第11話 とある夜の酒場で

 ぐずぐずと鼻を鳴らすリディアの前に水の入ったグラスが置かれ、運んできた女性店員が、リディアの頭を親しげに撫でた。


「そんな顔で好きな人の前にいたくないでしょう? それ飲んだら、顔を洗いにいらっしゃい」


 頻繁に通う内に仲良くなった店員の好意にお礼を伝えて、一息で水を飲み干したリディアは、ほうっと息を吐く。


「ちょっと、顔を洗ってきます」


 立ち上がるリディアに合わせ、そうすることが当然であるといった様子でイグナスも席を立った。

 だが、リディアが彼を押し止める。


「ついて来ちゃ、だめ」

「……君のことだから、溺れるかもしれない」

「大丈夫よ。待っていて」


 数秒見つめ合い、折れたのは、イグナスだった。

 

 渋々ながらも椅子に座り直したイグナスを置いて、リディアは顔を洗うため、店の奥へと向かう。

 そんな二人を観察しながら、グウィニスは届けられたグラスに口を付けた。


「ねえ、あなた」


 声を掛けられ、イグナスはグウィニスへ視線を向ける。


「あの子のことで、色々言いたいことがあるんだけどさ」

「……はい」

「あなたは、あの子の味方ってことで、いいのよね?」

「当然です。貴女は?」

「味方よ。詳しいことは知らないけど、可愛い妹みたいに思ってる」

「そうですか。……彼女が、損なわれることなくこの場にいるのは貴女のお陰なのでしょう。本当に、ありがとうございます」


 深く頭を下げたイグナスへの返答の代わりに、グウィニスは片手を払うようにして振った。


 その後すぐに料理が届き、顔を洗ったリディアも戻ってきた。椅子に座った彼女は、食事を開始する。

 グウィニスは既に食べ始めていて、イグナスは無言でそこにいた。


 食事をしながらも何らかの会話が始まるものだと考え耳をそばだてていた客たちは、肩透かしを喰らった気分で、ちびちび酒を飲む。


「リディア、ニンジン避けんじゃないわよ」

「なんでニンジン入り頼んだんですか~」

「動揺して、うっかりしてたの。ごめん」

「グウィニスさんにあげます」

「こら! お行儀悪いわよ」


 いつもの二人の会話が繰り広げられる中、同席している男が無言というのは空恐ろしいものがあった。


 注文した料理を平らげ、満足した様子のグウィニスが「さて」と呟いた時には、いよいよかと周囲は期待したのだが。


「行くわよ」


 続いた言葉に再び落胆。

 何も言わずに会計を済ませたイグナスと、姉に守られる妹のように手を繋いだリディアとグウィニス。そして何故か、アヴァンと王太子が三人について行き、増々謎は深まった。


「――言い忘れたがな」


 戻ってきた王太子の言葉で、騎士達は背筋を伸ばす。


「箝口令だ。人の命が掛かっている。お前たち気に入りのあの娘を死神に刈り取られたくなければ、詮索するな。それと、他の客や店の者への対応は任せた」


 一糸乱れぬ敬礼と返答。

 それを見届けた王太子は今度こそ、店を後にした。



   ※



 酒場を出てから少し進んだ所で、グウィニスが、イグナスとその連れへと声を掛ける。


「私の店でいいのかしら? 私が聞かないほうがいい話なら遠慮するけど……この子を見知らぬ男三人に預けるのは、気が引けるのよね」


 グウィニスから視線を向けられ、リディアは、繋いでいた手に微かに力を込めた。


「グウィニスさんにも、聞いてもらったほうがいいと思うんです」

「あんたがそう言うなら、いてあげる」


 身を擦り寄せて甘えるリディアと、優しく目を細めて頭を撫でてやるグウィニス。

 互いに気を許し合っている様子の二人を瞳に映し、イグナスは、どことなく寂しそうに見えた。


 道中ほとんど無言で、帽子屋にたどり着いた一行は、一階の応接用スペースへ収まった。


 慣れた様子でお茶の支度をしようとしたリディアを、イグナスが捕まえる。

 もう待てないと行動で示して、両腕の中へ、ほっそりした体を閉じ込めた。


「……幽霊では、ないんだよな?」


 苦しいほどの抱擁に、アメジストの瞳が再び涙で濡れる。


「うん。生きてるよ。……会いたかった。すごく、あなたに会いたかった」


 震える両腕を、記憶より広くなった背中へと回しながら、リディアの心臓は痛い程に鳴っていた。

 こんな風に抱きしめられることは初めてだったから、すごく嬉しいけれど、顔が火照ってしまう。


「手紙、届いてなかったんだ。最近、読んで」


 懺悔のように告げられた言葉には、首を傾げる。


「どの手紙?」


 彼宛に、手紙はたくさん書いた。

 どれも返事はなかったけれど、今やっと、返事の代わりに彼自身が会いに来てくれた。それだけで、十分幸せだ。


「……君が死んでしまう前の手紙が、全部」

「え? 全部?」

「俺が君に書いた物も、君が俺に書いた物も、全て盗まれ、隠されていた」


 抱擁が更にきつくなって、彼の体の熱が、服越しに伝わってきた。

 あまりの熱さに、イグナスが泣いてしまいそうだと気が付く。


「……手紙、書いてくれていたのね?」

「書いたよ、たくさん。どうして返事をくれないんだろうと思ったけど、君だから仕方ないなって、思っていた」

「あら。私も、返事がないのはあなただから仕方ないって思っていたわ」


 笑みを漏らしながら、どうしようもなく顔が見たくなって、身動ぎする。

 意図に気付いたのか腕の力が弱まったから、空いた隙間から両手を上げて、イグナスの頬を手のひらで包んだ。


「会う度、あなたは大きくなるわね」

「君は、会う度に小さくなるね」

「あなたの背がどんどん伸びるからそう感じるだけよ。私だって、ちゃんと成長しているんだから」

「そうかな」


 いたずらっぽい笑みを浮かべたイグナスが、唐突にリディアの体を持ち上げた。

 大きな両手にウエストを挟まれた直後の、浮遊感。


「変わらず、軽い」


 気付けば、イグナスの片腕に座った状態で。彼の片手の平が、背中を支えていた。


「びっ……くりした!」

「君のその驚いた顔、好きだ」


 あまりにも甘い表情と声で言われたものだから、リディアの全身がぶわりと熱くなる。


「ま、前は、こんな事する人じゃなかったわ!」

「うん。こうして軽々君を抱えたくて、鍛えたんだ」

「そうなの?」

「だって、君はすぐに転ぶし、怪我をするし、危なっかしい子だったから」

「そんなことないわよ。ちょっと運動神経が悪くて、あわてんぼうなだけ」

「君を守れる男になりたくて騎士になったのに、肝心な時、守れなくてごめん。……何があったんだ? ――俺は、君の墓を見た」


 空気が真剣なものへと変わり、リディアの体は、ゆっくり降ろされた。

 リディアは、まっすぐにイグナスを見つめ返す。

 再会の喜びと甘い余韻は消え去って、室内の空気は真剣なものへと変わっていた。


 深く息を吸った後で、桃色の唇が言葉を紡ぐ。


「安心して。アリソン伯爵の娘、ジェレーナ・ローゼンフェルドを殺したのは――私よ」

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