十一

 三日もつかどうかと閑助は云った。

 そんなことはないと武次郎は思った。

 ところが翌日の朝、目がさめると、体躯が身動きもままならぬほどに痛んだ。朝餉の茶碗すらまともに持てない。武次郎が四苦八苦して食事をとる姿を見て、閑助と芙希がこらえきれずに笑った。

 幼少から武芸で鍛えた自慢の体である。木剣を一日千本振ろうとも、何ともなかったはずだ。たかが土を掘り返すくらい、どれほどのことがあろうかと高をくくっていた。

 しかし、いざやってみると、閑助老人の言葉の正しさに驚かされたものである。なにしろ鍬がてんで云うことをきかなかった。

 しかも、今朝になっていざ種まきをしようと菜畑へ出てみたところ、


「こ、これは……どうしたことだ?」


 武次郎が耕した範囲だけ、畝が崩れてしまっていた。夜更けにけたたましく雨が降ったので、それで脆くも流れてしまったのだ。だがどうだ、閑助が耕した畝はまったく微動だにしていない。まっすぐ、平らかなままである。おなじ豪雨をあびたはずなのに。

 なぐさめるように芙希が解説してくれた。


「……おそらく、土の厚みと固まりに差があったゆえでしょう。濃淡があると水が染みて、モグラの穴のような水の通り道ができてしまい、崩れてしまうのです。また土の固さの偏りは、野菜の根が広く張りにくく、根菜は曲がってしまいます」

「なんと……」

「……それと、ほどよく風がとおるよう空気をまぜこむこともだいじ……ですね。野菜が健やかに育つには、土は湿りすぎても乾きすぎても駄目なのです。その成果は、ひと月もすると如実にたちあらわれるものです」


 あわてて武次郎は、閑助の仕事のあとを二箇所三箇所と手でかきわけてみて愕然とした。


「まことだ! 土の固さが均一であるうえ、ほどよく土の粒がたっている、息をしている。俺は畝を土塁のように考え、押し固めて見た目をまっすぐ整えることだけに腐心していた。なんと浅はかな仕事をしたものだ……」


 うしろから閑助老人がにべもなく言う。


「やりなおし……ですな」

「も、もちろんだ、ぜひやらせてくれ! だがそのまえに、願いたいことがある」

「なんでしょうが?」

「どうか手本を見せてくれ。一回だけでいい!」


 両手をついて申しでる武次郎、かたやそれを見下ろす小柄な老人。まるで武芸の教えを請うような光景だった。


「では、一畝ぶんだげやりますから、よぐ見てけらしぇ」

「おお、それはありがたい。ぜひとも頼む!」


 老農夫は鍬をひっさげ畑に立つと、サクッサクッサクッ……と子気味よい音をたてて下がって行った。武次郎は赤子のように四肢で這い、見逃すまいと夢中でそれを追いかけた。

 その模様がすこし可笑しかったもので、芙希がクスリと笑う。

 あっという間に立派な一畝ができあがった。武次郎は、昨日とはまったく違って見えた老農夫の業に慄然として、肌があわ立ち、全身の毛が逆立つのを覚えた。


 ――簡単にやっているように見えて、内実はまったく違う。きわめて繊細かつ巧妙な仕業だ。この老人は土の様子を奥まで瞬時に見きわめ、鍬の起動と速さと角度、力かげんを全身をもって調節しているのだ。目付けと間合い、見切り……姿形こそ違えど、これは剣術とまったく同じ理合いではないのか? しかも下からずっと見ていたが、振り上げられる鍬の高さは通じて一定、足の運びにはよどみがなく、なにもかもが常におなじところから始まり、おなじところで終わっていた。だから千変万化に続くのだ。


 また閑助は、少し腰が曲がっているのだが、老いで体が弱ったからではない。鍬を振る型を何千、何百万回と繰り返すうち、自然と体が最適な姿を選び、練り上げられた結果なのだと今は思える。

 さらに驚くべきは、その息づかいだ。こんなにはやく一畝を作ったというのに、呼吸がはじめる前とおなじく平静のまま、まったく乱れていないのだから二度戦慄させられた。


 ――俺は昨日、鍬を振り落としてから何度も土を触ってこねた。だから終わってみたら着物は土まみれで、進みが遅い。拍子というものがなかったから息も絶えだえだった。ひきかえ、老人は一振りで仕舞いをつける、しかも過不足なく、適切に。なんという……なんと凄まじい業であるのか?


 ふたたび武次郎は両手をつき、目を輝かせて礼を述べた。


「閑助……いや、閑助どの! ご教範いただき、ありがとうございます!」


 武次郎は鍬を手にとると、それまで体を縛っていた痛みなど忘れ、夢中で鍬を振った。

 武士としての面目、ましてや固意地を張っているためではない。閑助老人が示してくれた手本のようにできるようになるまで鍬を手から放すまい、そう決心したのである。

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