十八

 三十年以上もつづく因縁をめぐる果し合いがはじまった。

 驚いたことに、又右衛門は居合術の構えをとった。落ち着きはらった様子と、どっしりとした構えを見るかぎり、相当練れているにちがいない。おそらく伝九郎を討つためだけに磨いてきた業なのだろう。

 いっぽうの伝九郎も、やはり居合術の構えをとったのであるが、その姿に、武次郎は二度目の戦慄をおぼえた。

 低い、とても低いのだ。まるで膝頭が地につきそうなほどに低い。右肩を突き出し、深い半身を取っている。

 あれは介者剣法かいしゃけんぽうだ。妙見北辰流は室町の世そのまま、戦場で具足を身にまとった戦闘を前提とした流儀なのだ。当世の新しい剣法ように、平時に一対一の優劣を争うためのものではない。野山のなか、あるいは市街のなか、寡対多、多対多、暗殺までもありうる。

 先代の君公、肯山公は、博識で古きものを好まれたと聞く。なぜ無名の剣士にすぎぬ伝九郎を寵愛なされたのか、武次郎の腑に落ちた。


 ――居合術と居合術、勝負の分かれ目は一瞬。なれど抜きあうまで時を要するであろうか。となれば、いくら又右衛門が俺と立ち合ったあとで消耗しているとはいえ、ご高齢で一線から退かれて久しい伝九郎先生には、分が悪くなるやも知れぬ……


 などと、悲観的な予測を立ててみたが、まったくの見当違いであるとすぐに知った。

 先に仕掛けたのは伝九郎のほうだった。否、正確には、又右衛門のほうから間合を詰めた。彼が抜刀の呼吸に入りかける一毛あるかないかの寸前で見切り、伝九郎は地を這うように身ごと左前へ出た。その一歩は、平均的な剣士のそれよりも遥かに深く、おそろしく速い。前触れがなかった。

 かと思えば、地から弾かれるように鋭角に右へ出て、すでに高々と跳躍していた。

 ここまで又右衛門は、二寸しか刀を抜けていない。しかも左側へ立たれた。身を開きながら抜刀しないことには、伝九郎を太刀筋の軌道に巻きこむことができない。その一瞬の、わずかに調整する動きが、生死をわける隙となった。

 身に回転をおびながら、伝九郎が鞘から放った刃は、宙に電光を飛ばした。

 又右衛門の首元を右から左へ、蛍灯のような残光が細くほとばしる。

 気づいてからではもう遅い、すでに過ぎたあとだった。

 伝九郎は、回転する勢いで血振りをして、着地と同時にすばやく納刀を終えていた。あたかも、次の敵にそなえるかのごとく、はじまりの低い構えに還った。

 怨念に今生を捧げてきた門崎又右衛門という侍の一生は、すでに終わっている。いともあっけなく。

 ここへ辿りつくまで何百万回と剣を振ってきたであろうに、最後は一太刀すら振られなかった。彼の亡骸はその場に膝を落とし、背から倒れ、ありったけの鮮血を地に染みこませていた。

 武次郎は駆けより、その斬り口をあらためてみた。

 三度目の戦慄を味わう。

 神刀流がするように脈を断っただけではなく、薪を割ったようにパックリと首の肉と骨を蓮に裂き、神経まで達していたのである。おそらく又右衛門は、痛みすら感じずにこときれたのであろう。

 武次郎も跳躍が得意なほうであるからわかる。あの複雑な回転を帯びた跳躍のなかで、どうしてこんなことができたものか、とても人のなせる業とは思えなかった。


「これだ、これが一刀七殺の秘太刀……」


 いまはありありと見通せる。一人で寺の本堂へ踏み入れ、刀の鞘を引き寄せた七人の間をぬって駆けめぐり、回転しながら高く低く跳躍し、次々と一刀で仕留めて行く様を。

 武次郎が声を震わせて呟いたところ、何を言っているのかと伝九郎が失笑でかき消した。


「我が流儀にそうした秘儀はない。あのとき、儂が秘太刀を使うなどと申したのは、家中騒動を大きく発展させぬための方便に過ぎない。奴らはより多くの者を巻き込み、家中の分断を目論んでいた。そうはさせぬと思った」

「では、いまさっき拝見した恐ろしき太刀筋は、何でありましょう?」

「凡技である。初伝の技を徹底的に鍛え、工夫したまでのこと」

「な、なんと……」


 言葉を失った武次郎に、伝九郎が続ける。


「よいか、その極意は凡技に宿り、凡技は極意へ至る一本の参道となる。剣の極意とは、人から教えられるものでもなく、翻って教えることもかなわぬ。もしも剣の極意を人の教えに頼るような剣士がいたならば、また人に教えてやろうという剣士がいたならば、それらはまことの剣士ではない。すなわち、奥院の扉を開くか開かぬかはその剣士次第、執念深き一つの探究のさきのみにある」


