六
武次郎は、今日が何日でここがどこであったのかも忘れ、フラフラと彷徨うように来た道を戻った。往路ではあんなに力強い足取りで、意気揚々と能天気に歩んだというのに、今ではまるで別人の復路だ。顔面蒼白で唇は真っ青、まるで歩く死人のようでもある。
先刻の老農夫がまだせっせと腰を丸めて鍬を振っていたが、武次郎の目には映っていない。老人は鍬の手を休めながら声をかけたものの、返事もなく過ぎて行こうとするので、さらに大きな声で呼びかけた。
「もしっ……もし! お武家様」
「お、おう……ご老人か」
「なじょしましたか?」
「……妹葉先生のお屋敷に、先客があった」
老人は、はてと首を傾げたのち、そういえばという顔で手を叩いた。
「あァ、あの浪人めら、まだいましたが。てっきりもは、諦めで帰ったのがど思っていましたけれども、何が言われましたが?」
「う、うん……ちょっとな」
「申し訳ねがんす。さっきお話しておげばよがったちゃァ。斬りあいにならずに帰ってこられだのは何よりでがんしたァ。……それにしても、たしか奴らが来てがら八日目。こんどのはずいぶんと粘るごど」
暢気な口調で話す老人のおかげで、少しずつ思考をとりもどしてきた武次郎は、言葉が耳にかかって尋ねた。
「こんどというと、あれは初めてではないのか?」
「ええ、昔がら来るの来るのわさわさど、妹葉様のとごろにはァ。こご十年ばがりは、ずいぶんど少なぐなりましたが」
ずっとこの邑で暮らし、妹葉屋敷の模様を遠巻きに見てきた老人曰く、これまで三十数年間、伝九郎の許には色んな種類の者が訪ねてきた。
武次郎のように剣の教えを請う者はまだよいほうで、伝九郎と立ち合いをして名を売ろうとする武芸者もあったという。
とりわけ深刻な部類が、仇討ちだった。件の騒動で伝九郎に斬られた七人の兄弟子息縁者が、時々険しい顔つきでやってきたそうだ。
そもそもあの事件は、遊佐によるところ、表向きは上意討ちではなかったことになっている。一人の美形な男子を取りあうなかで起きたつまらぬ男色騒ぎの痴話喧嘩、私闘として処されたのである。しかも七人は、刀を抜けぬままたった一人の手によって斬られた。武家の風上にも置けぬ不心得者として、一族郎党が藩籍を追われた。
となれば遺族たちは面目を回復せんとして、伝九郎を討ち藩籍への復帰を望むのが必然だったが、なぜか仇討ちを藩に願いでても一方的に受けつけてもらえなかった。疲れて諦める者がでるいっぽう、執念深く伝九郎の首をつけ狙う者がでた。
ところが伝九郎は、耕末邑への道が開ける雪解けの季節になると、行き先も告げずにどこかへ長旅に出てしまう。いまだ伝九郎と面会がかなった者は、一人たりとていない。
そしていつも本人が不在である代わり、屋敷の玄関先には、路銀として十分すぎるほどの銭が置かれてあった。ここへ来る者たちは、例外なく生活に窮している。とうとう待ちきれなくなると、銭に手をつけて帰ってゆくのだが、あとは二度とやって来なくなるそうだ。
人を食ったような老獪な策にほかならない。
「さっき訪ねたとき、そのような銭は玄関先になかった」
「というごどは、銭こを懐に収めで居座っているのでしょう。お武家様などではなぐ、恥知らずのほいどっこでがす」
「そう、だったのか……」
だがつい今しがた、その性根の腐った者どもに恫喝され、足がすくみ、刀も抜けずにおめおめと帰ってきたのは武次郎だ。奴らの悪行を断罪できる立場にはない。もしも口にすれば、陰口を叩くだけの卑怯者になってしまう。
――俺にはもう、先生に教えを請う資格など、ない……。いったいどの面を下げて剣の道を尋ねればよいというのか。いわば他の者たちと同じ。先生の策に体よく追い払われたようなものだ。
行くあてもなくフラリと歩みを進めたところ、すかさず老人が呼び止めた。
「お武家様、これがらどごさ行がれるつもりですか?」
「うん? さァな……」
「駄目でがす、山の夜道は危ないですから」
心配してもらえるのはありがたい。強ばっていた頬が思わず解け、苦笑いが力なく漏れる。
「これでも武芸をたしなむ。獣なら、なんとかできるだろう」
「いンえ、違います。嶺を西に背負った山の麓は日が早ぐ沈み、すぐに足元が真っ暗になるもの。しかも今晩は朔だがら必ず谷底さ落ぢでしまいます」
城下生まれで街育ちの武次郎である。それは考えたことがなかった。
「もしお武家様さえご辛抱頂げるなら、汚うございますが、おら家さお泊まってけらしぇ。明るぐなってがら発てばよいのです。孫と二人暮らしで満足なお世話もなにもでぎませんが、それでよろしげればどうがご無理をなさらず」
「……そうか、かたじけない。では迷惑をかけぬようにするから、よろしく頼む」
こうして武次郎は、思いかけぬところで宿が定まった。
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