窮鼠
北緒りお
窮鼠
この家には鼠が2匹いる。
物心ついたときからこの家にいるが、もう一匹が兄弟なのかどうかは判らぬ。ただ、いままで一緒にいたのだ。
仲間は多ければいいのだが、そうもいかない。この家には人間が食べるための食料以上の余裕がなく、俺たちの食い扶持まで回ってはこない。
太陽が屋根を照らし、藁葺きの中からなま暖かく蒸れた、黴と土のにおいの混ざったようなにおいが降りてくる。昼日中といえどもほとんど明るくなることもなく薄暗い中にどれぐらい降り積もったのか判らぬ塵や芥がかまどの煤でいぶされぬめりきった照かりのある梁の上で俺たちは暮らしている。梁の上は歩き回るたびに足の先に松ヤニみたいなべたべたがまとわりつき、寝床に戻るたびに毛繕いをしなければならない。寝床は屋根を葺いている藁を何本か引っこ抜き、隅に寝床を作っている以外、特に人間の家にはなにも手を加えていない。
俺たちの生活があるのを知ってか知らずか、人間どもは梁の下にいて、そこで起きたり寝たり食べたりをしている。
ぼろ屋なのが幸いし、出入り口を作る必要もなく、藁葺き屋根から表への出入りは自由であるし、そして台所にも簡単に降りられる。毎日使っているにしては冬の野原のような台所に降りたところで食べ物があるわけではないのだけれども。
俺たちの生活は単調だ。
巣で丸くなり前足で鼻の頭をなでながらまどろんでいるか、物陰から物陰へ渡り歩きながら食べ物を探しているかのどちらかだからだ。
家の中に食べ物がないのは承知の上でこの家に居続けている俺たちは、大概の場合食べ物は表に取りに行っている。
藪の中に入り柔らかく実ったアケビに頭をつっこみ熟した果実にずぶずぶと前足をめり込ませながらかじり、笹藪では生え立ての笹をかじり鼻の奥へと滑り込んでくる青々しい香りと前歯に感じるサクサクとした感触を楽しみながら腹を満たしている。
梁の下にいる人間よりはだいぶいい生活をしていると言っていいだろう。
人間どもはつがいで暮らしている。雄は畑仕事をして、雌はそれを手伝いながら台所でなにやら煮炊きをしている。
こっちからは向こうのことが判るが、向こうはこちらのことは判らない。
向こうがこちらに気づくほど家にいないからだ。
事情の変化は人間の生活の変化がきっかけだった。
人間の雄の生活が変わり始めた。
畑仕事をする日が減り始め、その代わりに仲間とどこかに連れ立って出かけたかと思えば、そのまま仲間を連れて家に戻り、声高に話し合ったりしている。
なにをしているのだか判らないが、人間どもが寄り集まってなにやら話している生臭い人いきれや雄の仲間たちからわき上がる脂臭い熱気が、どうしようもなく気持ち悪く、そういう日は家に戻らず近くの立ち木のうろに入り朝を迎えることもある。
人間どもの話は抑揚が強く落ち着いて寝てられない。ぼそぼそはなしていたかと思えば、なにをきっかけにしてなのか突然立ち上がり、勢いよく吼え始めたりする。「キンノウ」だの「シシ」だの「トウバク」だのの言葉がきっかけになり吼え始始めることが多いのだが、そういう言葉を使い騒ぎ始めたかと思うと、何かにおびえたように突然静かになったりするのだ。
雌の方はというと、それを良しとしているらしく、雄が畑にでないことをなにもいわないでいる。ただ、雌一人で畑を切り盛りするには無理があるらしく、ここ最近食べ物がめっきりと少なくなっている。
前であれば、畑でできた大根のほかにも夕餉には魚が乗ることもあったのだが、最近ではそれもなく、豆や稗など米以外をぼそぼそと食べていることが増えた。
米がないのはつらいが、それ以上にやっかいなのは猫だ。
この家には猫が住み着いている。
人間が食べ残した魚の骨をかじったりしていたのだが、猫に投げ与えられる餌が少なくなってきたのか、家から離れて表で狩りをすることが増えてきた。
なにを思ってなのか、猫のやつは狩ってきた獲物を半死半生のまま雌の元に持っていくことがある。雀、蜥蜴、蝉、鳩、蛇。自分の食欲をあおられる生き物を見つけては半殺しにし、雌の元に届けていた。時として箒で追いかけられ、また、別のときには雄に首を押さえられ怒られてもやっているのだから、猫にとって何かしらの意味があるのだろう。
