第五章 その⑧ 失意のなかで
プリムラ姫と別れた後のことは正直あまり覚えていない。
その日はパブで一人ずっと飲んだくれていて、多分誰かと殴り合いをした気がする。
次の日は、ひどい二日酔いとヒリヒリとした右頬の痛みで目が覚めて、夢遊病患者のように、ふらふらとハボターナ行きの馬車に乗り込んだ。
馬車の中、何度も何度も嘔吐を繰り返した。
胃が空っぽになり、吐くものが無くなっても、涙と鼻水だけはぐしょぐしょに溢れた。
ハボターナに着いたのは、姫様と別れて四日後の午後だった。
俺は死人のように街をさまよい、リリィさんの画商に到着した。
リリィさんは俺を見るなり、食事と飲物を用意し、その後、部屋のベッドに寝かしつけた。
意識がはっきりしたのは、五日目の朝だった。青臭さと香ばしさが同居する香りに目が覚めた。
一階に降りると、リリィさんはせっせと何かを煮だしていた。ダークエルフ汁だった。
俺が寝ぼけ顔で、椅子にボーっと座っていると
「さぁ、飲め!」
と、命令口調で促したため、俺は言われるがまま、ダークエルフ汁を飲んだ。
「うぇっ」と言葉が勝手に出る。以前、飲んだ物とは違い、とても強い苦みと、雑草のようなえぐみが口いっぱいに広がり、否が応でも脳が覚醒した。
「どうだい? それが本物のダークエルフ汁。不味いだろう? だけど、ちょっと元気をもらえるよ」
リリィさんがニシシと笑いながら、俺の対面に座った。
「ハハハッ……はは……ううぅぅ……」
彼女の優しさに触れ、俺は大泣きした。
それを何も言わず、見守ってくれているリリィさんの気遣いが心に響いた。
しばらくして、涙が収まった頃合いを見て、リリィさんは質問を投げかけた。
「それで、どうしたんだい?」
俺はこれまでのことを洗いざらい話した。誰かに聞いてほしかった。
初めて、プリムラ姫に出会って衝撃を受けたこと。
彼女と城を抜け出した時のこと。
剣技訓練の日々やゲルセミウムとの試合。
ダンスレッスンに、舞踏会での出来事。
プリムラ姫に恋をして、そして彼女のためにプリムスを去ったこと。
……俺が異世界から転移してきたこと。
「ふーん。なるほどね」
リリィさんは、納得した様子だった。
「だから、君の絵は発想がブッ飛んでいるわけなんだね」
「信じるんですか? 俺が転移者だってこと」
「君の絵を見せられたらねぇ。あの発想は、現世界から飛躍し過ぎている。この世界の人にとっては、完全に無からの発想で、誰も描けはしないと思っていたんだ」
「俺の絵のカラクリがわかって、がっかりしましたか?」
「はっ? なんでさ?」
「だって、俺の絵は別の世界で見てきたものを、単純に切り取っただけなんですよ? 新しい発想もインスピレーションも無い」
「それがどうしたのさ。確かに君の絵はトレースかもしれない。でも、ボクはキミの絵に光る才能を感じたよ」
「どうせ絵の技術でしょ? 元の世界で散々言われ続けましたよ」
「いや違う」
「絵を愛する才能だ」
「君がこの世界に迷い込んで、右も左もわからない、明日とも知れない我が身なのに、まず考えたのが絵のことだった。
物事の判断基準が絵。感情表現も絵。何をおいても絵が先にある。ボクの画廊を立て直してくれたのも、ボクのためでもあったと思うけど、この世界で絵を描き続けていくためだったんだろう。
そんな君の絵が、見てくれだけの空っぽな絵のわけが無い。君の絵にはどれも、絵への愛を感じるよ」
リリィさんが「ふぅ」と、一呼吸置き、背を正して伝えた。
「いいかアヤト、画家は肩書じゃない、生き方だ。この世界で君は、胸を張って堂々と画家を名乗ればいい。ボクが許す!」
リリィさんの激励に、胸をすく思いだった。
ずっと気がかりだった。実は、俺の絵は空っぽなんじゃないのかって。
この世界で、ただ物珍しいから自分の絵は評価されているんじゃないのかって、心の隅でいつも感じていた。その心のつかえが降りた。
「ありがとう。リリィさん」
また涙が
――*――
リリィさんの激励は、俺の心にまた動き出す力を与えた。
まだ本調子ではないが、ハボターナの街を散策するぐらいの気力は戻った。
「そこの兄ちゃん。串焼き喰えよ。うめえぜ!」
明らかに家畜の肉、では無い。
「この首飾りなんて愛人にどうでぇ?」
たぶん盗品。しかも偽物だろう。
多少強引な客引きもかわしつつ、街を散歩する。
