第60話 集中力
何度か角度を変えてキスを交わしたあと、少し彼が離れる。その顔はいつだったか見た、野生っぽい顔だった。
ぐっと心が苦しくなる。
私はまだ巧に言えていないことがあるから
「……あの、杏」
「あのね。聞いてほしいことがあるの」
巧の呼びかけに重なるよう私は言った。
声が少しだけ震えてしまった。
「……え?」
「聞いてほしいっていうか、見てほしいっていうか……その、私の部屋に来てくれる?」
私の部屋、と言った瞬間巧が少しだけ目を見開いた。彼は未だかつて一度も私の部屋に来たことはないのだ。
無言でそろそろと二人廊下に出る。きちんと閉じられたそのドアの前で、私は深呼吸をした。
ちゃんと話さなきゃダメだ。あの日断ったのだって、この部屋のせいだったって、ちゃんと伝えないと。
隠し事はダメだって言われたばかりだから。
「あけ、て、ください」
「? は、はあ」
巧は不思議そうに首を傾げながらドアノブに手をかける。そしてついに、その禁断の扉が開かれた。
中には見なれた部屋だ。
散らばったゲームソフトに愛する人たちのポスター、DVD、フィギュア、抱き枕。巧はその部屋を見た途端、わかりやすく驚いた。
それでも恐る恐る彼は中へ足を踏み入れる。麻里ちゃんしか入ったことのない私の楽園。
震える両手を必死に抑えながら、それに続いた。小声で言う。
「あの、私……すっっごく二次元が好きで。あの、だからずっと生きてる男の人にも興味なかったの」
「…………」
「この通りかなりのオタクで。……前、巧に部屋に行っていいかって聞かれた時も、こんな部屋見られたら絶対引かれると思って、だから断っちゃって」
「え」
「かく、隠し事はよくないってわかったから。だから……見せてみた……ごめん、引いた……?」
そっと巧の顔を見上げてみる。彼はじっと部屋中を見つめていた。
ああ、ついに。言ってしまった。私のトップシークレット。
今まで誰にも言うことはなかった。家なんて一人でオタ活を楽しむために存在している場所だったから、そこに誰かを入れるなんて考えてもなくて。
でも今は違う。巧と一緒に暮らして、彼は私の生活の一部になっている。私の趣味を隠すことで彼と変な誤解が生まれるくらいなら、しっかり言ったほうがいいと思ったんだ。
……ただ、巧が引いたらどうしよう、という心配はあったけど。
しばらく沈黙が流れた後、突然巧は言った。
「あれなんて名前のキャラ?」
巧が指さしたのは、私の一番の推し、オーウェンのポスターだった。
「あのキャラのグッズが一番多い」
「お、オーウェン」
「ふーん、オーウェンか」
何度か頷きながら巧がポスターを眺める。そして振り返り、私に笑いかけた。
「オーウェンに今感謝しといた」
「はい?」
「杏奈がこいつにはまってなかったら、俺と出会ったときフリーじゃなかったかもしれないだろ。恩人だよ」
巧は白い歯を出して、そう笑った。
ぐっと胸が苦しくなった。
ずっと必死に隠してきた私のトップシークレット。
引かずに受け止めてもらえるなんて、思ってなかった。
嫌な顔一つしない巧の気遣いが、嬉しい。
「引いたりなんかしないよ。俺の半ストーカー行為の方がよっぽどドン引き案件」
「あは! 半ストーカーって」
「まあ意外だとは思ったけど。誰にだって息抜きしたい時もあるし、何を好きでも自由だろ。こんなんで引くと思われてた方がショックだ」
私は笑った。そんな私をみて、巧も目を細めてみてくる。
そうか。そうなんだ。
もっと早く言えばよかったのかな。どうしても意固地になって人に言えなくなってしまっていた。でも確かに、巧がこれで引いていなくなるなんてありえないって今なら思うのに。
何て馬鹿だったんだろう、私って。
巧がしげしげとグッズたちを観察している。ほっとしてその背後から声をかけた。
「よかった……なんか、もっと早く言えばよかったのかな」
「そうだよ。この部屋を見るより『絶対ダメ』なんて断られる方がずっとショックだっつーの」
ぎくりとする。ああ、やっぱり根に持たれてた……いや確かに、あれは私が悪い。言い方ってもんがある。
「そ、その節はどうも……」
困りながらそう言って苦笑いすると、巧がこちらをふっと振り返った。そして私の目の前に歩み寄る。
彼を見上げると、嬉しそうに笑っていた。
「ま、やっと杏奈の隠し事が知れて嬉しい」
「う、うん、ごめんね」
「もうこれで隠し事はない?」
「はい、大丈夫です」
「それはよかった」
巧はそういうと、私の手を引いてすぐ隣にあるベッドに押し込んだ。やや強引な力に、私はそのまま倒れ込んでしまう。はっとして慌てて顔を上げた。
「た、たく」
「お、すげえ抱き枕。はい、今はオーウェンは床で寝ててねー」
「あ、あの、ちょっと」
いつも抱いて寝ていたオーウェンはついに床に置かれてしまった。そしてどこか意地の悪い顔をして笑う巧がベッドに足をかける。
まさか! 心の準備が! ……できてないなんて言えない、どれだけ時間があったと思ってるんだ。
それでもまさかこの部屋でそうなるとは夢にも思っておらず、私は焦りながら尋ねた。
「え、こ、この部屋集中できる!?」
「は? 男の集中力舐めんな」
「あ、えーと」
「ちょっと黙ってて。もう杏奈のペースに合わせてたらダメだってよくわかったから」
巧はそう笑って私にキスをした。自分でもわかってる、今絶対に顔が真っ赤なトマト。突然緊張が襲ってきて全身がカチカチになってしまう。
そんな私を、巧は優しい目でみた。そして言う。
「俺は絶対杏奈を裏切らないから。二度と離婚届なんか持ってくんな」
「……はい」
巧は再び私に口付けた。彼の髪が垂れて私の顔を掠める。
全てが片付いた。私はこれから先も巧の隣にいていいんだ。そう思うだけで、安心で泣いてしまいそになった。
緊張で溶けてしまうかと思った。
それでも、巧が何度も心地いいアルトで私の名前を呼ぶたび力が抜けた。
まるで宝物を触る子供のように私に優しく触れる巧の手が心地よくて、全身がただ幸福感に満ちてくる。ああ、本当に大事に思ってくれているんだって実感できた。
そしてやっぱり巧という人間が、私は心底好きなんだと思い知った。
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