0004 理由のある人々
息を飲む。
頭を切り替え、跳びつくだろう犬に、腕を噛ませることにする。
警察犬の特訓で犯人役がやるあれだ。
そう想像して、左腕を曲げて出したのだが、犬の跳躍は腕を飛び越えて喉元に迫った。
「ウオッ……!」
この動きに、十桜は背中をのけぞらせて急所を外させた。
レベル1にして「ダンジョン酔い」という最悪の状態。
普通なら、避けられるわけがない攻撃を十桜は避けた。
ほんの少しだけだが、魔犬の動きが徐々にスローになって視えたのだ。
これも、十桜の特殊さが為せる技だった。
この動きで急所への一撃は逃れられたが、魔犬の左足は、
(痛てェッ……!!)右目の端辺りを引っ掻いていた。
(……なんだ!? 凶悪……)
禍々しく赤く輝く前足だった。
魔犬にこんな特徴があったなんて、十桜は知らない。
片目は、傷口から流れた血で見えなくなり、もう一方の目は見開いたまま背中から倒れ込んだ。右目は塞がれたが、幸い意識ははっきりしていた。
もし、脳震盪を起こして気絶したなら、そこで噛み殺されてジ・エンドだ。
といっても、運がよければ、一回はギルドがタダで生き返らせてくれるのだが。さすがに死にたくはない。
母のくれた原付きのヘルメットが十桜を守ってくれたのだ。
目の方も、流血量の割には痛みはそれほどでもない。
切れたのは肌だけで、傷は眼球にまでは達してはいないようだ。
攻撃が喉元に来るなんて、これは痛恨の一撃、というやつだろうか? それを、自分は避けてしまったのだが、などと、十桜はのんきなことを考えていた。
耐性が高いとはいえ、顔の傷は痛みが増してきてズキズキとしている。
血は止まらずダラダラ流れている。
「グルオオォ――ッ!!」魔犬は唸りながら十桜の上に覆いかぶさった。
牙が喉元に迫り、十桜は咄嗟に腕を出して噛ませる。
魔犬は、ガードで出した腕を引き剥がそうと、よだれを垂らしながらアゴをしゃくっている。
そいつを跳ねのけようにも見た目以上に重くて動かない。
それに、噛ませている腕よりも、赤い左足の爪が、右肩にズブリとめえりこんでいる。
(痛ってえ……ッ!!)
これが地味に効いていた。
スコップで、ヤツの頭や背中を殴るが攻撃がうわずっている。
寝ている状態からでは力がはいらないのだ。
(詰んだ……)
スコップを置き、救援の狼煙を取ろうとポケットに手を伸ばす。
付け根を押さえられている右手で左側のズボンポケットをまさぐるのできついが、なんとかソレに触れて、これで助けが呼べる。
そう思ったとき、ある変化に気がついた。
目を開けている状態でも世界が回っていないのだ。
気持ち悪さも治まっている。
目眩が消えていた。
同時に、視えていたマップは減っていた。全体の六割にまで増えていた地下一階のマップは、半径三十メートルにまで狭くなったのだ。
マップ情報はさみしくなっても、魔犬の情報は充分集まっていた。
「ッ……一分……ぐらいか……」
『今』ある情報がリアルタイムに更新されてゆく。
魔犬の一部分に筒状に伸びる明かりが視える。
『今』どうすればいいのかがわかる。
救援の狼煙を取ろうとした手は別な方向に動いた。
それは、拳となって魔犬のアゴを殴りつけたのだ。
「ボクンッ」と乾いた音が鳴る。
噛まれていた腕が軽くなる。
黒い魔物は、傍らに倒れた。
ソイツは脳震盪を起こしたのだろう。
「あっ……つい、やっちまった……!」
無意識だった。
ゲームのチュートリアルのように、
『ここで○ボタンを押せ』
といわれたので押した。
そんな感じだった。
もう少し戦闘を引き伸ばしてダメージを受けたかった。
だが、あのまま殺られるよりはよかった。
「勝っちまったなあ……」大きく息を吐いた。
(まあいい、怪我はしたんだ。これで帰れる……)
十桜はスッと立ち上がった。
自身のステータス表記には『ダンジョン酔い』が消えていない。
なのだが、立ち上がっても目眩はなく、身体が軽い。
引きずっていた重いスコップも、重いままだがほんのり軽い。なぜだろうか?
「ま、いっか!」
さあ帰ろう!