街の荷卸し場には、ラクダのような生き物に乗り砂漠を超えてきた者や、旅の準備をしているキャラバン隊、そのキャラバンが所有するバジリスクのような生き物が水を飲んで待機している様子はプリムスでは見られない新鮮な光景だった。その近くで、旅人達が商品や輸送費の値段交渉に、口角から唾を飛ばすほど激論を交わしている姿も見受けられた。
相変わらずカオスな街だ。ただこういう時は、落ち着いた街並みよりも、雑多なこの街の方が気が紛れる。
「ちょっと、そこ行く兄さん」
薄暗い裏通りを歩く中、奇妙な女性が俺を名指しして手招きした。
フードを被っており、口元もスカーフで覆っていた。占い師のようだ。
声はしゃがれていたが、顔が隠れていたため、若いのか年寄りなのかわからなかった。
「あんた、悩み事があるね」
悩み事の無い人間なんていない。
こういう誰にでも当てはまる言葉を使って客引きなんて古い手口だ。
「急いでいるんで」俺は無視を決め込んだ。
「敵わぬ恋に苦しんで、逃げたはいいが、途方に暮れている」
「なんでわかったんです!」
俺はかぶり気味に喰いついた。
「切り替え早いな……。えぇっ……と、ホラここに座りな。お前がどうすればよいか教えてやろう」
占い師様の言われる通り、そそくさと椅子に座った。
「それで俺はどうすれば良いんですか?」
「そんなにせっつくな。これでばっちり教えてしんぜよう」
占い師様は、紫色の丸い水晶の玉を持ち出した。
「水晶占いですか。ベタですね」
「これはそんじょそこらの水晶じゃない。魔石水晶と言ってな。魔物からごくわずかに生成される魔石を加工して、作られたものだよ。ほら、ここに手を置いて」
「こうですか?」
右手を水晶玉に乗せると、占い師はその手の周りに手をかざす。すると、プロジェクターから映し出されたような映像が目の前に現れた。
映像に写された内容は、数日前に振った女性の顔だった。
「ほぅ。ずいぶん美人なお嬢さんだね。立ち振る舞いも気品がある。ひょっとして王族かい?」
占い師の質問に無言で頷く。
「なんだか、王族に似つかわしくない恰好をしているね。しかも騒がしい」
確かにどういう理屈なのか知らないが、魔石水晶はプリムラ姫の今の状態を映し出している。
占い師が言っていた「王族に似つかわしくない」というのは、彼女が軍服を着ているからだ。
周囲の騒がしさは、ゲルセミウム王子と対決した
「これは真都の武術大会?」
「そういえば、そんなことを催すとか噂があったね。王族も金にならん
彼女の愚痴を聞き流し、質問を続けた。
「なぜ、こんな光景が浮かぶんですか」
「魔石水晶は人の願望を映し出すと言われているのさ。お前の願望はこのお嬢さんかのう?」
映像のプリムラ姫をじっと見た。
プリムラ姫は現在、試合中らしい。相手の王族は手練れだが、プリムラ姫には遠く及ばない。
しかし、予想外にプリムラ姫は苦戦を強いられていた。姫の動きは精彩を欠き、堂々とした勝負度胸も特有の覇気も感じられない。俺は映像にかじりつき、試合の成り行きを追った。
数分後、プリムラ姫は辛くも勝利した。だがその顔に笑顔はなく、喜びのかけらも感じられない表情だった。
「これ、リアルタイムの映像なんですか?」
「さぁな。未来の映像かもしれんし、過去の映像かもしれん。夢まぼろしの可能性もあるね。ヒヒッ」
「占い師なのに、わからないんですか」
「おいおい、勘違いしなさんな。人の願望を映し出すと言っただろ。それはお前が、このお嬢さんをどう思っているかによるのさ。水晶に手を乗せた時、このお嬢さんに惨めな目にあってほしいと思ったのか、苦労するだろうなと思ったのか、冷静に未来を予想したのか」
占い師の言うことは、どれも違う。俺はプリムラ姫のこんな姿を見たいなんて絶対に思わない。
「このお嬢さんが、今、何をしているのかを切実に知りたかったのか」
そうだ。俺はプリムラ姫が今どうしているか知りたいんだ。
「それにしても、あんたも王族に恋をするなんて、身分違いも甚だしいね。さすがに無謀な恋に出せるアドバイスは無いよ。ホラ、商売の邪魔だから、どっか行っておくれ」
商売にならないとみた途端、手の平を返す占い師に、俺はしぶしぶと立ち去った。
どうしたんだ姫は。いや……どうしたもこうしたも、ああなったのは俺のせいじゃないか。
だけど、俺にはどうすることも……。
嫌な予感に胸騒ぎが止まらなかった。
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