第10話
瞬間、体内から、ドクン、と、血液が鈍く流れる音が聞こえる。
ゾワリと、体中の毛穴が逆立つほどの激情が彼の中を駆け巡るのだ。
リザードマンの群。恐らく、亜人種で最も硬い表皮を持ち、俊敏で、人肉を好み、最も凶暴な種族での一つである。だが、この世界には、本来居る筈のない生物なのだ。居れば人類は遥か昔に絶滅している。
「アイン。逃げろ。足手まといだ」
冷淡で突き放すようなザイン。ある意味で非常に冷静であった。しかし同時に、禍々しい憎悪も感じる。
それにしても、剣士として逃げろと言われ、退くことは、己自信に敗北したことになる。其れだけは出来ぬ相談だ。
「断る」
「なら、鎧を脱げ、奴らの前では、ただの飾りだ」
「何故解る!」
アインリッヒは、これにも酷く抵抗した。それは、彼女自身の過去に問題があるからなのだが、全てに置いて命令口調であるザインが、気に入らなくなった。剣の腕では、誰にも負けないと自負しているからである。
「兄貴が、それで死んだからだ」
彼の脳裏に巡っている記憶は、誰にも理解できない。だが、簡潔にそれだけを言い、彼はリザードマンの群に立ち向かう。彼が逃げない理由は一つ。放置すれば間違いなく付近にある集落が彼らの餌食となるからである。
〈へへ……、何分持つかな……〉
ザインは空しく笑った。一七歳の時より、精神も肉体も充実している。戦争があった頃よりは、闘い抜く自信はあった。
「オォォォ!ソウルブレードォォ!!」
彼は鞘から剣を抜き、一振りする。それはただ空を切った。だが、一つだけ通常の条件と異なる部分がある。それは、剣があらゆる光を反射したかのように、銀色に輝いていることである。
次の瞬間、彼の周囲を取り囲んでいる数匹のリザードマンが、剣の道筋に従い、真二つに裂け、地に伏した。
アインリッヒは、戦うことを忘れてしまう。それほど鮮やかな一瞬だったのだ。
「はっ!」
だが次に、己のなすべき事を思い出す。この場で、迫り来る亜人種を、ザインと共に打ち倒すことである。戦士として名高い男共ですら操りきれないグレートソードを抜き、一気に大地を蹴る。
アインリッヒの一撃は、切ると言うより、砕くと言う表現が相応しいだろう。二人に共通して言えることは、動きがリザードマンより、遥かに速いと言うことである。だが、リザードマンの最大の特徴は、その硬い皮膚である。一撃に要する労力は、生半可ではない。剣で直撃させれば、その反動は確実に己の腕へと跳ね返ってくる。
〈ダメだ多すぎる!連撃は、思ったより体力の消耗が速い……〉
ザインの心の声。戦場では仲間が居た。己が少し引いても、仲間がそれを補ってくれる。今はアインリッヒ一人である。残念ながら、互いに助け合うゆとりはない。だが、もう仲間が死んで行くのは、見たくない。ザインには、自然に焦りが生まれ始める。
「アイン!逃げろ!!」
「断る!!」
「死にたいのか!!」
「格好をつけるな!!英雄のつもりか?!」
「解ってねぇなぁ!レディファーストだよ!!」
「女扱いするなと言った!!」
「このままじゃ五分ともたねぇんだ!!」
この会話の時点で、既に何匹のリザードマンを倒しただろう。しかし、その数は尋常ではない。
〈俺は、何を焦っているんだ……〉
ザインは心の中で呟く。勝負を焦る理由は何かである。答えはもう出ている。アインリッヒを兄のような無惨な死に追い込みたくない。ただそれだけだ。そうなると限ったわけではない。現にアインリッヒは、鎧を使いこなしている。
ザインは、剣の輝きを消す。そして、一つ深い呼吸を入れる。その時、アインリッヒは、ザインに背中を寄せた。冷たい鎧の向こうから、彼女の温もりを感じる。
「その、なんだ。生き抜けたら、キスしてやる」
己の性別に酷くこだわりを見せるアインリッヒが、渋々言う。ザインが弱気になっているのがわかってったのだ。それは、彼の言葉より、波長でわかるのだった。その波長は動きにでている。単純な言葉では、励ましにはならないのだ。だとすれば、今はそれしか言葉が出なかった。
「え?マジ?」
心身が疲れ切っている事すら忘れさせる程、ザインの声は生き生きしていた。驚きのあまりに周囲への警戒すら、忘れてしまった。
「し、仕方がないだろう!私の頼みを聞いたばかりに、お前をこんな事に巻き込んでしまった。それに……」