 武次郎は地の上に端座し、一字一句聞き逃すまいと前のめりに傾聴する。


「……ここひと月、武次郎がやってきた農事も然り。いすれの道にせよ、極意を人から教えられたいと願うようでは、まことの道は会得できまい。いつだったか武次郎は儂に問うたな。武芸兵法はもはや無用であるのかと」

「はい、問いました」


 あの答えはまだ得られていない。

 暫くして、老人はふたたび口を開いた。


「武次郎、武家がやるものだと定められた武芸兵法という言葉、観念に惑わされるな。その極意を求める者にとって、天と地のあいだにある、あらゆるものが師となる。一木一草、一風一雨といえども無用に存在するものではない。先達は水面に映る月影や風にそよぐ松を見て極意を悟ったともいう。氷雪に触れその冷たきを知り、火に触れその熱きを知るがごとし。この謙虚な、たゆまざる探求の心なくして、百年の修行をもってしても道の終わりをまっとうすることはできないものだ。天と地の息吹を聴く者は、天と地の理に抱かれ、そのものが木火土水金の法則と一体になる。儂が年老いてもなお身が働くのは、自ら動いているのではない。天地の理に身をゆだね、運ばれているだけなのだ」


 武次郎の背筋を稲妻のようなものが走った。

 人から授けられた言葉や観念、見た目の姿かたちは本質ではない。

 静かな、噛んで含めるような老人の声調を聴いているうち、彼はまるで夢から覚めたように直感したのだ。

 伝九郎は、目が見開かれたままの又右衛門の瞼をそっと閉じてやり、手を合わせた。


「この哀れな姿を見よ。この者は、人から授けられた怨念と復讐にとらわれ、修羅の道に堕ちた。道を外した剣士とは、死ぬまで無間地獄を彷徨うことになる。もっともそこへ引きこんでしまったのは、ほかでもなく儂の剣であるが……。君公の命に従ったことは、今でも悔いていない。正しかったと思っている。だが、あの七人の家族親族たちが蒙ったであろう辛苦を思えば、やるせなくもなる」


 やっと武次郎は理解できたような気がした。

 三十数年まえ、どうして伝九郎は、単独で上意討ちを決行したのか。

 すべては仙台藩の家中を縛っていた怨憎の鎖をとりはらうため、一人でうけ負い、自らの身に巻いたのだ。

 また、どうして名と姿を変え、かような辺鄙な山里で暮らしているのか。留守を偽り、屋敷の玄関口に大金を置いてあったのか。

 それは過去を手放しきれず、無間地獄を彷徨いとうとうここまで迷いこんでしまった者に、報復などと黒き感情に今生を沈めず、新たな生き方をしてほしいと改心を促していたのだ。

 そしてそもそもなぜ、伝九郎がその役目に選ばれたのか。

 騒動に楔を打たなければ家が滅ぶと考えた肯山公は、伝九郎の人柄と剣の腕まえを見込み、人柱になれと求めたのかも知れない。

 武家として、妹葉伝九郎という人の激烈なる忠義と、人としての深き慈愛がそこにある。


 ――この人だ、やはりこの人しかいない!


 そう気づくと共に、武次郎は土の上へ両手をつき、額を打ちつけて平伏した。


「先生!」


 老人は黙って見下ろした。

 武次郎は、全身の神経を凝縮して研ぎ澄まし、その眼を見上げた。かなり長いあいだ、老人は黙って武次郎の眼を見つめていたが、やがてその唇に微笑を浮かべた。


「伝九郎は留守だ」

「先生! 違うのです」


 武次郎は膝をにじらせた。


「剣術よりも農事をともに致しとう存じます。閑助どのと共に、この美しき邑で、天地の息吹を聴きとう存じます!」


 その若武者は、悦びにうち震えながら、腹の底から叫ぶように言った。

 その老人は、愛情のこもった温かい眼で見下ろしながら、しずかな力のある声で言った。


「そうだ。歩いても駆けても廻っても、道は一つだ。刀と鍬と、とる物は違っても道は唯一つしかない、これからなに一つ教えはせぬぞ、天地を相手にする百姓仕事は辛いぞ」

「先生……」


 武次郎は、涙の溢れる眼で、瞬きもわすれ老人の顔を見あげた。

 師を得た!

 真の師と仰ぐべき人を得た。

 自分の行く道は決まった。

 今日まで縛られていた、武芸兵法という名の殻から、戛然かつぜんと脱出した気がする。

 道は一つだ、

 それは無限に八方へ通じている。

 大きく、のびのびと、今こそ眼前から展開される道。

 そして武次郎は、その奥院へとつづく参道の一端に、しっかりと立つことのできた自分を感じた。


「爺さま、武次郎さま、そろそろお家へ帰りませんか。まずは傷のお手当てを。明日もやるべきことが山ほどありますから」


 遠慮がちに、でもどこか嬉しげに、芙希が向こうからそう云った。

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