第56話 本心はどこに

 子供みたいにめちゃくちゃに泣きじゃくる私をしばらく見守っていた樹くんだが、少しして私の頭にポンと手を置いた。


「はーようやく本音出たね」


 目の前を涙で滲ませたまま顔を上げる。樹くんが目を細めて笑っていた。


「いや、ほんと巧みたいな変人好きなの俺もどうかと思うよ。でも杏奈ちゃんの本心はそれなんでしょ、なら離婚届もらう前にちゃんと巧に本音をぶつけなよ」


「え……」


「付き合ってるんでしょ。あれ、てか結婚してるんだっけ。とにかく、なんでも話さないのはよくない。巧の出張なんか殴って止めろよ。なんでそんな自分を押し殺してるの」


 強めに頭をぽんぽんとする樹くんは笑いながら言った。そして近くに置いてあったティッシュを手にして私の顔に当てる。


「俺やだよあんな性格悪そうなのが義姉になるの」


「……樹くん」


「どうなるかはわかんないけど、とにかく杏奈ちゃんはもっと怒るべきだし甘えるべき。それだけは確かだね」


 涙を拭いて視界がはっきりしたところで、ようやく彼の意図に気がついた。


 まさか、そのために今日私に付き合ってくれたの? 巧のこと嫌いなのに、樹くんは……。


 私の視線に気が付いたのか、彼は意地悪く笑う。


「あ、俺んとこにおいでってのは本心だから、離婚決まったら本当においで」


「え゛」


「いやー前は押し倒しても眉一つ動かさなかった杏奈ちゃんがちょっと戸惑ってた顔見れたのよかったわ、可愛かった。もうちょっと押せばこっち来る?」


「あの樹くん?」


 いつものノリに戻り、なんだか彼の本心がよく見えない。困っている私を見てまた笑いながら、彼はポケットからスマホを取り出した。そして何やら操作する。


「ほんとさー出張とかゆるしてる場合じゃないって」


「う、うん、帰ってきたらちゃんと話す……」


「帰ってきたらじゃなくて帰って来させるんだよ」


 そう強めの語尾で言った樹くんのスマホから、呼び出し音が聞こえた。そして少し経ち、不機嫌そうな声がする。スピーカーになっているのか、私にもハッキリ聞こえた。


『もしもし樹?』


 巧の声だった。


 樹くんはニヤリと笑う。そしてどこか勝ち誇った顔で言った。


「あれー巧どこで何してんの〜?」


『はあ? 何って、今貴重な休日使って出張で』


「あーごめん興味なかったわ。さーて。俺今どこにいるでしょうー?」


『知るか。用がないなら切るぞ』


 イライラしている巧に心底嬉しそうな顔をした樹くんは、スマホを私に向ける。何か話せ、ということらしい。


 心の準備が出来てなかった私は一瞬戸惑うも、おずおずと声をだした。


「…………巧?」


 その瞬間、電話口から何か落下したようなガタンという音がした。慌てたような巧の声が響く。


『あ、杏奈? お前何してるんだこんな時間に樹と! 俺の連絡も無視して』


 巧の声を聞いて樹くんは嬉しそうに笑った。すぐにスマホを口元に寄せる。


「杏奈ちゃん今日おにぎり着てなくて残念〜」


『!? へや、へへ、部屋にいんのか? はあ?』


「今日杏奈ちゃんとご飯食べてー買い物してー飲んでーめちゃ充実してたよ」


『ちょっと待て、なんでお前ら! 杏奈? おい!』


 樹くんは大変楽しそうに笑った。もしやこれがしたかっただけか? と呆れたとき、突然彼は真顔になり声を低くした。


 別人のような顔つきと声でいう。


「巧。お前今すぐ帰ってこなきゃ人生終わりだと思え。杏奈ちゃん泣いてるぞ」


『……え』


 それだけ言い捨てると、樹くんは電話を切った。そしてスマホをポケットにしまう。


「さ、これで帰ってくるでしょ」


「い、樹くん」


「帰ってこなかったら本気で俺の家おいで。それは冗談じゃないから」


 彼が立ち上がったのを見て、帰るんだ、と理解する。私も追うように慌てて腰を上げた。


 全部私のためにやってくれた。今日一日使って、私たちのために。巧と仲悪いしいつも悪ふざけしてるのに、なんで?


「さーちゃんと戸締りしなよ」


「ね、ねえ樹くん、本当にありがとう……」


「いや、俺は楽しんでただけだしー」


 スタスタと玄関に向かっていく背中を追いかけながら、私は尋ねた。


「巧のこと嫌ってるのに、なんでこんなにしてくれたの……?」


「勘違いしないでほしいなあ、俺は巧のためになんて動いたこと一切ないよ。でも杏奈ちゃんは好きだからそのままにしておけなかっただけ」


「でも……」


 玄関で靴を履く樹くんは、最後にくるりとこちらを見る。そしてあの子犬みたいな顔でにっこりと笑った。


「俺の理想は二人が円満に離婚して、スッキリした杏奈ちゃんが俺の家に来る! これが最高の終わり!」


「ええ……」


「とゆうわけで、待ってるよー、電話してね」


 ひらひらと手を振りながら、彼は明るい笑顔のまま玄関から出て行ってしまった。ドアが閉まる最後の最後まで私に笑顔で手を振った。


「…………樹くんの本心って、どこにあるんだろう……」


 

 誰もいなくなった玄関で私はポツリと呟いた。


 私のため、って言ってくれたけど、正直それもピンとこない。確かにやたら懐かれてるような気はしてたけど、それも巧に見せつけるためのように思ってたんだけど。


 どうしてあんなに優しくしてくれたんだろう。


 私はぎゅっと両手を握った。


 どんな理由にせよ、樹くんのおかげでようやく自分の気持ちを口に出せそうな気がする。

 

 結末はどうであれ、私は伝えたいことはきちんと伝えなくてはならない。


 

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