十五
――急げ、急ぐのだ! もっとはやく、もっとはやく走れ!
己に言い聞かせ、もつれる脚を拳で叩き、伝九郎は懸命に駆ける。
江戸出張から戻り、
「たしか、妹葉様というお方のお屋敷で……」
サァッと顔から血の気が引いて、考えるよりもはやく全速で駆けていた。
緑の屋敷林に囲まれた武家屋敷街を抜け、田町で右へ曲がる。商店が連なる
いかめしい顔をした武家が、血相を変え奥州街道のまんなかを走ってくるのだ。町人たちは恐れて道を譲った。
仙台城下とは、巨大な惣構えになっている。とにかく広くて、道がよく折れる。見えているはずなのに、目的地までなかなか辿りつけない。長町から伝九郎の屋敷まで一里半もあり、歩けば半時もかかる道のりだ。
――ああ頼む、どうか……どうか無事であってくれ、
遮二無二地を蹴り、転んでは起き上がる。肺が裂けて、口から心臓が飛び出そうになる。それでもいい、このまま死んでしまっても構わぬ。
ただ会いたい。
もう一度だけ二人の顔を見て、この腕で抱きとめてやりたいと心から切に願う。
――乞い願わくは今日こそ、我が願いを叶え給え……天と地よ、神よ仏よ!
数千回、いいや、それでは到底足りぬ。こうしてこの道を駆けるのは、万を超えたはずだ。それでも聞き届けてくれぬのは、己が天地の意に反し衆生の命を奪った罪人であるからだろうか、生きたまま無間地獄を味わえとでも言うのか。
でも今日こそは、違うかも知れない、と念じる。
札の辻をつっきると、二日町の甍が見えてきた。淡い一筋の黒煙が、空へ細く吸われる様が見えた。
「待て……待て待て、待ってくれ! ならぬ、ならぬぞ!」
奥州街道から外れ、ついに自宅の門口のまえに立った、はずだった。
しかし、もうそこに見慣れた我が家の景色はなく、吹き抜けに向こうの屋敷を見通せてしまう。真っ黒に焼けた瓦礫が、崩れ転がっているのみである。
「ああっ……伝九郎先生!」
煤で全身を真っ黒にした侍たちが、伝九郎を見つけて寄り集まってきた。うちの一人、若侍の
「申し訳ありませぬ、申し訳ありませぬ! 私が近くにありながら、お屋敷の皆様をお救いかないませんでした」
「阿貴は……お伊都はどこか!?」
頬の煤を涙で雪ぎながら、幸太夫が首を横に振る。
「そう、か……」
「これなるは間違いなく、いまだ家中にある賊の残党めらによる報復! やはり藩の処置は甘うござりました。やりましょう! 奴らを一族郎党根絶やしにせぬかぎり、この連鎖は断ち切れませぬ、終わりませぬ!」
もはや伝九郎の耳に、幸太夫たちが叫ぶ憤怒の声は届いていない。
ただ呆然自失として、そこに立ち尽くすのみだった。
「儂は……またしても間に合わなかったのか。恐かったであろう、痛かったであろう、熱かったであろう。すまぬ、阿貴、お伊都……お前たちのことを守れなかった情けない夫を、父を、どうか許しておくれ……」
そしていつも、そこで目が覚める。三十数年来、ずっと見てきた悪夢だ。
若いころは目覚めると泣いて枕を濡らしていたものだが、もはや涙も枯れた。死に遅れの老骨となり、涙というものが出なくなったのかも知れない。
近ごろは記憶も曖昧になってきた。あんなに愛おしかった妻の阿貴と、幼い娘のかわいい顔を、忘れまいとしても思い出せなくなってしまった。生きるとは、きわめて残酷なものだ。
だがかわりに今は、芙希の顔が目のまえにある。そのなかに二人の面影を補ってみたりして、己を慰めることがある。
手の内に、盃が転がっている。
「儂としたことが、飲みながらうたた寝をするとは、すっかり耄碌したな。やれやれ……」
薄くなった白髪の鬢をなでつけ、朦朧と周りを見わたす。そうだ、若い二人を河原へ行かせたのだったと思いだし、縁側につづく武次郎の部屋を見た。
よく片付いている。武士たるもの、いつ戦場で死んでもいいよう常に身仕舞いをつけておけと、両親から躾られて育ったのだろう。
「うむ、仙台武士らしい、よき心がけだ」
ふと、文机のうえに置かれた書状が目にとまった。封筒の宛名は妹葉伝九郎殿、発信者は
「フン、幽玄斎などと、あの小童がずいぶん偉そうに名乗ったものだ。今では、藩剣術指南役か……時は、よくも悪くも過ぎゆく」
遊佐幽玄斎こと幸太夫が、あの上意討ちのあと伝九郎にまとわりついてきて、
「私は伝九郎先生の一番弟子です!」
などと自称していたころが懐かしい。仙台城下で屋敷同士が近かったこともあり、よく訪ねてきては伊都の遊び相手をしてくれた。すると追い返すにも追い返せなくなって、ついに晩酌を交わす仲になった。あまりにしつこかったので、いくつか剣術の手ほどきをしてやったこともあった。
「やはり、お前の弟子であったか」
ここひと月ほど、閑助として共に暮らすうち、大河内武次郎という若武者の出自経歴を尋ねたことはなかったが、毎朝夜明けまえに彼が欠かさずやっている型稽古を一目して、すぐに天真正伝神刀流だとわかった。
神刀流は遊佐家の御家芸である。となれば、武次郎に耕末邑を紹介したのは幸太夫しかいない。書状の中身は、開けて読まずともわかる。
余計な真似をしおって、さっさと追い払ってやろうかとも思ったが、はからずも武次郎が野良仕事をずいぶん熱心にやるので、ついつい甘い顔をしてしまった。
なにより、芙希だ。彼女自身気づいていないかも知れないが、武次郎のことを気に入っている。
伝九郎は、空の盃を床に置き、なみなみと酒を注いだ。
「喜ばれませ、
そう呟くと、月光が降りそそぐ庭先を眺め、先刻見送った二人の背と、その先にある未来を、眩く目を細めて思い描くのだった。
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