気に入らないのは鼠を捕まえて上機嫌になっている猫を見かけたときだ。
俺の仲間かどうかはすぐには判らないが、青年らしき鼠を虫の息になっているにもかかわらず弄び、加減して逃げられるかのような気配を作っておきながら逃がさず、じわじわと、音を立てずに歩き回れるあの足から爪を剥きだし、力尽きるぎりぎりまでなぶられているのだ。
ある鼠は肩の骨が砕かれたのか、両前足を引きずるようにして逃げ回っているところを尻尾に爪を引っかけられ、いつまでたっても猫の前から離れることができず、勢いをつけて逃げようとしたところを首を押さえられ、また、ある鼠は骸になっているにもかかわらず、そのコロコロした肉体が猫の心をくすぐったのか、いつまでも足で引っかけては頃がされ続けていた。そのうち、血の気を失い白くなった足がもげ、それでやっと遊ばれ続ける辱めが終わったのである。
猫にとっては一時の食事である以前に、おもちゃのようなものとしてみられているのかもしれない。
俺の住処には猫はやってこれない。
梁の上まで上ってくるには奴の跳躍力では足りず、柱に爪を引っかけ駆け上がろうとしては人間にはたき落とされている。
この家にとって猫は隣人にすぎない。人間は自分たちの生活でやっとであり、日々の労働がそのまま食事に結びつき、労働がかけることはそのまま食事が事欠くことになるのである。
その生活の中で、猫を家人として迎えるようなまねはできるわけはなく、できることといえば、どこかから調達してきた魚を皮一つ残らず食べ尽くした後、猫に骨を放ってやるぐらいのものだ。
それでも猫にとっては居心地がいいのかよそで食事を恵んでもらったりして腹が満たされると、わざわざこの家までやってきて日当たりのいいところで寝ていたりする。
よそで食っていけるならそっちに行っていればいいのに、目障りな奴だ。
人間の生活はこのところあわただしく動き回っている雄を中心として動いている。ほとんど色の付いたお湯のようになっている貧相な雑炊をすすったかと思うと、勢いよく表に飛び出しては夜遅くまで帰らない生活を繰り返している。
雌はほとんど寝ることもなく、食うものも雄にやってしまって動いている有様だ。
だんだんと台所からは食べ物のにおいが消えていき、お湯と根菜と、時々混ざる豆のにおいがほとんどになった。
食うものがなければ俺たちは引っ越していけばいいだけなのだが、そうは許さない事情ができてしまった。
猫の奴がなにを勘違いしてか、この家に入り浸るようになり、迂闊に動けなくなったのだ。
雄のいない家の中、雌の方は畑仕事の合間に猫をなでたり声をかけたりしている。食べるものもろくにやっていないのだが、ときとしてわら布団の中に招き入れてアンカ代わりにしているようだ。
それで猫の奴が調子に乗って住み着いているのだ。
あいつがいるせいで表にでるのもやっとになっている。
俺達がいくら素早く動けるといえども、地べたをかけているときには猫にやられるからだ。
俺たちは太陽が沈むのを待って暗がりの隅を這うように雑木林に出ようとしているのだが、家に居着くようになった猫に見つかりもう少しのところで猫の爪に引っかけられそうになることが増えたのだ。
この食い物がない家の中で出ることもままならなくなってしまい、木と土と藁で形を保っているだけの箱の中から逃げ出せなくなってしまったのである。
食うものはないわけではない。屋根に登れは天気のいい日には小さな草が芽吹き、雨に浸され続け泥のようになった藁の隙間から清流のような黄緑の新芽をのぞかせることもある。一口かじると歯の先には柔らかく太陽に浴び続けてその内側あふれるような青臭い新芽の感触を味わい、薄暗い梁の上にはない白ずんで風景が見えるような天気のいい空の下で食事をすることになる。
ほとんど命がけである。
俺の薄い皮をかぶっただけの肉体は、食事の風景を空から見られてはいないか震えながら食べなければならない。
フクロウやミミズクはもとより、モズなんかに見つかるとカマキリの卵みたいに枝の先に刺されてしまい、そのまま冬まで忘れ去られてしまうのである。
