第53話 真実





 翌朝早朝に、巧は出張へ出掛けていった。見送りはしなかった。まだ寝ているふりをして、自分の部屋に引きこもっていた。


 夫の出張を見送ることもしないなんて、今更ながらなにが妻だ。何が彼女だと笑えてくる。


 巧が出掛けて行った後、一睡もできなかった重い体をなんとか起こして活動する。メイクすらせずだらだらと着替えだけ済ませて動いた。目的は決まっていた。


 私はフラフラとした足取りのまま、そのまま外へと出掛けた。



 


 広いリビングで未だ呆然としたまま、私は座って机の上を見つめていた。


 朝食は喉を通らなかった。いや、そういえば昼食もだっけ。夕飯だって、これじゃ食べられるのかわからない。


 スマホには、巧から『今着いた 土産何がいい?』とだいぶ前にメッセージが届いていた。読むだけ読んで返信する気にもなれず、既読スルーをしている。


 テレビをつけるでもなく、飲み物を飲むわけでもなく、ただ私は一点だけを見つめていた。


『離婚届』


 テーブルに広げられた用紙の、その文字だけを。


 巧との始まりは本当に突拍子もなくて、ただのルームシェアってところから始まった。

 

 いつも自信家でやたら計算高い巧に始めはずっと引いてたけど、私のばあちゃんのこともしっかり考えてくれて、亡くなる時は仕事を投げ出して送ってくれた。落ち込んでる時はそっと励ましてくれた。


 そんな不器用な優しさが三次元お断りだった私の心に響いて付き合いが始まったわけだけれども。


「……終わるの、早かったなあ」


 正直、恋人らしいことってそんなにできてないな。初デートも失敗。その後何回か出かけたけど、旅行も失敗したしな。


 はあ、とため息を漏らし、ただただ涙を流した。巧の子は安西さんのお腹の中ですくすくと育ってる、一日でも早く結論を出して動かなきゃならないのわかってるのに。


 ……動けない。


 何度も拭った涙をもう一度拭いた。巧が出張から返ってきたらちゃんと話してこれを渡さなきゃ。安西さんと結婚すべきだよって、言わなきゃ。だって子供がいるんだから仕方ないよ。


 机に突っ伏して声を上げて泣く。ただ一人、誰にも打ち明けられないまま悲しみと戦った。


 その時だった。広いリビングに、インターホンの高い音が鳴り響いたのは。


 ピタリと泣くのを止める。ゆっくりと顔を上げた。


 こんな時に誰だろう。ネットでなんか買ったっけ。なんかのセールスとか……


 考えている間に再びインターホンが鳴った。催促するようなそれにつらえて、私はふらりと立ち上がる。

 

 訪問者を映し出すモニターを覗きに行った時、一瞬息をのんだ。


 樹くんだった。


 いつだったか突然訪ねてきたときとは違い、彼は真剣なまなざしでこちらを見ている。私は震える手で対応した。


「……はい」


『杏奈ちゃん?』


 厳しい顔でこちらに呼びかける。


「うん」


『ちょっと上げて』


 有無言わさない言い方だった。今までだったら、巧の樹くんを家にあげるなという言いつけを守っただろう。でも今日はそんな言いつけは聞いてられなかった。巧と離婚する今、守る義務はない。


 私は無言でロックを解除した。しばらく経って、今度は玄関前のインターホンが鳴る。私はすっぴんに寝癖がついたままのその格好で樹くんを出迎えた。


 玄関の扉を開けた瞬間、樹くんが私を見てぎょっとした。鏡を良く見ていないけれど、目が腫れているのかもしれない。


「……あ、樹くんどうぞ」


 目元を触りながら彼を招いた。


 樹くんはそのまま玄関に上がり、靴を乱暴に脱ぐ。そして力強い足取りで廊下を進み、リビングの扉を開けた。


 中は無人だ。


 樹くんが振り返って聞いた。


「巧は?」


「え、と……急な出張になっちゃって」


「はあ?」


 信じられない、とばかりに彼が首を振る。しかしすぐに察したのか、私の顔を覗き込んだ。


「まだ話してないの?」


 図星。ゆっくり俯いた。


「ごめん、ちょっとタイミングがなくて……」


「いや、言いにくいのはわかるけど」


 そう言いかけた樹くんがふと、ダイニングテーブルの上にある緑の用紙に気がついた。驚いたように目を丸くし、それを手に取った。


「……離婚、するの?」


 返事ができなかった。しばらくそのまま沈黙が流れる。樹くんは持っていた離婚届をそっと置き、私に詰め寄った。


「離婚するの? 巧と?」


「……だって、そうするしかないよね。相手巧の子供妊娠してるんだよ?」


「そりゃそこの問題は大きいけど! だからって……いや、待って。杏奈ちゃんが離婚したいっていうならしょうがない。他の女孕ませるなんてそりゃ別れたくもなる」


 樹くんはぶつぶつと一人でつぶやいた。そして意を決したように私に尋ねる。


「ねえ、この前言ってたこと。どういうことなの、本当は付き合ってる期間なんかなかったの?」


 聞かれると覚悟していた質問をぶつけられた。


 設定では巧とは一年付き合って入籍したことになっている。でも実際は違う。契約上の結婚で、その後私たちは付き合いだした。まだ浅い関係なのだ。


 今まで必死に樹くんに隠してきたが、ここまで来てしまってもう無理だと思った。それに今更バレてももう構わない。私は諦めて真実を言う。


「前樹くんが言ってたみたいに……私たち、初めは契約結婚だったの」


「は」


「私は祖母が終末期で安心させたかったし、巧はとにかくご両親からの結婚の圧をなんとかしたかったって。二人納得して入籍した。ルームシェアしてただけだったの」


 樹くんはぽかんとしたまま棒立ちになっていた。彼ならこんな答え予想しているかと思っていたのだが、どうやら想定外だったらしい。


「え、でもだって、二人仲良く……」


「それから付き合い出したの。付き合うっていうのも変な言い方だけどね。巧が事故にあった頃からようやくだよ」


「う、うそでしょ……?」


 頭を抱えて理解に苦しんでいた。普通はそうなるか。私は苦笑する。


「だからね、巧は安西さんと私を被らせていたわけじゃないし。私と巧の歴史もすごく浅いの」


「だから……離婚するってこと?」


 私は黙り込んだ。なんて答えていいか分からなかった。

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