照れながら小声で一気に喋るアインリッヒ。相当な照れと自分自身のしていることの矛盾が感じられる。
「それに?」
「それでお前の励みになるなら……」
それは、ザインを励ますと同時に、決して真っ先に自分から逃げ出そうとしなかった、ザインへの礼の意味も含まれていた。
ザインはもう一度深呼吸をした。そして、クスリと笑う。不安が消えたわけではない。だが、やるだけの価値はあると思った。美女のキスは、百億の金塊にも値する。
「奴らは強力だが、頭も悪いし、激しい動作での長期戦は、カラッキシダメだ。だから数で来る。固まっていたら奴らの餌になる。左右に揺さぶって攪乱しながら、確実に一匹ずつやる。走れ!!」
ザインが指示を出すと、アインリッヒは素早く立ち上がり、走り出す。ザインから一定距離を置いて戦うことにした。
二人が分散したことで、リザードマン達は、一瞬の戸惑いを見せる。二人の素早い動きのため、どちらを獲物にして良いのか、解らなくなったようだ。
〈俺の剣は軽い。オヤジにもよく言われたな。だが、速さなら負けない!切れ味もな!〉
「一撃必殺」。そう呼ぶに相応しい、華麗さとしなやかさを持ったザインの剣、そこには先日見せた豪快さはなかった。軽い足裁きで、相手を好きなように翻弄している。
だが、アインリッヒはそうは行かなかった。剣の重さで相手を斬るが故に、その疲労が徐々に腕を侵し始めていた。
「まさか、彼らの表皮がこれ程の硬さを持っているとは……」
剣を振るう度に、甲冑の隙間から血飛沫が飛ぶ。
〈もう腕力には限界がある。踏み込みを強くして、体重で斬るか!?〉
アインリッヒは、上方からの斬りではなく、横からの凪中心で敵を斬る戦法に変えた。そうすれば遠心力で斬ることが、可能である。だが、後の体勢が非常に不安定のなるのも確かである。足場の悪さが、更に彼女の下半身をぐらつかせた。
「もうチョイだ!!踏ん張りどころだぜ!!」
タイミング良く、ザインが声をかける。その彼自身が、非常に息を荒くしている。先ほどの技のせいで、スタミナが落ちているのは、目に見えて明らかである。その説得力のない状態で、アインリッヒを励ましている。思わず笑いたくなってしまうアインリッヒだった。
薄れかけた集中力を再び取り戻そうと、強く踏み込み、目の前の敵を斬ろうとしたアインリッヒは、剣を振り抜いた瞬間、その重みに耐えかね、バランスを崩し大地へ倒れ込んでしまう。
コレまでか?!目の前が真っ青になったアインリッヒ。その瞬間。
「エクストラ・ソウル・バーン!!」
ザインの叫ぶ声と共に、周囲が眩しく輝く。フェイスガードの隙間から入り込むその光でさえ、目を眩ませる。そして、その輝きが消えるまで、数秒かかる。周囲が急激に静まったのを感じると、再び目を開ける。
そこには、ザインの背中があった。それ以外何もない。残っていたリザードマンの姿もない。
「はぁはぁ……、ダイジョウブか?」
ザインが振り向く。酷く疲れ切った顔をしている。そこには疲労以上のものを感じる。恐らく技のせいだろう。だが、破壊力も相当なものだ。
周囲を取り囲んでいたリザードマンの姿はない。アインリッヒに襲いかかっていた一団が、最後だったのだ。
ザインに手を差し伸べて貰う事も無く、立ち上がろうとしたアインリッヒだったが。
「痛!どうやら、膝を捻ったらしい……」
倒れたときに、重みに負けたようだ。重装備の欠点が顕著に現れた結果である。
「そっか……、んじゃ、少し楽にした方が良い」
ザインは、最初に鎧を脱いでおけと、アインリッヒに念を押していた。だが、彼女はそれを聞かなかった。その結果なのだが、ザインは責めない。次から注意すればよいことだと、考えている。もし、止めないのなら、己に説得力がなかった責任であると、考えていたのだ。
敵の気配を感じなくなったアインリッヒが、兜を脱ぐ。
「脱ぐか?」
ザインが手首関節にある鎧のジョイントを外そうとする。彼女の身の負担を少しでも軽くするためだ。
「ああ、頼む」
疲れ切ったアインリッヒは、蟠り一つなく、自然にそう言えることが出来た。ザインはコクリと頷くと同時に、丁寧にアインリッヒの鎧を脱がせて行く。
ふとしたタイミングで、疚しいことをしているわけではないが、脱がせるという行為に、どことなく卑わいさを感じた。
アインリッヒの手は、血に塗れていた。全て血豆がつぶれたためである。