と血だらけになっているスウエットの部分部分を見た。
(いや……)
左腕、右腕の付け根、目端の傷。
ソレだけじゃあ母ちゃんはごまかせない。
十桜の母は、骨折したままでも家事をこなすタイプの主婦だ。
家族から止められて、やっと家事を休む。
なので、母は怪我には甘くないのだ。
HPもまだ五分の三残っているし、気絶している魔犬を起こして、もっと派手にダメージを受ければいい。
その後、ソイツを倒せば、宝石も手に入り一石二鳥だ。
(よしっ!)気持ちを固めたら、ソイツのステータスが眼にはいった。
(あっ……いや……)
(まあ……いいか……のんびりさせてやろう……)
十桜は、目を閉じて横たわる魔犬をながめながら、横を通り過ぎようと一歩二歩と歩いた。
そのときだった。
魔犬の体が、
「えッ……!?」
沈んだ。
「ウソッ……!?」
魔犬の黒い体が、ダンジョンの、石畳の床に音もなく沈んで消えたのだ。
その消えた部分に楕円の影のような黒いものだけが残り、その影のようなものは、スーっと通路を移動して、角を曲がり見えなくなった。
「な、んだそりゃ……!?」十桜は開いた口が塞がらなかった。
モンスターには、【特殊個体】に分類される【エクストラ・モンスター】というものがいる。
【戦斧の男】といい、連続でそれに出会ってしまったのだろうか。
(……いや、戦斧の方はなんか違う気がする……不自然っていうか……)
(……こいつは、前足超赤かったし……)
しかし、いまの、『気絶したまま床に沈んで消える』という現象は、エクストラ・モンスターにしても不可解すぎる。
移動する影は、青白い眼には反応がなかった。
(別のモンスターの特殊な能力かもな……)
(まあ、広義で言やあ、戦斧もコイツもエクストラ・モンスターだよな……)
(ああ~……やっぱダンジョンはすげえよ……!!)
自分の超強力な能力でも、感知できないものがある。
それも、そういうものが地下一階の、入口からそう遠くはない場所に出るのだ。
十桜は身体がブルっと震えた。
なんにしても、あの《動く影》を追う気にはなれないので、他のソロモンスターに近づくことにした。
今度は、揺れることのないいつもの姿勢で歩ける。
だが、目眩が完治したわけでもないので壁際を進んだ。
かと思えば、ムニッとなにかを踏んだ。(うわッ!?)その瞬間、跳びのいてた。
踏んづけたものは犬の人形だった。
といっても、顔が犬で、体は『中世西洋』といった感じの服を着た人の形をしていた。二・五等身くらいのかわいい感じのものだ。
「なんだ……ビビらせやがって……」床の人形をじっと視ても、なんの情報も更新されなかった。
(地上のモノか……誰かの落とし物)
(ゲームだったら絶対拾うけど……実際は拾う気になれんよな……)
(罠ってことはないだろうけど……俺のスキルでも視えないものがあるからな……)
十桜は、後ろ髪惹かれながらも、犬の人形にそれ以上触れずに歩きだした。
(ゲームってとりあえずなんでも拾うじゃん? タネとかパンとかペンダントとかさ……けど、リアルに考えてみろよ、ありえないよな……)
(いや、リアルに考えたら、モンスターと殺り合うのも……いや、それはダンジョン適応が解決してるんだった……適応値激低くだったら、そもそも冒険者になれないから、こんなことにはなってなかったのにな……)
(ていうか、俺より母ちゃんの方がダンジョン適応値高いぞきっと……クラス:アマゾネスとかだよありゃあ……)
そんなふうに、ごちゃごちゃ考えて歩くが、
「う~ん……」
あの犬の人形が妙に気にかかかる。
(……いや、まさか、アレ、貴重なアイテムなんじゃ……いやいやいや、それは夢見すぎでしょ、三杉淳でしょ……)
こころのなかでぼやきながら歩いていたら、
(うわっ……)
「草……」床に草が落ちていた……
それをじっと見つめると、情報は更新され、傷を治す【薬草】だとわかった。
(まあ、わかるけどさあ……)
薬草には、手を付けずに歩を進めた。
ソレは、派手な怪我をしたい自分には無用なものなのだ。
(まて……もし、本気の冒険者やってたら、拾うのか……?)
ネットでは、拾う派と拾わない派が地味に議論を白熱させているのは知っている。
ギルドには、遺失物係もあるから、そこに届けるという選択もあるが……
(いや……もし、俺がピンチでカツカツだったら拾う……そうじゃなきゃスルーだ)
(……人形は届けてもよかったかな……帰りにあったら拾うか……)
グループモンスターを避けながら、とぼとぼと道行くこと十分少々。
十字路にかかった。
真ん中、肉眼で確認できる距離にスライム三匹。
左折は魔犬二匹の気配。残る右折は、十桜がジッと視ていた右側のそっちから、
「けてェ――ッ! イヤァ――」という悲鳴が聞こえた。
しかし声は、はじまりも終わりも不自然にぶつ切りだった。
その前後の余韻がまったくないのだ。
完全防音の部屋の扉が開いて、外の音が聞こえたかと思えば、すぐに閉まって無音にもどったかのような、そんな悲鳴だった。
(……音を消した。悲鳴を消したのか……空間のな……ハァ……)
犯罪のにおいしかしない。
(しかしなぁ……)
「なんで俺なんだよ……」
三方向に分かれている通路のなかで、こっちの、右側のを選んだのは自分だ。
それはひと気のない場所の方が『半殺しになりたい計画』が成功しやすいから、という理由があってのことだ。
犯罪かもしれないことに近づくためじゃない。
なのだが、考えてみれば、「ひと気のない」という場所は、それなりの理由がある人間が来るところなのだろう。
自分しかり、ソイツしかり、もう一人の存在しかり……
十桜は大きなため息を吐くと、透けて視える右ななめに顔を向けた。
0004 理由のある人々
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