第57話 吐き出す




 真夜中三時過ぎ。私は電気をつけたままリビングで寝てしまっていた。


 昨日だってほとんど寝れていない。疲れもあり、ようやくうとうとしていた頃だった。玄関の開く音がした。


 はっと顔を持ち上げる。時計を見て今が真夜中だと知る。ガタガタとなんだか騒がしい音がして、足音が大きく響きながらこちらへ向かってきた。


 そして勢いよく開いた扉の向こうには、スウェット姿の巧が険しい表情で立っていた。


「……巧」


「杏奈! 無事だったのか!」


 第一声に彼はそう言った。そして私に駆け寄り、はあーと大きく息を吐く。髪も乱れた彼の姿を、私は呆然とみつめていた。


「樹が杏奈になんかしたのかって……心配で」


「ま、まさか! 樹くんは何もしてないよ」


 私が樹くんを庇うと、巧はギロリと私を睨んだ。つい体が強張る。


「なんで樹があんな時間にここにいたんだよ? 俺がいないのに家にまで入れるだなんて」


「それは」


「それに泣いてたって。何があった? なんで俺じゃなくて樹を頼った」


 巧は本気で怒っているようだった。険しい表情がそれを物語っている。


 それなのに。彼を怒らせているというのに、


 今私は胸が愛しさでいっぱいになっている。


 諦めようとした恋心が、やっぱり無理だよとばかりに全身に溢れかえった。


 ああ、もう。


 なんでこんなに好きなんだろ。


「…………杏奈?」


 険しかった巧の顔が驚きに変わった。私の目に涙が浮かんでいたからだった。


 戸惑ったようにオロオロした巧は、いつだったかそうしたように服の袖で私の顔を拭く。


「どうした、なんかあ」


「安西さんに会ったの」


 ピタリと彼は停止する。しかしすぐに顔を歪めた。


「そうだったのか、あの女なんか杏奈にしたのか?! そうなんだな、嫌がらせでも」


「妊娠してるんだって」


 言えなかった言葉を出した。同時に巧は目を見開く。


「巧の子を妊娠してるから、離婚してほしいって言われた。今六ヶ月なんだって……だから、私、巧と離婚しなきゃいけないんだって思って」


「にん、しん?」


「一人悩んでて。安西さんと会った時偶然にも樹くんと一緒だったの。だから彼は知ってて私を心配してくれただけ」


 巧はわけがわからない、というように口を半開きにしたまま動かなかった。私の頬を涙が伝う。それをそのままに、巧の顔をしっかり見上げた。


 もう逃げない。そう心に決めて。


「子供がいるっていうなら離婚しなきゃって思ってたけど、やっぱり私嫌だって思ったの。私はその、安西さんと違ってちゃんと巧とそんな階段も登れてないけど……それでも、これからちゃんと夫婦になりたい。巧と離れたくないって思ってる」


「……杏奈」


「だから、お願い……」


 そう呟いたと同時に、私は意を決して巧に思い切り抱きついた。もはや突進だったので、巧は体のバランスを崩して後ろに倒れそうになる。それでも必死に持ち堪え、なんとかバランスを元に戻した。


 その広い胸にしがみついている私をしばらくそのままにし、巧は何も言わなかった。


「杏奈」


 しばらくたってそう低い声がした。びくっと反応し、恐る恐る顔を上げた。今巧が果たしてどんな顔をしているのか、私には怖かった。


 その表情で、彼からの返事がわかるはずだから。


 目が合った巧は、まっすぐ私の目を見ていた。その目からは逃げたいとか、ごめんだとか、そういう色は見えない気がした。


「ごめん、気づかなくて」


「ううん……」


「全然知らなくて。今思えば杏奈の様子がちょっと変だったのに」


「言えなかった私が悪いの」


「いいか。はっきり言う。


 安西唯の腹の中にいる子の父親は俺じゃない」


 巧はほんとうにはっきり言った。一言一言言い聞かせるような発音で。


 思っても見ないセリフにポカン、とする。だがしかし、すぐに冷静になり、彼の無責任な言葉に苛立ちをおぼえた。


「あのね、避妊に100%はな」


「だって何もしてねえもん」


 

……なんだと?



 脳内が停止した。まさかの返答だった、私の脳内シミュレーションの中でこの展開はまるでない。あれか、シークレットエンドか?


 何もしてない、だと??


 私は口を開けた間抜け面で巧を見つめた。彼はふうとため息をつきながら言う。


「とんでもねえ女だったなあいつやっぱり」


「え? いやでも、流石にそれは……だって本当にお腹大きかったし……あれ?」


 巧は無言でダイニングに腰掛ける。私もその隣に慌てて座った。


「結構強引な見合いのあと、こっちは断ってんのにもう一度だけ会えってしつこくて。仕方なしに行ったのがホテルにあるバーで」


(バー……行ったことない……本当にそんなおしゃれな場所存在するんだ……)


「なんか一人で飲みまくってベロベロに酔いやがって」


(すんごく嫌そうに喋るなこの人……)


「家まで送るって言ったら部屋とってあるからそこまで送れってしつこくて。安西グループはちょっと邪険に扱えない相手だからしょうがなく送ったら、入った瞬間俺の服を脱がせてきて」


「ブフォ!」


「吐き出すな、汚い」


「そそ、そんな展開ある!? 三次元にはそんな凄いことあるんだ!?」


「三次元?」


「いえ、なんでもないです」


 自分を必死に落ち着かせた。ちょっと待ってほしい、予想外すぎる展開で全然ついていけない。特に恋愛偏差値ゼロに近しい私にはまるで無理。


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