腕のパーツを外し、上半身を脱がせ、下半身も脱がせ、暑苦しい鎧から、少しずつアインリッヒを解放して行く。
鎧を脱がされたアインリッヒは、殆ど下着同然である。鎧は彼女のオーダーメイドのようだ。すべて彼女の身体にあわせて作られている。鎧の内装が、裏地がついており、アンダーウェアを兼ねている。
汗のため、下着姿同然の彼女のボディーラインは丸見えだ。ただ、晒しを巻いているのが、どことなく残念である。
ゴクリと唾を飲むザインに、どことなく軽蔑の入ったアインリッヒの視線が突き刺さる。
「あはは、冷えちゃまずい」
ザインは上着を脱ぎ、それを。アインリッヒの肩に掛ける。そして、中着の袖を破り、適当な枝を拾い、彼女の膝を固定する。
「痛いか?」
「ああ、少し、だが我慢できぬものではない」
「そうか、んじゃ……、一休みして……、みんなの……所に……」
と、そのときザインがフラリと白目をむきながら、アインリッヒの方へとしかも、ちょうど胸元へと倒れ込んでくる。
「こら!ザイン!何を!!……、ザイン?」
焦り。
それ以外の感情は彼女になかった。抵抗することもままならない。だが、実際には、ザインが彼女の貞操を奪おうとした訳ではなかったのだ。
「グガー……」
疲れ切ったザインは、アインリッヒの胸の内で、すっかり眠りに着いてしまう。本人には、全く悪気はない。彼女の「女扱いはよせ」と言う主張も、守りたいつもりだった。だが、緊張感のゆるみと極度の疲労が、ザインを眠りに誘ってしまったのだ。
「仕方がない奴だ。あれほど女扱いはするなと、言った筈なのに……」
今までとは違い、沸き上がる怒りは、何だか中途半端なものだった。悪戯小僧のような顔をして眠っているザインの頭を、軽く撫でる。
「そうだ!ザイン目を覚ませ!!」
アインリッヒが、何を思い出したのか、ザインの頭を両手で掴み、思い切り左右に揺する。
「ん?あ、ほぇ?」
自分が寝てしまった事にすら気がつかなかったザインは、重そうに瞼を開け、自然に声の方向に目を向ける。そこには忠告をしそうな、アインリッヒの顔がある。そして、自分が彼女の胸の中で寝ていたことに、不意に気がつくのだった。
「わ!悪い。そんなつもりじゃ……」
「解っている!そうじゃない。生き抜いたときの……、約束だ……」
そう言いながら、アインリッヒは、頬を赤らめながら、視線を背ける。その義理堅さに、ザインは目をパチパチッとさせる。
「何をしている!!はやくしないか……」
彼女のこの性格だ。自分を女視する男共を、幾度と無く殴り倒したことだろう。グレートソードを振り回す力であるから、そのまま泣き帰った男もさぞ多いだろう。ザインはそんなことを考えた。つまり純潔も良いところである。
「お、おう!」
何故かガチガチになるザイン。そして、再びゆっくり彼女の上に重なり、その頬に手を介添える。
「え?違う!!ザ……」
「え?」
二人の唇が強く重なった瞬間だった。アインリッヒは大きく目を見開いた。何がどう違うのか解らなかったザインも、目を開いている。その視線が、一センチの至近距離で交わる。
今更もう遅い。ザインは、暫く彼女の唇を愛し続けた。その眼は男が女を愛するときの独特の潤みを含んでいる。アインリッヒはその独特の潤みに負けてしまう。ゆっくり目を閉じ、重くのし掛かるザインの背を抱く。彼の暖かさが、不思議と心地よかった。
ザインの手は、彼女の頬から遥か下へ、つまり彼女の下着に掛かった。だが、すぐに手を離し、キスを止めてしまう。このキスは、あくまで彼女の報酬なのだ。それ以上を求めることは、あまりにも男性の本能に任せすぎた行為である。
だが、アインリッヒは、頬をバラ色に染めたまま、目を閉じ、柔らかく唇をザインに差し出したまま、ウットリとしている。そしてこう言った。
「もう……終わりなのか?」
次の瞬間の期待を込めてなのだろうか、それとももうしばらくの間と言う意味合いなのだろうか、どちらにしても憩いの場所にしてはあまりにも血なまぐさすぎる。
だが、何時までも目を閉じているアインリッヒに、ついつい手を出してしまう。
〈ま、いいか……〉
今度は、彼女の背を抱き寄せ気味に、雰囲気のみで彼女の唇を奪う。
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