」
アインリッヒは、ザインのこの反応を予想だにしていなかった。いや、彼女にはそんなゆとりはない。己のことを考えるだけで精一杯だった。
「違う!」
振り向いたアインリッヒが力一杯それを否定した。
「良かった」
ホッとしたザインの顔が伺える。捕まえた彼の手が自然に緩む。アインリッヒも逃げるのを止め、愛おしそうにザインの頬を柔らかく両手で挟む。
「いっそ、お前のことが嫌いになれればいいのに……」
どうしても離れられなかった。アインリッヒは自分をセーブすることが出来ず、ザインに強く抱きつき、彼の胸に顔を埋めた。
「テテ!っと……」
ザインは、痛みに眉間に皺を寄せながら、吊っていた腕をどうにか動かし、啜り泣いているアインリッヒの肩を両腕で抱いてみる。すると、アインリッヒの腕は、もう少し強くザインを抱いた。
「戻ろうか」
「うん……」
それ以上言葉は必要が無かった。二人は寄り添いながら、宿に戻る事にするのだった。
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