十二

 畑仕事にひとだんらくがつき、翌日は田植えをやった。

 閑助がやっているのはうるち米が二反、もち米が十歩と少ない。これならば簡単だと思ったが、実際にやってみると、泥に脚をとられながらずっと腰をかがめてやる作業は難儀なものだ。武次郎は何度かひっくりかえって尻餅をついてしまった。

 田に下りて見わたす里山の景色は、青々とまぶしくて美しい。水田をわたってくる風は清々しく、水面に空が近く映る。あたかも空のなかで仕事をしている錯覚がした。

 午に芙希が握り飯を差し入れてくれた。あぜ道に座ってそれを食むと、ただの塩結びが特別なご馳走のように感じられるから不思議だった。

 ふと、老人が言った。


「大河内様、あれが聴こえますか?」


 うながされたほうに耳をすますと、カンカンと木の弾ける音が風に乗って耳朶に届いた。


「あれは……木剣の音、か」


 男たちの甲高い気合とともに妹葉屋敷のほうから流れてくる。件の浪人たちは身をもてあまし、剣術の稽古をしているのだ。

 三日に一度、肝入の茂兵衛もへえが屋敷へ出入りして食料を運び、御用聞きをしているそうだ。それは浪人たちが悪さを働かぬようにとの自衛策でもあるのだが、曰く、奴らはまだ居座るつもりでいるらしい。

 かすかに鼻で笑い、閑助が握り飯を頬張りながら言う。


「……一つはなかなか、あどの二つは、あまり筋がよろしぐありませんな」

「閑助どのにわかるのか?」

「剣術はよくわがりませぬが、音の善し悪しならわがりますから」

「音?」

「はい、あれは薪割りどおなじ音でがす。だがら上手いか下手かは、聞げばオラにもわがります。こごさある百姓のほうが、よっぽどよい音を響がせます」

「なるほど、そういえば、そうしたものか……」


 暮れ時になると、邑ではそこかしこの農家から子気味よい音がする。昨日、薪小屋のほうから聴こえた閑助の薪割りの音には驚かされたばかりだ。雑味のない、空気が裂けるような鋭い音だった。


「もったいねぇものでがす」


 老人が独り言のように呟いた。


「……あんたな立派な体をした男だぢがつまらぬ木剣いじりをして、無駄に大飯をくらって昼がら寝転び、ぶらぶらどしているどは。いったいあの男だぢは世の中をどう考えているのでしょう」

「武術の修行はつまらぬものであろうか?」

「そう仰られますと、お答えに困ります。オラは百姓ですので、自然と考え方も頑なになるのがも知れませんが」


 閑助はふたたび仕事の準備を始めながら、微笑して言った。


「……戦の世がら百年がすぎ、もは徳川様の天下は磐石、いまの伊達のお殿様がみごどにご家中を建て直されました。主にお仕えのお武家様はいざしらず、あぶれだ浪人衆はこだわりを捨てで刀を置ぐときでございましょう。今は武芸のうまい百人のお武家様より、里山をうるおす一人の百姓のほうが大切な世の中になっております」

「ではもう、武芸兵法などは無用だといわれるのか」


 武次郎は怒るでもなく、不快を示すわけでもなく、素直な瞳で老人の顔を見た、


「はて、私の申し上げた言が、そのように聞こえましたがな?」


 閑助はゆっくりとした動作で、いとおしげに稲の苗束を拾いあげると、腰篭のなかへ丁寧にしまいこみ、田んぼのなかへ陸のようにスイスイと踏み入れていった。頭がまったく揺れていない。その背中は、いかにもしっかりと大地にすわって見える。武次郎がもちあわせる若い観念では、窺知することさえできない大きな真実が、老人の五体から光を放つようにまぶしく感じられた。

 それから野良仕事に勤しむうち、あっという間にひと月が過ぎた。

 休む暇などない。畑と水田は、野菜と稲を植えたからといって終わりでもなく、忙しい日々のはじまりなのだ。放っておくとどんどん雑草が生えてくるので、毎日夜明けから除草に出る。雨が降れば水のようすを見てまわり、適量に調節をほどこす。やれ害獣が出たら、近隣総出で捕らえにかかる。

 かたわら麦と大豆、煙草などを植え、果樹を受粉させ、蚕の世話もする。女たちは味噌や漬物を仕込んだりして、長い冬に向けた準備がすでに同時進行している。農夫たちの日常は、まるで緻密な寄木細工のように無駄なく流れる。

 かと思えば、どこかの家で子が生まれ、別の家で急な病があったりもする。

 あらためて武次郎は思う。


 ――いつか閑助どのが言っていたとおりだ。威張りくさるばかりの武家など、ここではどこにも出番がない。無用だ。あの浪人どもは、この清涼なる天地の循環にまぎれこんだ異物にほからぬ。ともすれば、俺もああなりかけていた。閑助どのと芙希どのには、報いても報いきれぬほどの恩ができてしまった。ありがたいことだ。


 雪深き冬がやって来ようとも、武次郎は下界へ下りず、伝九郎との面会がかなうまで耕末邑で待つつもりでいる。それまでは武家だからといって偉ぶるのではなく、邑の者たちから認めてもらえるよう百姓仕事に没頭しようと、いつしか心に決めていた。

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