十三

 陽ざしにも風にも、しだいに真夏の色が濃くなった。

 ときおり肝入の茂兵衛がやってきて、伝九郎の消息はまるでないことを教えてくれた。いつもならば現在地と戻る予定ぐらいは知らせてくれるはずなのだが、もしかすると今年はかなり遠くをまわっていて、来年の春まで戻ってこないつもりかも知れないとまで言う。

 しかし武次郎は、微塵も動揺しなかったし、いつしか自分の気持ちが少しずつ変わってきたことに気づいた、

 伝九郎に剣の極意をたずねようとする目的は一寸たりとて動かないが、それよりも先に、さらにもっと深く、閑助老人から学ばなければならぬものがあるように思える。それが何であるかと自問しても口ではうまく取り出せないが、老人の静かな拳措の一つひとつや何ら奇もない平板な話題のなかに、武次郎が求める道と深く底通する何かがあるように感じられるのだ。

 城下にいたころ、師の遊佐が、よくこういうことを言った。


 ――およそこの道とその極意を求める者にとって、天地のあいだにある、あらゆるものが師となる。一木一草、一風一雨といえども無用に存在するものではない。先達は水面に映る月影や風にそよぐ松を見て極意を悟ったともいう。この謙虚な、たゆまざる探求の心なくして、百年の修行をもってしても道の終わりをまっとうすることはできないものだ。


 当時は何のことかと迷信のように思って聞き流していたが、今になって遊佐の言葉の真実を、武次郎は認めずにはいられないのである。伝九郎に教えを請うまえに、この老農夫とめぐりあえたことは、仕合せであったという気がするのだ。

 上弦の月が、南天の正中にうかぶ宵であった。

 夕餉のときに芙希が、


「爺さま、そろそろ河原の源氏蛍が見ごろかも知れませんね。皆で見にいきませんか?」


 と提案した。

 邑の中央を注ぐ清流には、ところどころ流れの溜まる場所があるのだが、そこに毎年たくさんの源氏蛍が集まり、姿をみせるのだという。

 ところが閑助はにわかに顔をしかめ、


「昼の陽にあでられでハ、少し具合が悪いみだいだ。二人で行ってきてけろ、この邑の風物詩を大河内様さ見せでやればいい」


 と首を横に振った。

 芙希は一瞬だけおし黙って、上目づかいに武次郎の顔をのぞきこんできたが、蛍といえば夏にしか見られないもの、せっかく言ってくれているのだから断る道理はない。結局、二人で出かけることになった。

 すると芙希は、いそいそと奥へ下がってゆき、よそ行きの小袖に替えて出てきた。右半分が鮮やかな紅色、もう半分が眩いほどの白、それらを下地として繊細な幾何学模様が水流でたゆたうように描かれてある。低く腰元に結わえた幅の狭い帯には、金繍でまるふた引両紋ひきりょうもんがあしらわれてあった。

 薄く紅を差した唇が、色白の肌によく映えている。長い黒艶の垂れ髪とあいまって、安土桃山や慶長の武家娘をほうふつとさせた。

 節倹の令が出て久しい昨今、武次郎の目にも際立って見える。ひとことで言い表すなら華やかだった。


「ほう……」


 盃を手に閑助は懐かしげに目を細め、武次郎は絶句して盃をとり落としてしまった。


「では大河内様、いざ、蛍がりにまいりましょう!」

「は、はい……」

「爺さま? 私の留守をよいことに、あまり深酒をめされませぬよう」

「うむ、わがったわがった。オラのごどはいいがら、心配せずに行ってけろ」


 道端の草葉には、もう夜露が光の珠を綴っていた。まるで二人をもてはやすかのごとく、道の左右から溢れるような虫の音が唱和する。

 思えば武次郎は、まだこうして女子と夜道を二人で歩いたことがなかった。そう気づいたとたん、急に歩みがぎこちなくなってしまう。

 芙希が不安げに尋ねてきた。


「私は田舎者ゆえ、流行りの小袖や結い髪、化粧を存じませぬ。これではおかしかったでしょうか? 曾祖母の代から伝わるものなのですが……」

「い、いえ! 上等な着物に流行りも古いもあったものでしょうか。良いものはよい、立派なものは立派。とりわけ芙希どのには、よ、よく……お、お似合いかと! 存じます」

「まァ、うれしい」


 くるくると表情が豊かに入れ替わる。

 上機嫌そうに長い垂れ髪が左右に揺れ、はやくはやくと芙希が道を急かすのだった。

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