十六

 宙に舞う蛍灯の清流を堪能した若き二人は、往路よりも一寸ばかり近しくなって帰り道をゆっくりたどった。

 会話は尽きない。コロコロとよく笑う芙希の横顔を見て、武次郎はこの天地をつつむ気がそっくりすべて入れ替わったような錯覚がして、不思議な心地のなかを歩いていた。

 ところが、突とそれを破る犬の鳴き声に、芙希が目をみはった。


「あれは、たちのほう……ハクの声」

「ハクといえば、肝入の茂兵衛どのの番犬ですね」

「はい、大人しいハクがあんなに怒って咆えるのはめずらしいこと」

「何か、あったのでしょうか……?」


 応答するよりもさきに、芙希が駆けだしていた。武次郎もそれにつづく。

 なおもハクの咆哮はやまず、静まりかえった里山に響きわたる。まるで狂ったように、飼い主に何かを求めているというより、誰かを威嚇する攻撃的な声だった。

 屋敷へつづく坂道を上り、農家の長屋門をくぐる。茂兵衛の先祖は京から落ちのびた平家の一族で、当地で五百年二十四代もつづくと伝わる。そのためか屋敷のまわりには急峻な土塁をそなえ、たちという屋号で呼ばれていた。

 二人が中庭へ入るなり、子供たちの泣きわめく声と、男達の怒号と、懸命にゆるしを請うやりとりが聞こえてきた。うち一つは、武次郎も聞きおぼえのある、あのダミ声だった。


「やめでけらしぇ、どうが、どうが……」

「うるさい! お前、百姓のくせに俺たち武士を小馬鹿にしくさったであろう!? はやく妹葉伝九郎を呼んでこい!」

「いンえ、伝九郎様はお留守でがす。いまはこの邑におりませぬ。いつお戻りになるがはわがりません!」

「まだ嘘をつくか!? お前も大したタマだな。よし、ならば妹葉を連れてくるまで女と娘を一人ずつ殺してやるまでだ!」

「ああ……どうが、それだげは、どうがお許しを……」


 上弦の月明かりで淡く照らしだされた光景に、武次郎は息をのんだ。

 なんとあの浪人衆の三人が、茂兵衛の妻子らを人質にとり、切っ先を突きつけて今にも斬らんとしていたのである。

 迷いもなく、芙希が凛とした声音を発して詰めよった。


「何をしているのですか!? お止めなさい!」

「ン?」

「封土と領民を守ってこその武家でありましょう! それをなんですか、あなたがたは!? ただちに刀を収め、この邑から出て行きなさい!」

「はぁン……?」


 一人が顎をさすりながら懐手でやってきて、芙希の顔からつま先をまじまじとあらためたのち、悪臭がしそうな嫌らしい笑みを浮かべた。


「ほほう、こんな田舎にも上等な女子はあったもンだ。よしいいだろう。今日のところは見逃してやる。ただしそのかわり、お前が俺たちの相手をしろ。なに、悪いようにはしねぇ。優しく抱いてやっからよ? アハハハッ……」


 武次郎が怒りを感じて一歩を踏み出した転瞬、中庭一帯に派手な音が響いた。芙希が男の頬に、渾身の力を乗せた張り手をくらわしたのである。

 虚を突かれた男は後ろによろけてたたらを踏んだ。暫時、驚きを隠せぬ顔でただよったが、何をされたのかやっと悟り、腰を割って柄に手をかけた。


「この小娘がぁ! そこになおれ、無礼うちにしれくれる!」


 間に髪をいれず、割って入った者があった。武次郎である。柄頭を抑え、眼光するどく睥睨をあびせた。


「下がれ、下郎。女子に向かって鯉口を切るとは、武士、いいや男の風上に置けぬ。恥を知れ」

「うっ……うう」


 下がりながら、二度三度と抜刀を試みるのであるが、武次郎が柄頭を封じたままついてくるので身動きが取れない。焦って二間も飛び退き、やっと刀を抜ける間合ができたと思った刹那、腕と腿に真空の痛みが同時に迸り、地に尻餅をついて転がった。


「ぐおっ……痛だだだ……」


 すかさず浪人のもう一人が、「おのれ」と駆けながら抜刀におよび、袈裟に強烈な斬撃を見舞ったのであるが、武次郎はヒラリと高く跳躍してこれをかわす。

 その着地もろとも太刀を切り落とし、キィンと刀身と刀身を滑らせ離れぎわ、内小手の筋を斬り上げた、くるりとまわりこみ、右肩と脚裏の筋を斬りつける。張った縄が切れたような音が派手に弾けた。


