アネモネ

小林六話

アネモネ

 決して安易に入ってはいけない舘がある。ある人は、花のように美しい男が住んでいるという。また、ある人は顔が花に埋もれた化け物が住んでいるという。他にも、人の不幸を喜ぶ老婆、花が好きな少女、語る人間によって異なる人物がその舘に住んでいる。そんな人の立ち寄らない舘に、足を運ぶ少年がいた。少年の名前は団吉だんきち。数ヶ月前に舘の主に出会い、それ以来よくここに遊びに来ている。団吉は舘に入り、頼まれた饅頭を片手に大きな声で、舘の主に呼びかけた。

花一華はないちげさーん!饅頭ですよー」

 舘の奥から現れたのは、確かに美しく、花に埋もれ、異様な雰囲気を持つ男だった。


 花一華。この舘に住む男の名前である。顔の左半分に青紫色の紫陽花、右頬に夾竹桃きょうちくとう、頭に白膠木ぬるで、口から覗く舌には橙色の百合、首元には黒百合、着崩した着物の袖から出す腕には自身の名前と同じ花の花一華が咲いていた。そして、まるで顔を隠すかのように、左目は花に埋もれ、右半分の顔は包帯に包まれており、鼻と口しか顕わにされていない。腰まで伸ばされた髪は頭の頂上で結ってある。

「おやおや、思ったより早かったね。」

 余裕のある笑みを浮かべ、花一華は団吉に近寄った。

「花一華さん、また身体に咲く花が増えましたね。」

「もうすぐ、また別の花が咲くよ。」

 そう言って、花一華は傷一つない指を団吉に見せる。花一華の指には小さな芽が生えていた。

「今度はどんな花が、私の身体に咲くのだろうね。」

「何でそんなに嬉しそうなんですか・・・?」

「嬉しいに決まっているだろう。また、私の身体に花が咲くのだから。さぁ、饅頭を食べよう。」


 花一華は饅頭を食べながら、団吉に語りかけた。

「いいかい?人生とは花なのだ。例えば、ある女が恋をしたら、その女の心は『恋』という花言葉をもつ花を咲かす。しかし、その女が失恋してしまったら、心に咲いていた花は散り、代わりに『失恋』という花言葉をもつ花が心に咲くのだ。人は、人生の中で、心に様々な感情の花を咲かし続ける。でも、心の花に自我を喰われてはいけない。」

「わかってますよ。花呪病にかかるからでしょう?」

「その通りだよ。ある感情が強くなり、自身で抑えることができなくなってしまった時、心の花は人間の身体を喰うからね。」

「では、なぜ、花一華さんは花呪病にかかっているのに死なないのでしょうか?」

「ふむ、それは私が死の国に見放されてしまったからなのかもしれないね。」

「・・・・・はぁ?」



花呪病はなのろいびょう』。人間が心の花に自我を喰われてしまった時、心に咲いていた花が身体に咲き、人間を死に至らしてしまう病気。花一華もその病気にかかっている。大抵の人間を殺す心の花の種類は一つ。しかし、花一華の身体には既に七種類の花が咲いている。なぜ、死なないのか。花一華にもわからない。


「おや、また新しい花がこの舘に咲いたようだね。これは霞草だ。」

 花一華の住む舘には、土があるわけでもないのに花が至る所に咲いている。花一華曰はく、花呪病にかかった人間が亡くなると、死に至らせた花がこの舘に咲くそうだ。花一華は霞草に近づき、亡くなった人間の人生を覗く。花一華の表情が暗くなる。

「馬鹿な男だ。」

「どうかしましたか?」

「この男の人生を聞きたいかい?」

「いいんですか?」

「この男の汚い、自分勝手な心の話だけどね。」


 あるところに、近所からの評判も良く、気前のいいおしどり夫婦がいた。しかしある日のこと、夫は美しい女に会ってしまった。二人は惹かれ合い、何度も逢引をするようになった。しかし、正妻の妊娠が発覚し、夫は不倫相手の女と別れなければならなかった。夫の不倫は誰にも気づかれることもなく終わりを迎えた。夫は心の中で強く願った。『もう一度、彼女に会いたい。』と。長い年月をかけて、心の中でその感情を育て、ついに夫は霞草に自我を喰われてしまった。霞草は夫の身体を侵食していき、やがて夫は亡くなった。