命を張ってまで屋根に上ったところで腹を満たすには頼りない草々をかじらなければならないのだ。
屋根に上るよりは、と家の裏から雑木林をもう一匹の方がかけていこうとしたところで事件は起きた。
猫におそわれたのだ。奴の不注意なのかもしれないし、猫の奴の打算が見事に的中し奴の前をもう一匹の方がかけてしまったのかもしれない。
やつの耳には猫の爪がたてられ、薄く平たく頭にくっついている耳を破ってしまったのである。
痛くないわけではないのだが、奴にとっては耳を失ってもいいから逃げなければならないという本能から、奇跡的に片耳の半分を猫の爪に奪われながらも逃げてきた。
やっとの思いで梁に上ったかと思いきや、目も合わせずに隅の方に行ってしまい、数日の間は巣材の中で丸くなっているだけであった。
時々気になって見てはいたのだが、寝返りを打つついでに前足で耳をなでて、耳に触れた瞬間に背中に驚いたようなふるえを見せると、そのまま何事もなかったかのようにまた寝るという生活の繰り返しだった。
食べないでいる日が何日かあったせいだろうか、ぷっくりと弧を描いていて柔らかに全身を包んでいる毛皮を膨らせていた肉体からは、優しい曲線が消えていた。
あるのは緊張感からか鋭く辺りを見回し、そのまま二度と目を合わせようとしないで周囲を見つめる暗殺者のような目をした鼠だけだった。
一緒に梁の上を行き来していた幼なじみの面影は消えてしまったのである。
猫にとっては俺たちを捕まえられなかったのは何回ともある失敗の一つにすぎない。ただ、俺達にとっては生きるか死ぬかであり、このままじっとしてやり過ごすには代償が大きすぎるのである。
相棒は片耳を半分なくし、その耳の違和感からなのか、四六時中身繕いするようになった。
それを知っての事か囲炉裏の横で猫の奴は丸くなって寝ている。
片耳が三日月みたいになってしまった相棒と、なんの心配もないように寝ている猫。
俺の中で冷たい怒りに火が回りつつある。
奴との違いは体の大きさぐらいであり、何でもかじりとる前歯もあれば、人間が台所に仕掛けている罠をよける知能もあるのである。やり返せない事はない。
人間の雄はいよいよ畑仕事をほとんどしなくなり、やることといえば竹竿の先を斜めに切り、槍に見立てての訓練である。
梁の上から見ていて農民であったと思ったのだが、どうやらこの家の主は武士であったらしい。ただ、家の中を見回しても鉄でできているものといえば鍬の先だけであり、それこそ刀すらない続柄なのである。
仲間も似たようなものが集まっているようで、食うや食わずの輩が集まり、激しい言葉のやり合いや、そうかと思えば自分たちの発した言葉が身に災いを呼び込む言い回しだったのを察知したのか、急に怖じけ尽き小声でやりとりを続けたりという夜が幾日も続いた。
俺が見ても非力としかいいようがないこの家の主とその仲間で反乱を起こそうとしているのだ。この家の主がそうであるように、武士でありながらほとんど農民のような生活をしているものが集まり、ふらふらと考えを固めない上の人間に成り代わり意志を固め世を変えようとしている、らしい。
人間の言葉の中に頻繁に出てくる「キンノウ」であったり「シシ」であったりというのはおそらくそういうことなのだと思う。
人間の奴らが世を変えようとしているのだから、俺達のこの状況も変えられるかもしれないのだ。猫の奴のおかげでほとんど表に食料を取りに行くこともできず、ゆるやかに飢え死にを待つような状態から脱却するには人間同様、俺達を虐げる者に刃向かう以外ないのである。
猫の奴は日中、囲炉裏の縁で丸くなっていることが多い。
俺が囲炉裏にいる猫にできることといえば、相棒にされたように奴の耳をかみ切ることである。
家の中に誰もいない間を見計らって囲炉裏にまで降り、見回してみる。
いつもであれば隙間や何かしらの隅から陰と陰の間を渡り歩くように歩き回っているおかげで、家の真ん中から見回してみるということはなかった。
床の板には人間の垢や脂が染みこみ、鼻の奥をざらつかせるような臭気を放っている。その代わりなのか、毎日のように足で研磨され木とは思えないような艶やかな光沢を放っている。見回してみるとなにがあるわけでもなく、柱に囲まれた中に人間の身長ぐらいの箪笥が置かれているだけで、身を潜めたり梁に戻るのに使えそうなのもそれだけなのである。