「ギャッ、やられた、死ぬぅ!」


 己の血を見て恐慌した二人は、情けなく泣き叫び、打ち揚げられた鯖のように地の上でのたうちまわった。

 芙希は呆然として言葉を失う。淡い月光のなか、飛鳥のごとく舞う武次郎の背に、見入るのみだった。

 抜き身をひっさげ、向こうから見ていたダミ声が、ほうと鼻でせせら嗤った。


「ハハッ、誰かと思えば、お前、先日の腰抜け青二才ではないか。性懲りもなくまだこの邑にいたのか?」

「それは当方の言葉だ。そっくりお返ししよう。士道のなんたるかを忘れ、朝から晩まで呆け三昧、あまつさえ狼藉をはたらく賊ばらめ、この邑に居場所はないと知れ」


 ダミ声は定寸よりも長い直刀をかつぎ、散策でもするような足取りで、中庭をめぐりはじめた。


「それはそれは、ずいぶんな言われようだな、藩士さまよ。だがしかし……それはおそらく、神刀流だな?」

「おう、いかにも」


 武次郎は油断なく距離をはかりながら、芙希と皆に下がるよう手で合図を送る。

 この浪人は、さっきの太刀筋を見て、侮りがたしと力量を値踏みしたのだろう。さも何となく無駄口を叩いているようにしながら時を稼ぎ、少しでも己へ有利に働く足場と空間を探しているのだ。

 なぜだか手にとるようにわかる。夜の暗がりの向こうにいるというのに、わかる。

 奴のかすかに揺れる息づかい、探るような足運び、心のなかでにわかに涌いてきた動揺……

 ひと月まえとは違い、なぜだか武次郎は冷静でいられた。

 夜風に揺らめく気と、夏虫の生を謳歌するなき声。草木のざわめき、夜露が落散する音と静かに湿る土。

 天地の息吹が聴こえた。

 この身のなかに染みこみ、血潮となって心身を雪ぎ、五体が澄徹して刀身と結びつく。

 さっきは何ら迷いもなく、思うより先に居合術を繰り出し、気がつけば二人倒れていた。

 恐くないといえば嘘になる。が、それが一分、あとは奴を中身まで観察し、隙あらば前に出るという心持ちが九割九分だった。

 ダミ声は、南西にある上弦の月を仰々しく見上げ、武次郎に背を向けた。


「やァや、見よ、青二才。さすがは山の上にある郷だ。月がかように美しく――」


 そう言いかけて振り向きざま、上弦の月を斬る軌道で大上段から剛刀を落としてきた。

 武次郎は体を開いてそれをかわすと、巻き打ちで火花を散らし、身を寄せて押さえ込む。手の内で奴の重心がかすかに崩れたのを感知し、身ごなしが軽く回転のはやい神刀流真骨頂の太刀筋を、反りの深い太刀で次々と浴びせた。

 押しこまれたダミ声が顔を歪め、脇差に手をかけるのが視界にはいった。


 ――二刀……これは誘いの嵌め手!


 危機を直感した武次郎は、即座に攻撃をやめて飛び退いた。腹をあらためると、着物が横一文字に裂けていた。

 ダミ声がニヤリと嗤い、右、左と股立ちをとりながら履物を後ろに飛ばし、舌なめずりをさす。


「ほう、これをしのぐとはなかなかだ、青二才」


 おなじく武次郎も右手に刀を構えたまま、鋭い双眸で睨みつけ、履物を足裏で捨てながら左手で股立ちをとった。


「我が名は青二才ではない。仙台藩出入司支配山林方、組士大河内惣之丞おおこうちそうのすけが嫡子、大河内武次郎である! 天真正伝神刀流、本目録!」


 ダミ声は独特な二刀の構えをとり、足指をジリジリと土にくいこませ、腰を沈めて夜闇に埋もれた。


「元仙台藩御広間番おひろまばん平士ひらし門崎与三郎かんざきよさぶろうが子、門崎又右衛門かんざきまたえもん影山流かげやまりゅう、免許」


 場に居合わせた者たちは、すでに言葉を失い、固唾をのんで見守る。

 芙希は、両手指を胸のまえできつく結び、全身を強ばらせ息をも忘れた。

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