「霞草の花言葉には『切なる願い』というのがある。この男は花呪病にかかるほど、不倫相手の女性に会いたかったのだろうね。」

「妻子もいて、世間の目もあって、ずっと心の奥底に閉じ込めていたんですね。」

「悲しいことだ。この男は不倫相手の女のことを想いながら死んだのに、妻はそれに気づかず、今も夫の死を悲しんでいる。彼女は生涯、夫の不倫を知らないまま、夫を思い続けるだろうね。」

「奥さん・・・花呪病にかからないといいですけど・・・」

「くだらなく、馬鹿げた人生だ。」

「ひどいことを言いますね。」

「私は人間の清い心をこの目で見たことがない。」

「それは花一華さんの目が見えないから。」

「見えなくしたのだ。私の目は人間の汚い心しか映さなかった。なら、潰してしまったほうが気が楽だ。」

「・・・・花一華さん、貴方はなぜ花呪病にかかったのですか?何の花言葉をもつ花に自我を喰われたのですか?」

「わからない。」

「では、なぜ花呪病にかかって亡くなった人間の人生が見えるのですか?」

「きっと私は人の人生を覗くことを、好いているのだろうね。」

「悪趣味な・・・・」

「だから、神から見放されてしまったのかな」

「花一華さん、自分に咲いている花の花言葉、わかりますか?」

「勿論だ。」

「教えてくれませんか?」

「かまわないよ、でも、今日は駄目だ。」

「そうですか、わかりました。では、明日またここに来ます。」

「そうしてくれると嬉しいな。」

「では花一華さん、失礼します。」


 団吉が去った後、花一華は自分の指にいつのまにか咲いていた花を見つめた。視力なんて、とっくの昔に捨てたはずなのに、花だけはなぜか見える。


「やっと、私の心の花が私を喰う。」


 花一華は舘を飛び出し、森の奥深くまで足を運んだ。 


 花一華の身体に咲いている花の花言葉。

 青紫色の紫陽花の花言葉は『冷酷』。

 夾竹桃の花言葉は『危険』。

 白膠木の花言葉は『知的』。

 橙色の百合の花言葉は『華麗』。

 黒百合の花言葉は『呪い』。

 花一華の花言葉は『見捨てられた』。

 

 そして、新しく咲いた花の名はゴジアオイ。

 花言葉は『私は明日死ぬだろう』。

 

「ごめんよ、団吉。でも、私は嬉しい。やっと死の国へといけるのだから」

 花一華はゆっくり横倒れ、来ない明日に喜びを感じながら眠った。


 次の日、団吉が花一華を訪ねた時、そこに花一華の姿はなかった。舘には花一華の身体に咲いていた花々しか残されていなかった。

「花一華さん?」


 冷淡で、花言葉の知識が豊富。危険な雰囲気を醸し出しながらも、誰もが見惚れる華麗な姿。自ら死の国に見捨てられたと言うほどの心の奥底にある罪の意識。そして、彼だけ花呪病にかかりながらも、死ぬことが出来なかった。彼は心の底から願っていたのだ。『死にたい。』と。そして、ついに念願の花が彼の身体に咲いた。


 決して安易に入ってはいけない舘に住む男、花一華。彼がどんな人間で、どんな人生を送り、どんな気持ちで生きていたのか、団吉に知ることはできない。彼の身体に咲いていた花々は今も舘に咲いている。しかし、彼の遺体は見つかっていない。彼は死の国へといけたのだろうか。舘の中にある花一華の寝室。色鮮やかな花々の中に輝く花の名前はアネモネ。またの名を、花一華。彼は今も舘の美しい花々と暮らしているのかもしれない。しかし、もう二度と団吉がこの舘に来ることはないだろう。

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