第55話 本音

 樹くんはとにかくファッションにあまり興味のない私のペースに合わせるのがうまかった。


 興味ないなりに多少の好みはあるのだが、それをうまいこと察知して服を勧めてくる。


 決して無理強いはしないし、あくまで楽しく買い物を進めた。


 時間が経つにつれて少しずつ買い物を楽しめるようになった私は、笑って彼の服を選ぶこともできた。


 服に化粧品、雑貨など、あらゆる買い物を持ちきれないほどした私たちは、それをタクシーに乗せてようやく帰宅した。


 今までオーウェンたち以外の買い物なんてスッキリしたと思ったことはなかったけれど、確かに気分転換にはなったと思えた。







 夜遅く、適当に夕飯をとった私たちはようやく一息ついた。


 忙しく出かけていたので、なかなかゆっくりするタイミングもなかったのだ。


 まず樹くんにお風呂に入ってもらい、その後私も入浴した。ようやく出てリビングに入った時、冷蔵庫を漁ったのか、リビングでチューハイを飲んでいる樹くんが私に言った。


「あ、飲んでるよ。杏奈ちゃんも飲みなよ」


 我が家のように馴染んでいる樹くんに笑った。くつろぎかたもすごい、完全に羽を伸ばしている。


 私は素直に冷蔵庫からチューハイを取り出して彼の隣に座った。今日は飲みまくりの一日だけれど、もう罪悪感なんて何もなかった。


 蓋を開けて飲むと、レモンの酸味が喉を刺激した。


「杏奈ちゃんやっぱお酒強いよね、全然酔わないじゃん」


「そうかな」


「そーそー。昼間から酔わせようとしてるのに全然なんだもん」


「あは、酔わせようとしてる?」


「うん、酔わせて襲おうかなって」


「絶対思ってないでしょ」


 私は笑いながら言った。樹くんは目を座らせてこちらを見る。


「俺杏奈ちゃん押し倒した前科あるはずなんですけど……」


「あれも悪ふざけでしょ」


「さっぱりしてるね。てゆうか今日はあれじゃないんだ?」


「え?」


「おにぎり」


 ピタリと缶を持つ手が止まった。


 私の今日の部屋着はいたって普通の黒いTシャツだった。おにぎりなんて着れるはずがない。


 ゆっくりと視線を動かして、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしの緑の紙を見た。


……忘れてたわけじゃない。でも、思い出さないようにしてた。


 しばらく沈黙が流れた。お酒もちっとも進まない。頭がふわふわと浮いたような感覚になった。ずっと閉じ込めていた感情が溢れてきて、全身を支配しているような浮遊感。


 ふ、と自分の口から笑みが溢れる。樹くんが不思議そうに見た。


「樹くん、ありがとう励ましてくれて。今日一日、余計なこと考えずに済んだ」


「…………」


「私は大丈夫だよ。そりゃすぐには立ち直れないかもしれないけど……それでも、時間が経てばちゃんと」


「杏奈ちゃん」


 いつもの明るい声じゃなく、低めの音が聞こえて口をつぐんだ。


 横を振り返る。私を真剣な眼差しで真っ直ぐに見ている樹くんに息が止まった。


 色素の薄い瞳と髪は、巧とはまるで似ていない。それでも、どこか巧を思い出させるのはやはり兄弟だからなのか。


 まだ濡れたままの髪を揺らし、樹くんが言う。




「俺のところにおいで」




「………え」


 予想外の言葉に息が漏れる。彼は非常に真剣なまま続けた。


「最初は巧ともルームシェアだったんでしょ。じゃあ俺でもいいじゃん。ここまですごいマンションじゃないけど部屋は余ってるし」


「え、でも」


「俺のところにおいでよ」


 その声に、心が震える自分がいた。


 聞いた事ない樹くんの不思議な声色。普段子犬みたいだと思っていた無邪気な彼の、見たことのない表情。


 私は視線から逃れるように顔を背けて笑った。


「そうはいかないよ」


「なんで」


「樹くんに彼女とかできたら大変だよ」


「言ってる意味分からない?

 俺にしておきなよって言ってるんだよ」


 全身がこわばった。


 ピクリとも動けず硬直する。


 待って、それはどういう意味で言ってるの? また悪ふざけ? 巧への嫌がらせ?


 混乱の絶頂にいる私の頬に、樹くんが手を伸ばした。熱い指先が触れて心臓がドキンと鳴る。


 その手が無理矢理私の顔を彼に向けさせた。至近距離にある樹くんの顔にまたしても心臓が鳴る。私の顔を見て、僅かに口角を上げた。


「まずはルームシェアからでいいよ」


「い、いや……」


「俺のところにおいで。絶対、悲しませるようなことはしないから。楽しませるから」


 目の前の彼は、本気でそんなことを言っているんだろうか。



 巧と離婚となればここを出ていかねばならない。新居を探して、また新たに生活を始める必要がある。


 確かに樹くんはいい子だし面白い。今日だってどっかの誰かとは違ってスムーズにリードしてくれるし楽しく一日過ごせた。


 なんとなくだけど、樹くんとなら楽しくルームシェアできそうだと思った。


 そしてこのマンションには安西さんがきて……




 ふ、と脳内が止まった。




 安西さんがここにきて、巧と暮らすんだろうか。私たちが笑いながらチキン南蛮を食べたあの椅子とテーブルで食事を取る?


 並んでテレビを見たソファに二人で座る?


 カレーを作ったり、巧が料理してくれたりしたキッチンで今度はあの女性が料理するんだろうか




「……杏奈ちゃん?」


 樹くんの優しい声がして、私は初めて自分の目から涙が出ていることに気がついた。目の前がぼやけて見えない。


 涙は雨のように溢れてきた。頬を伝ってそのままソファに落ちていく。


 樹くんは驚いた顔も見せず、ただ優しい顔で私を見ていた。


「私……よくわかった」


「うん」


「今日樹くんと過ごして楽だし楽しかったの。巧はバカ高い靴すぐに購入したりするし器用そうに見えてアホなんだけど」


「うん」


「樹くんといてもずっと巧を思い出してるの。アホな巧がいい、私ここを出ていきたくないよ……」


 やたら自信家のくせにデート慣れてないとか言って下調べする変な人。普段飄々とした態度なのに照れると顔を赤くさせる変な人。


 不器用なりに、まっすぐ私に思いをぶつけてきてくれた人だった。


 他の人が巧の子供を宿しているだなんて聞けば引き下がるしかないのに、でも私はやっぱりこのままなんて嫌だ。安西さんに私の居場所を取られたくない。


 巧の隣は、私がいい。

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