三
当世、仙台藩士が江戸への遊学を志すことは、けしてめずらしい話でもない。
武次郎が生まれ育った時期の仙台藩は、藩主五代
まず近江から商人たちを招き、海路の流通が日本津々浦々まで頻繁になると、内外の人流が活発になって城下のみならず領内が賑やかになった。そして江戸と大坂、果ては択捉まで米の拡販がはじまる。
ついに仙台は米どころとして広く知られ、流通する米相場の三割を占有し、開墾と新田開発がますます盛んになりもした。かつて歳入を超える負債で財政が虫の息だった仙台藩は、実石が百万石に達してみごとな復活をとげたのだった。
環境が変われば人も変わる。武家という者たちもどこか変わった。
戦国の世は遥か百年以上も昔の話となり、仙台武家は戦場での槍働きよりも学問や開墾や経済に関心を持つようになった。
耕末邑とはそうした開墾活動の突端であり、藩の地図にもまだ載っていないような土地だった。
ではなぜ華のお江戸ではなく、わざわざそんな辺鄙の地まで武次郎が足を運ばなければならないのか。どうして武次郎がすんなりと受け入れられたのかといえば、
「
師が初めて明かしてくれたある剣士の逸話を聞いたとたん、武次郎はそれまでの疑問や不満などきれいさっぱりと忘れ、胸が高鳴った。肌があわ立ち、全身の毛が逆立つのを覚え、
――俺が求めている剣の道は、まさしくそれだ。
と直感的に思えたのだった。
およそ三十数年まえになるという。
幽玄斎いわく、それに終止符を打ったのが、
当時は四代藩主
肯山公は藩政再建のため強権的な親政を構想したが、異を唱える一派が藩祖の血をひく一門の子を擁立し、政変を企てたことがあった。
じつのところそれは、徳川の血筋をもって仙台藩の乗っ取りを目論む幕府老中と気脈を通じた動きに過ぎなかったのだが、穏便かつ迅速に一派を封じる必要があった。さもなくば幕府が、ここぞとばかりに家中不行き届きで横槍を入れてくるに違いなかったからだ。
そこで藩主直々の命により、白羽の矢が立ったのが妹葉伝九郎だった。伝九郎は室町の世から伝わる家伝の剣法を使う。当時三十歳ほどであったが、仙台城二の丸における御前試合においてひときわ冴えた腕前を披露し、藩主の覚えもめでたかった。
とある青葉の薫る深夜、使者から密かに上意を伝えられた伝九郎は、迷いもなく頭を垂れて拝命した。
「承りました。つきましてはひとつ、お願いがござります」
「うむ。所望があれば何なりと申せとの君公よりの仰せである」
「征伐の折、人払いをお願いしたく存じます」
「なに? 手勢は要らぬと申すか。相手は七人であるぞ。腕の立つ者も多い」
「いいえ、要りませぬ。むしろ足手まといになりましょう。当流に伝わる秘太刀を用いますゆえ」
それから後日。奉行(家老職)たちが建言を聞くという名目で、城下
伏兵の気配もなかったので七人は警戒をといて本堂へ上がり到着を待っていたのであるが、そこに正面から現われたのは奉行たちではなく、襷掛け姿に太刀を引っさげた伝九郎だった。
幽玄斎は当時十七歳の若武者だった。乱闘から逃亡する者がでた時のため、討ち漏らさぬよう他の剣士たち二十余名とともに寺の外で今か今かと侍していたが、ついぞ出番はなかった。
中で一瞬だけワッと罵声がしたあと、すぐにしんと静かになったのだ。
やがて、締めきられていた障子戸がすぅと開き、伝九郎ただ一人だけが出てきた。息づかいは入っていったときと変わらず平静のまま、返り血一滴すら身に浴びていない。
皆があわてて寺の中へ駆けこんでみたところ、すでに七人はこときれており、本堂一面が血の海にかわっていた。七人が七人、抜刀すらできていなかったことに剣士たちは二度戦慄した。
そののち伝九郎は、藩主から下賜されたあらゆる褒賞や知行の加増を固辞し、藩領北部の外れ、栗駒山麓にある平家の落人が開いたと伝わる隠れ里に隠遁した。
理由はあきらかだ。藩主と家中に災いが及ぶのを避けるためであり、むろん伝九郎の名が治家記録に修史されることもなかった。すなわち家中に騒動はなかったのであるから、それらを斬った者もいなかった、という理屈である。
ほどなくして妹葉伝九郎と妙見北辰流の名は、仙台城下にある人々の記憶から消えた。
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