つまりは、物陰から猫を急襲して柱から逃げ帰るか、梁から柱づたいに駆け下り、そして箪笥の裏の陰に隠れるかのどちらしかないのである。
猫はいつも寝ているようでいて、目を開けずに周りの獲物に感づくことが多い。
耳がいいのか、動く者がいないと思いこみ囲炉裏の食べ残しにありつこうとしたゴキブリの枯れ木のような乾いた足音を耳だけで察知し、捕まえたりするのだ。
いくら素早く動けるとはいえ、奴に足音を聞かせてしまうのは得策ではない。
最短で奴に近づくには箪笥の物陰に潜んでいるのが得策だ。
そうなると後は柱を伝い梁に戻るだけである。俺の足で上れないことはないのだが、やったことがないのである。
策が立てば部屋の真ん中でぼんやりしている必要はない。寝床に戻るために柱から戻ろうと勢いよく駆け出し、柱の半ばまで難なく上り一息で梁にたどり着けそうだと指先に力を掛けたときである。けたたましい叫び声が後ろから聞こえた。瞬発的に登り切れたからよかったようなものの、梁の上から見てみると人間の雌が俺の姿を見つけたらしいのだ。
台所で人間の食べ残しや食材を食べているところを何度か見られてからというもの、目の敵にしているのである。
さすがに雌が振り回す箒で俺達がつぶされることはないのだが、何かというと追いかけ回されているのだ。それが今まで見たことのない柱を駆け上がる俺の姿を見たものだからなおさら驚いたのだろう。俺が上った後、箒で柱を何度かたたいて威嚇していた。
その日の夜、雄の方に話したらしく、雄も箒で梁をたたいてきた。ただ、普段の掃除していない梁を箒でたたいたところでほこりや塵が舞うだけであり、俺達は隅で丸くなってやり過ごすだけなのだが。
猫は夜の間は家の中や表を歩き回っていることが多い。そして、昼は過ごしやすいところを見つけては寝ている。
人間がいると安心しているのか熟睡していることすらある。
猫の耳をかじりとれるのはその時だけだろう。
その日の昼下がりは、いつになく人間の雄が家にいて畑仕事をしたり、雌は気まぐれに猫をかまいながら囲炉裏端で縫い物をしている。猫の奴は足を体の下に入れるような座り方でうたた寝し、何事もない静かな午後であった。
こういうときは猫も気を抜いて寝ている。
ゆっくりと、猫もそうだが人間にも気づかれないように箪笥の裏から猫が見える物陰まで爪が床をたたく音一つたてずに近づく。梁の上で毛繕いしたはずなのに、全身の毛が逆立ったようなゴワゴワとしたざわつきが全身を貫く。
猫の頭がゆっくりと上下に揺れ始め、寝入り始めたらしい。
人間が立ち上がり、家の外へ出たそのときである。
俺は爪先から太股に全部の神経を集中し、猫へ一直線に向かっていった。
足音をたてると見つかってしまうので、足の肉の部分だけが床に着くように指先を持ち上げ、そして、前足と後ろ足は体を運ぶために全力で床を蹴り続けている。
猫の頭に駆上がり耳にかじりついた。
奴の耳の真ん中にかじりつき、前足で払おうが、頭をいくら振ろうが放しはしなかった。
口の中は猫の耳だ。芋の葉っぱのような厚みの割にはかみ切ろうとすると歯の先に堅い弾力がじゃまする。一発でかじりとって逃げてしまおうとしたのだが、こんなところでとまどうと思わなかった。
顎に力を入れ、こめかみが盛り上がり、前足を使い耳を引きちぎる。舌の先を刺激する耳に生えた毛が気持ち悪い。
ざらざらとした毛の感触に混じり錆をなめているような血のにおいが混じったと思うと、差の先にあった強い弾力がとぎれ、顎を思いっきりかみしめられるようになった。
猫の耳をかみ切ったのだ。
後は逃げるだけである。
前に通った柱に飛びつき梁に向かい一気に駆け上がろうとした。
半分以上上ったところで指先が柱をつかめなくなった。油を塗られたのだ。
重く甘い油のにおいを感じながら柱から落ちる。
柱の下には耳がかけた猫が俺を待ちかまえていた。
窮鼠 北緒りお @kitaorio
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