十四
やがて十丁も畦道をたどった先に、流れの穏やかな場所があった。川の幅はおよそ三間半。両岸に夏草が生い茂る。
芙希は、
「お静かに……どうぞ、そのままお待ちを」
と言い残し、石を一つ拾いあげると、えいっと勢いよく放り投げた。
向こうで水面の弾ける音がする。やいなや、八方の草むらからいっせいに数百、いや、数千匹もあろうかという蛍の群れがとびだした。
明滅する青緑の光跡が、ゆるやかに宙を舞い、交錯し、寄り合い、あたり一面を明るく照らすほどの塊となった。蛍灯のまんなかに立つ芙希の姿は、あたかも天の川のなかに浮かぶ天女とか、神秘めいた存在に見える。
ただただ武次郎は言葉を失い、蛍灯を追う無邪気な笑顔に目を奪われた。
不思議なものである。花は、そこにあると知ってしまえば、よけいに香って存在感と輝きを増してくる。
ひとしきりはしゃいで隣へもどってきた芙希の髪と肌から、発せられた甘い匂いを嗅ぎ、クラリと意識が遠のいた。
武次郎は若かった、二十歳になる今日まで、武芸一筋にうちこんできた。いまだかつて女性というものに意識を奪われたことがない。ついさっきまでそうだったはずだ。それが怫然と、心の奥底に、鮮やかな血の動きを感じたのである。
もっともそれは極めて短い刹那のことで、
――いかぬ……。
と封印した。
それを知ってか知らずか、芙希が蛍灯でやわらかく照らしだされた顔を近づけてくる。
「大河内様のお母上様は、ご達者であられますか?」
「は、はい……仙台城下で暮らしております」
さらに芙希が、お父上様は、ご兄弟はと、結んでいた糸を解くように、次から次へと質問をなげかけてくる。
武次郎は戸惑いを覚られまいと努めつつ、兄が夭逝し己と妹は両親が遅く得た子であったこと、二人ともうるさいほどの子煩悩であること、幼少からか弱き存在として過保護に扱われた鬱憤がつのり、反動として荒っぽい遊びを好むようになったすえ武芸に熱中するようになったことを問われるまま語った。
ふと、今なら許されるかもしれないと武次郎は思い、芙希の両親について尋ねてみた。
芙希は膝をかかえ、潤んだ瞳の奥に数多の蛍灯を宿らせて語る。
「……亡くなりました。父は私が五つのころ、母は八つのころに」
「なんと……不用意にお尋ねして申し訳ござりませぬ。しかし、それはお気の毒な。ご子息に先立たれた閑助どのも、さぞや残念であられたことでしょう」
「いいえ、じつのところ、爺さまは実の祖父ではございませんの」
「えっ……」
「天涯孤独となった私の面倒を引き受けてくださったお方で、もう十年ちかくも一緒に暮らしておりますから、今ではたがいを家族のように思っておりますけれど。ですから父と母を懐かしく思うことはあっても、寂しく感じたことはござりません」
「そうだったの、ですか……」
芙希が無言で首肯する。
「……私の家は、曽祖父の代に当地へ流れてまいりました。それまでは主に仕える武家だったとうかがっております。かつて出羽国にあった
「そ、それはもちろんです!」
曰く、芙希の家は、曽祖父のころまで最上家に仕えてきた武家であったが、
それから芙希は、下界の暮らしと仙台城下の様子について根掘り葉掘り尋ねてきて、武次郎の話を聞いては目を輝かせた。
「あァ、いつか、私も仙台のご城下と松島の名勝、米沢から蔵王のお山を訪ねてまわりたいものです。きっとあの
「義姫様……あ、貞山公のご生母であられる
「はい。幼きころ、よく祖母から昔話を語り聞かされたものです。最上の義姫様こそ奥羽婦女の鑑である、女傑であられたと。その御心はたくさんの慈愛で溢れ、ときに男より勇ましく、両家のため身命を捧げ尽くされた……と。私もかくありたいと願っております」
保春院といえば伊達家中における評判は、どちらかといえば悪く言い伝わっている。なるほど、最上家中では真逆の評判であったのだなと、武次郎は初めて知った。そして最上家の伝説となった女傑に健気なあこがれを抱く芙希のことが、とても可愛らしく思えてきて、
「大丈夫です。いつか私がご案内してさしあげましょう。仙台城下も、松島も何もかも。私の家は山林方です。通交手形も思いのまま、視察のため領内の往来は自在ですから」
とつい口が滑ってしまった。
芙希の髪がふわりと逆立ち、みるみる顔が明るくなって口元を両手で覆う。
「まァ、うれしい! まことですか!?」
「もちろんまことです。いえ、まことに致します! 武士に二言はござりませぬ。こうして大変よくして頂いているのですから、そのご恩に報いるのは士道として当然のこと」
その言葉の意味を、武次郎自身のみならず芙希も深く考えられていなかったが、二人は心の底に、名の知れぬ温かな感動がたまるのを感じていた。
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